一. 流されて異世界
俺は異世界の厨房にいる。記憶は無い。
○
「×××××!!!」
決して伏字ではない謎の怒声を発しながら、コック風の男が大股でこちらにやってきた。
「×××××!?」
相変わらず何を言っているのか分からない。相手も俺に言葉が通じない事を理解している。しかしニュアンスだけは伝えたいのだろうし、しっかり伝わってきている。
怒っている。
「はあ」
皿洗いの手を止めて、卑屈な笑みを浮かべながら生返事をすると、
「×××××!? ×××××! ×××××!!」
茹ですぎた豚のように顔を真っ赤にして、コック風の男――と言うよりこの厨房の主であるコック長らしい――は喚き散らした。
はは、でも何言ってるのかさっぱりわかんねえ。
「すいませんね……」
出来るだけ申し訳なさそうな顔で謝ると、コック長は短く毒づいて肩をいからせ厨房の奥へと消えていった。
「……」
その背中を無言で見つめながら、俺は大きなため息をついた。
俺の言葉はここでは一切通じない。当然、名前はここでは何の意味も無い。ついでに言うと所属も生まれも育ちも趣味も好きだった人も、一切合財無価値で無意味だ(と言うか覚えていないのだが)。
なぜならここが異世界だからである。
今まで過ごしてきた世界での常識は一切通用しない。
巨大なトカゲが火を噴き空を飛び回り、川や海では見たこともないような色の魚がウヨウヨしていた。街にはブタ面の人間や耳の長い白人、ヒゲ面の小人が溢れ返り、剣だの魔法だので武装したり家を燃やしたりしている。
俺がこの世界を見た時の心境を一言で言い表すならば
「××××は本当にあったんだ!」
であるがこの場合は伏字である。ご容赦願いたい。記憶喪失なのだ。
とまあ、そんな感じでわりと慣れ親しんだ剣と魔法の中世欧州風の世界だったわけだ。が、だからと言って何がどうにかなるわけでもない。
着の身着のまま大草原に放り出された俺は、こぶし大程もある無数のダンゴムシに追い掛け回された。泥だらけに泣きながら走った。捕まったら死ぬという本能だけでひたすら逃走した。
命からがら辿りついた小さな街で、俺はさらなる絶望と直面した。
まず捕まった。
完全に不審者である俺は警官らしき村人に捕まり、言語が通じない事に難色を示され、数時間の拘束の後に開放された。開放されたというか、放りだされた。無害なキチガイと判断されたのかもしれないが、何せ言語も文化も違うのでコミュニケーションが取れない。放り出すしか無かったのだろう。
で、その後の事はあまり覚えていない。
俺は何処にも行くことが出来ず、街の中をうろうろと彷徨い続けた。休むことも眠ることも食べることも出来ず「ああ、俺は今社会のモンスターだ……」などと社会的弱者とモンスターの関連性を考察しているうちに、倒れた。
目が覚めれば粗末な木のベッドの上で、屈強な男が俺の顔を覗き込んでいた。
俺はあまりの凶相に悲鳴を上げたが、男は気にした風も無く着替えと食事を与えてくれた。
涙が出た。
初めて人の優しさに触れた……! と異世界の暖かさに感激していたが、世界はそれほど甘くは無かった。親切には見返りが必要なのだ。見返りとは何か。
答えは労働である。
つまり、皿洗いなのだ。
もうお分かりだと思うが、その屈強な男こそがコック長その人である。
「異世界まで来て、何故こんな目に……」
声に出すと、自然と声がかすれてくる。泣いてしまいそうになる。
意思疎通できず、外にも出られず、知り合いの一人もいない。しかも記憶喪失。
自分が二十歳前の子供である事と、男性であること、日本人である事以外、何も思い出せないのだ。
「あ……」
もう一つだけ、思い出せる事がある。
俺が前は違う世界にいて、今は異世界にいるということ。
どっちが異世界だかわかりゃしないが、つまりはそういう事。
ただそれだけ。
今のところは。