『狩猟月の夜、銀狼の魔族に運命ごと奪われました』
十月の冷気は、石畳の底からじわじわと靴底を伝って這い上がってくる。
空を見上げれば、赤銅色の光を放つ巨大な月が、鋭い夜の稜線に腰掛けていた。ハンタームーン――狩猟月。獣たちが冬を越すために血を求め、狩人が獲物の気配に耳を澄ませる、もっとも凶暴で妖しい満月だ。街の広場からは、もうすぐ訪れるハロウィンの祭りを先取りした喧騒と、焼き林檎やシナモンの焦げた甘い匂いが風に乗って届いていた。
「……はぁ。冷えてきたな」
白い息を吐き出しながら、僕――ルカ・エルンストは、王都の裏通りを急いでいた。
エルンスト伯爵家の跡取り。それが、前世の記憶を持ったままこの異世界に生まれ変わった僕の肩書だ。
獣人や魔族が共存し、『運命の番』という魂の結びつきが存在するこの世界で、僕はごく普通の人間として育った。二十歳を迎え、名門貴族の令嬢であるソフィアとの婚約も整っている。ソフィアは穏やかで心優しい女性だ。運命の番という奇跡のような存在に出会えなくとも、彼女となら温かく平穏な家庭を築いていける――そう信じていた。
今日までは。
「ねえ、そこの可愛いお兄さん」
不意に、背後から影が伸びた。
まるで夜の帳そのものが実体化したかのような、滑らかで低い声。寒気とも違う、背骨を直接爪先でなぞられたような戦慄が走り、僕は思わず足を止めて振り返った。
「――っ」
息を呑む、という表現すら生ぬるかった。喉が引き攣り、心臓が肋骨の内側を激しく打ち鳴らす。
そこに立っていたのは、この世のものとは思えないほど美しい男だった。
月明かりを浴びて淡く青白く輝く銀糸の長髪。雪のように透き通った白い肌。そして、黒瑪瑙を削り出したかのような深い闇の中に、血の色の環を浮かべた紅蓮の瞳。漆黒のマントを羽織ったその姿は、ハロウィンの仮装などという児戯を遥かに超越した、本物の捕食者の気配を纏っていた。
男は、薄い唇を妖艶に歪めて微笑んだ。
「トリック・オア・トリート。……お菓子をくれないと、悪戯しちゃうよ?」
冗談めかした台詞なのに、その声には抗えない魔力が孕まれていた。空気が重く澱み、肺に酸素が入ってこない。男が一歩、また一歩と間合いを詰めてくる。そのたびに、甘やかな沈丁花と冷たい雨のような香りが僕の鼻腔を支配していく。
「あ、の……君は……」
掠れた声しか出ない僕を見て、男の紅蓮の瞳が歓喜に細められた。
「やっぱり、君だ。遠くからでも、魂の匂いで分かった」
「え……?」
「やっと見つけた。僕の、半身」
男の冷たい指先が、僕の頬に触れた。
その瞬間――ドクン、と全身の血液が沸騰したかのような衝撃が走った。
頭の芯が痺れ、視界が白く明滅する。皮膚の接触面から、言葉では言い表せない強烈な熱と甘美な痺れが全身の神経を駆け巡った。本能が、細胞が、魂が、大音量で叫んでいる。
――こいつだ。この男こそが、僕の『番』だ、と。
「あっ……う、あ……っ!」
立っていられなくなり、膝から崩れ落ちそうになった僕の腰を、男の強靭な腕がすくい上げた。抱きすくめられた胸板から、驚くほど力強く、僕のものと寸分違わず同期した心音が響いてくる。
「嘘だろ……なんで……」
僕は男の肩口に縋りついたまま、震える声で喘いだ。
この世界の『番』は、男女の間でしか結ばれないはずだ。少なくとも、人間の貴族社会の常識ではそう教えられてきた。男同士の番など、おとぎ話の奇病か、遠い魔族の伝説でしか聞いたことがない。
何より――。
「ぼ、僕は……男だぞ……っ!」
「知ってるよ。見れば分かる」
男はクスリと喉を鳴らし、僕の耳元に唇を寄せた。吐息がかかるだけで、首筋に粟が立つ。
「僕はノア。銀狼族の血を引く魔族だ。僕たちにとって、番の性別なんて何の意味も持たない。魂の形が合致するかどうか、それだけだ。……君の名前は?」
「る、ルカ……ルカ・エルンストだ……離してくれ、ノア……!」
「ルカ。ルカ……ああ、呼ぶだけで胸が千切れそうに甘いな」
ノアは僕の懇願を無視し、僕の項に鼻先を埋めて深く息を吸い込んだ。
「いい匂いだ。人間の街の埃っぽさも、他の誰の気配も、全部僕の色で塗り潰してしまいたい」
背筋を突き抜ける快感に、涙が滲む。抗おうとしてノアの胸を突くけれど、僕の腕の力など小鳥の羽ばたきほどにも感じていないようだった。
だめだ。流されてはいけない。僕には、守るべき日常がある。
「だめだ……っ! 僕には、婚約者がいるんだ!」
僕が叫ぶと、ノアの動きがぴたりと止まった。
夜風が吹き抜け、路地のゴミをカサリと揺らす。
頭上では、ハンタームーンがぎらぎらと紅い光を撒き散らしていた。
「……婚約者?」
ノアがゆっくりと顔を上げた。その紅蓮の瞳から、先刻までの甘美な熱がふっと消え、凍てつくような残虐な光が宿る。
「女?」
「そ、そうだ……! ソフィアという、心優しい令嬢がいる。親同士が決めたことだが、僕は彼女を不幸にするわけにはいかないんだ! 家も、立場もある……! 男同士で番だなんて、そんなこと認められるはずがない!」
一気にまくし立てた僕を、ノアは無表情で見つめていた。
銀の長髪が夜風に揺れ、美貌が冷酷な刃物のように研ぎ澄まされていく。
「家? 立場? ……そんな紙切れよりも脆い下らない理由で、僕以外の誰かにその身を委ねるつもりだったのかい?」
「下らなくなんかない! それが、僕が生きてきた世界だ!」
「違うね」
ノアの長い指先が、僕の顎を強引に持ち上げた。有無を言わさぬ力で視線を固定される。
「君の世界は、今この瞬間に塗り替えられたんだよ、ルカ」
「な……っ」
「胸に手を当ててごらん。君の心臓は、今、誰のためにそんなに狂ったように跳ねている? その顔の赤さは、冷気のせいかい? 僕に触れられて、奥のほうが疼いてたまらないんだろう?」
図星を指され、言葉を失う。
前世の価値観も、今世の道徳も、この圧倒的な魂の引力の前では砂の城のように崩れ去っていく。男に抱きしめられて快感を覚える自分に、恐怖と羞恥で気が狂いそうだった。
「……お願いだ、ノア。見逃してくれ」
僕は視界を滲ませながら、絞り出すように懇願した。
「僕は、普通に生きたいんだ。貴族の跡取りとして、妻を娶り、穏やかに暮らしたいんだよ……!」
ノアの瞳が、わずかに揺れた。
ほんの一瞬、傷ついたような色が過った気がした。けれど次の瞬間、彼の唇には残酷なほど蠱惑的な弧が描かれた。
「だめだよ。言っただろう? トリック・オア・トリートだって」
ノアは僕の腰を抱き寄せ、密着させた。逃げ場のない熱が、薄い布地を通して直接伝わってくる。
「お菓子をくれないなら、悪戯するしかない。……僕にとってのお菓子は、君の心と躰のすべてだ」
「待っ――」
拒絶の言葉は、冷たく柔らかな唇によって塞がれた。
「ん……っ!? んん……っ!」
強引で、けれど痛烈なほど丁寧な口づけだった。
僕の唇を割り、舌が滑り込んでくる。口腔の隅々まで侵略され、絡め取られるたび、頭の芯で何かが焼き切れる音がした。唾液が混じり合い、銀の糸を引く。
甘い。苦しい。息ができないのに、もっと欲しいと僕の舌が勝手にノアを迎えに行ってしまう。
「あ……ふ、ぁ……ノ、ア……」
わずかに唇が離れた隙に漏れたのは、自分でも信じられないほど淫らな嬌声だった。
ノアは濡れた唇を舌でなぞり、獲物を完全に仕留めた狩人の目で僕を見つめた。その瞳の奥には、狂おしいほどの執着と情愛が渦巻いている。
「いい声だ、ルカ。……もう、あんな女のところへ帰すと思う?」
「で、も……婚約、が……」
「僕が奪ってあげるよ」
ノアは僕の涙を指先で優しく拭い、その雫を自分の舌で舐めとった。
「君の家も、立場も、婚約者も、人間どもの世間体も……君を縛るすべての鎖を、僕が焼き切ってあげる。君はただ、僕の腕の中で泣いて、僕の名前を呼んでいればいい」
「そんなの……暴論だ……っ」
「愛の略奪だよ。今夜はハンタームーンだ。狩人が獲物を攫っていくのに、これ以上の言い訳があるかい?」
ノアは僕を軽々と横抱きに抱き上げた。重力感がふわりと消え、彼の冷たいマントが僕の全身を包み込む。
遠く、ハロウィンの鐘が鳴り響いた。日付が変わる合図だ。
見上げた夜空には、妖しく燃え盛る紅い月。
僕の平穏だった日常は、音を立てて崩れ去った。明日からの生活がどうなるのか、ソフィアになんと詫びればいいのか、家はどうなるのか――数え切れない不安が渦巻いているはずなのに。
ノアの首に回した僕の手は、どうしても彼を突き放すことができなかった。
「……逃がしてくれないんだろ」
諦めと、自暴自棄と、そして抗えない歓喜を混ぜて呟くと、銀髪の狩人はこの上なく美しく、満足げに微笑んだ。
「死んでも離さないよ。ハッピー・ハロウィン、僕の可愛い獲物」
闇が跳梁する夜の中へと、僕たちは溶け込むように落ちていった。




