綻び
ドアの上に細く刻まれたひびは、石膏ボードのズレによる表面的なものだろう。井戸の濁りも外水道を開け放つことによって改善された。余震もほとんどなくなり平穏な日常を取り戻したある日、妻はそのひびを指でなぞりながら夫に言う。
「それでも一度、総点検した方がいいよね」
振り向く妻に、夫はいかにも興味なさそうに携帯をいじりながら答えた。
「そんな金は無いよ」
「金のあるなしの問題じゃないでしょ。見た目的にもクロスの張替えくらいは……」
「家が傾いているならともかく、きちんと真っ直ぐに立ってるんだ。何の問題も無いよ」
これが普通の男性の言葉ならどれほどに心強かっただろうか……家庭内の仕事のできない男を揶揄する言葉として『釘の一本も打てない』というのがあるが、この夫君はさらにその上を行く『増す締めの一つもできない』男なのだ。
結婚当初から補修関係は妻の担当。それだって道具一つ買ってくれるわけではないのだから、やっつけ仕事だ。そんな男の言葉など何の説得力も無い。
「じゃあせめてケータイ、パケほーにしてよ」
今度の震災の教訓を受けて様々なコミュニケーションツールが非常時の安否確認をシステムに組み込んでいる。身内が遠く離れていればこそ、ぜひともその機能を手に入れたいと思ったのだが……彼はその言葉を相当に曲解したらしい。
「それは俺に対する嫌味かっ!」
原色鮮やかなゲーム画面を開いたままのケータイが、めきょっと彼女の腹に叩きつけられた。
「ゲームぐらい、いいだろ! 課金だってしていないし、誰に迷惑をかけているわけでもない!」
「迷惑なら散々かけられたよ! イベントのたんびに下請けにだしてさあ。やりたくも無いゲームをやらされるこっちの身にもなってよ!」
「俺は仕事をしているんだ! ゲームぐらい、お前がやってくれて当たり前だろう!」
「ふうん、ゲームぐらい……?」
ケータイゲームのシステムは巧妙だ。自分の得点のほかにイベント中の仲間同士で共有する加点がある。あまりにそのポイントを稼げないものは仲間を集めることすらできない。それを補うのは課金による特殊な アイテムを使うか、無課金で時間を使うか……
「あんまり点数が悪いと、オトモダチに嫌われるんだよ!」
そのオトモダチだって、彼女は名前しか知らない。ゲーム自体を下請けに出しておきながら、オトモダチとのやり取りのメールなどは見ることも許されていないからだ。
「お前だってパソコンでゲームやっていたから知ってるんだろ!」
大手オンラインゲームの、それもパズルゲームを少々やっただけだ。ケータイゲームと同じように協力してプレイできるゲームもあると知った夫から「やめないならネット代は払わない」と脅されてすぐにやめた。
そもそもが、この夫は妻が誰かに連絡を取るのをよしとしない。友人から電話があれば話しこむ彼女の背中に向けてわざとらしい大声で嫌味を言い続け、身内からメールがあれば妻が泣き出すまでメールの相手を罵倒する。
それが愛情による独占欲だと勘違いしていたなど今となってはお笑い種だ。甘える仕草も、強情なまでの束縛も、全ては『愛する女』を失うまいとするがゆえの行動ではなく、『自分を愛してくれる女』を身近にとどめておこうとする閉塞的な自己愛なのだから。
この日、決して引き下がろうとはしない彼女に向けて放った夫の一言は、それを顕著に物語るものだった。




