崩落
さすがにやりすぎたと思ったのか、夫が少し声音を緩める。
「そもそも余計な金なんか無い。それはお前も知っているだろう」
「真っ当に給料取ってる人間が、なんでそんなに金が無いんだっ!」
「だって、無いモンはないんだモン?」
突然に可愛らしく拗ねた幼児声。無愛想な親父顔で幼児のような仕草は妙な愛くるしさがあって、妻はだからこそ夫を溺愛していたのだが……今日はその仕草も勘に触るばかりだ。
「だいたい、家のローンや光熱費は俺が払っているんだ。食費だってちゃんと渡しているだろう、三万も。この上何が欲しいって言うんだ」
「なにが……?」
解らない。だが確かに、何かを渇望していたような気がする。ふつふつと煮え続けていた感情が形の定まらない怒りとなって、どろりと心のひびに沁みこんでゆく。
「よその奥さんは旦那の稼ぎで車買ったり、食費として使うお金だってもっと余裕があるのに!」
「普通の女はお前みたいなダメ主婦と違って、きちんと、家計の管理ができるんだ。当たり前だろう」
「じゃあ家計をこっちによこしてよ!」
「ダメだ! お前みたいなだらしない女に渡したら、家の財産は食いつぶされるっ!」
小さなひびが奇妙な軋みをあげて広がる。ゆっくりと……
「そもそもお前みたいな女、結婚できただけでもありがたいと思え」
これは喧嘩のたびに言われる事だ。あまりに聞きなれているから、この言葉自体に感慨など既に感じなくなっている。いつもどおり、受け流せばいいだけ……
「あんたはイヤイヤ結婚したのね?」
それは夫にとっても、また妻にとっても予期せぬ言葉だった。
「……お? お前が無理やり俺を手篭めに……」
「つまり……私が悪かったわけだ」
彼女は夫君の幼児性をこよなく愛していた。だからこそ甘やかし、わがままを黙認してきた自分が悪い。
珍しく沈んだ物言いにもかかわらず、夫は妻をさらに貶める言葉を吐く。
「俺にとってお前は本命じゃなかった」
「そう……」
そんなことはとっくの昔に知っている。それでも夫婦として十余年も寄り添っていればもう少し愛情というものがあってもいいでは……そうか、愛情か。
彼女は自分が欲しがっているものをはっきりと自覚した。
長い時間を共に過ごす中で、例え女としてではなくてもいい、何がしかの愛情の形を示して欲しかったのだ。愛は無償のものというが、それでもこの先の何十年を一つの見返りも求めずに暮らしてゆくなど耐えられそうにも無かった。
夫の暴言はさらに続く。
「大体いつも小汚い格好ばっかりで、化粧もしない。女って言うのはもっといい匂いがするのに、お前は親父のにおいがする」
ワゴン売りのTシャツ一枚買うにもお伺いを立てなくてはならない生活を強いたのは彼自身だ。化粧品など不細工には無駄だと買ってもくれなかった。そんな生活の中に埋もれていた反抗心が彼女の中で鮮やかによみがえる。
それは震災の後騒動でくたくたに疲れきった心が突然に翼を得た瞬間だった。
「出て行くならお前一人で出て行けよ。子供たちは置いてゆけ」
毎回聞かされ続けた脅しの文句だ。それがいやで今日までずるずると暮らしてきたが、もはやその言葉には何の効力も無い。
「解った。それがそっちの条件ね。こっちも面会権だけはもらうから」
日本が揺れたあの日から、いや、もっと前から彼女は夫に愛されたくて『普通の女』になろうとしていた。いつかは夫が大事な家族だと思ってくれると信じて。
だが、彼にそんな妻の心は欠片も届きはしなかった。物流も回復しない中、妻が苦心して買い込んだインスタントラーメンは彼のおやつとして食い尽くされた。冷蔵庫に隠したチョコレートをつまみ代わりにぺろりと平らげ、夜のおやつだと嘯く。子供のことも考えたら、親は我慢するべきだと訴える妻に向かってはお決まりの台詞。
「怒鳴るな、キチガイ」
……当然の仕打ちだ。彼は妻の苦しむ姿など一つも見ようとはしていなかったのだから。
「たった一言、『心配ないよ』と言って欲しかった」
表面に小さく見えたひびは予想以上に深かったのだろう。夫婦の間を分かつほどに深く……この日、妻は夫への『片思い』を手放した。




