第13話
「でも、私が確率なしで動く限り、ヴィオさんの計算は狂う」
「……そうですね」
ドウが立ち上がった。
空になったカップを持って、窓の方に少し歩いた。窓の外の光が傾いている。確率値がドウの周囲をゆっくりと漂う。ドウはその確率値を見ているのか、窓の外を見ているのか、ルカには分からなかった。
「ドウさん」
「はい」
「やっぱり、今日は何か違います」
ドウは窓の外を向いたまま、少し間を置いた。
「そうですかね」
「そうですかね、では」
「そうですかね、たぶん」
ドウが振り返った。いつもの眠そうな顔だった。飄々とした、掴みどころのない表情。でも——目が、少しだけ違う気がした。ルカが見た時には、もういつも通りだったけれど。
「では、明日ヴィオさんに当たりましょう」
ドウが言った。
「そうですね」
ルカが答えた。
「今日はこれで」
「お疲れ様です」
ドウがカップを持って立ち上がりかけた時、ルカは言った。
「ドウさん」
「はい」
「……なんでもないです」
ドウは少し間を置いた。
「そうですか」
それだけ言って、ドウは立ち上がった。カップを棚に戻した。扉に向かいながら、振り返らずに言った。
「……面白い数値ですよ、たぶん」
声が、今日一番低かった。
ルカは返事をしなかった。
ドウが扉を開けて、廊下に出ていった。扉が静かに閉まった。
ルカは一人、茶室に残った。
テーブルの上に資料が重なっている。窓の外の光が傾いている。部屋の確率値がいくつか、ゆっくりと漂っている。
「面白い数値」
ルカは呟いた。
今日だけで、何度聞いただろう。いつもと同じ言葉なのに、今日だけ声の底に何かが沈んでいた。言葉の重さが違った。
「今日は特に面白い、と言っていた日もあった」
それはいつだったか。Ch.16の時だったか。あの日もドウは振り返らずに去った。今日も振り返らなかった。
ルカは資料を手に取った。ヴィオの名前が書かれた一枚。明日、この名前の人物と正面から向き合う。
「確率なしで動く」
ルカはもう一度、自分に言い聞かせるように呟いた。
窓の外の光が、さらに傾いた。確率値の光だけが、部屋の中で静かに浮遊している。
ルカは資料を鞄に入れた。立ち上がった。
扉に向かいながら、ふと振り返った。誰もいない部屋。テーブルの上の確率値がいくつか、まだゆっくりと漂っている。
ドウが座っていた椅子の周辺に、確率値が一つだけ、他より少しだけゆっくり動いていた。気のせいかもしれない。確率値の動きに個人差はない——はずだ。
ルカは扉を開けて、廊下に出た。
廊下はもう薄暗かった。遠くでドウの足音がする。その足音が、いつもより少しだけ遅い気がした。
ルカは廊下を歩き始めた。明日のことを考えながら。ヴィオの完璧な敬語を、どう崩すかを考えながら。
頭の隅に、ドウの声の低さが残っていた。
「……面白い数値ですよ、たぶん」
言葉は同じだった。でも今日の声は——。
ルカは首を振った。
明日のことを考えなければ。
廊下の突き当たりに、人が立っていた。
朝の光が細い窓から斜めに差し込み、石畳の床に長い影を落としている。ギルドの廊下は一本道だ。左右に逃げ場はなく、引き返せば来た方向しかない。その事実をルカが認識するのと、廊下の中央に立つ人物が誰であるかを確認するのは、ほぼ同時だった。
奏確ヴィオが、こちらを見ていた。
「零花さん」
敬語が廊下の石壁に反響する。温度のない、しかし丁寧な声だった。「少し、お時間をいただけますか」
ルカは足を止めた。後ろでドウが静かに並ぶ気配がある。廊下の端、少し離れた位置にゴンが立っているのも視界の端で確認した。ゴンは何も言わない。珍しいことだと、どこかで思った。
ヴィオの周囲の確率値が、ほかの場所より静止して見えた。浮遊する数値はどこでも常に揺れ動いているものだが、ヴィオの半径一メートルほどだけ、まるで凪いだ水面のように動かない。
「お時間をいただく、というより」ルカは廊下を歩き続けた。足を止めたのは一瞬だけで、今はヴィオに向かって進んでいる。「こちらから伺おうとしていたところです」
「そうですか」
ヴィオは動かない。待ち構えているというより、そこに存在しているという感じがした。確率師ギルドの廊下に、それ以外の何ものでもない存在として立っている。
ルカは距離を詰めながら、ヴィオの確率値を観察した。静止している。整然と、不自然なほど整然と。
「ずいぶん早い時間に来られましたね」ルカは言った。「今日は何か、ご予定でも?」
「いえ」ヴィオは首を傾けた。ほんのわずかに。「零花さんがいらっしゃると思いまして」
「私が来ると分かっていた」
「ギルドへの定期報告の日程は、記録に残っています」
合理的な答えだった。反論の余地がない。ルカはそれを承知で別の角度から問いを放った。
「ヴィオさん。先日、取引所で奇妙なことがありました」
「はい」
「確率値が不規則に動きました。私の周囲で」
ヴィオは答えなかった。一拍——
一拍だけ、沈黙があった。
ルカはその沈黙を見逃さなかった。ヴィオの完璧な敬語は、完璧な速度で返ってくるはずだった。それがほんのわずかに遅れた。ほんの少しだけ、ヴィオの思考が走った痕跡。
「それは」ヴィオが言った。「取引所の混雑による観測値の乱れではないでしょうか。あの日は特に高額取引が集中していましたから」
「そうかもしれません」ルカは言った。「ただ、乱れのパターンが少し特殊でした。方向性があった」
「方向性」
「ええ。ランダムな乱れではなく、特定の方向から」
ヴィオは微笑んだ。完璧な微笑みだった。感情の痕跡がどこにもない、丁寧な表情。
「観測者バイアスではないでしょうか。零花さんの注意が特定の方向に向いていれば、確率値の動きもその方向から来るように見えることがあります」
「確かに」
ルカは頷いた。合理的な説明だ。観測者バイアスは実在する。ヴィオの言っていることは正しい。
だが。
「ヴィオさんは、あの日の午後、どちらにいらっしゃいましたか」
沈黙。
今度はもう少し長い沈黙だった。ヴィオの微笑みは変わらない。しかし何かが、ほんの少しだけ変わった。廊下の光の中で、ヴィオの輪郭がわずかに固まったように見えた。
「ギルドの書庫におりました」
「一日中?」
「午後の大半は」
「誰かと一緒でしたか」
「記録の確認は、一人で行うことが多いです」
ルカは一歩、ヴィオに近づいた。
「では、アリバイの証人はいない」
ヴィオが笑った。今度は少しだけ違う笑い方だった。先ほどより、わずかに温度があった。
「零花さん、私を疑っていらっしゃるのですか」
「確認しているだけです」
「なるほど」ヴィオは言った。「確率師として、当然の手続きですね」
「ありがとうございます」
ルカは廊下の石壁に視線を走らせた。ヴィオの周囲の確率値は、依然として静止している。整然と、不自然なほど整然と。これは何だ。通常、人間の周囲の確率値は感情の揺れに応じて動く。怒れば上昇し、落胆すれば下降し、驚けば乱れる。それがヴィオの周囲では起きていない。
完璧な制御。
あるいは——
「ヴィオさん」ルカは言った。「一つ、お聞きしてもいいですか」
「どうぞ」
「確率値は、何を見せているものだと思いますか」
ヴィオの微笑みが、一瞬だけ止まった。
本当に一瞬だけだった。廊下の光が揺れたか、あるいはルカの目が一瞬ぶれたか、そう思えるほど短い停止だった。しかしルカはそれを見た。
「未来の可能性ですね」ヴィオは言った。「それがこの世界の基本的な理解です」
「そうですね」
「零花さんはそう思っていらっしゃらないのですか」
「私は確率師ですから、当然そう思っています」ルカは言った。「ただ、以前あなたが『現在を映す鏡』とおっしゃっていたのが、少し気になっていて」
ヴィオの目が、ほんの少しだけ細くなった。
「あれは、言葉の綾です」
「そうですか」
「確率値は未来の可能性を映します。それは疑いようのない事実です」
「ええ」
ルカは頷いた。そして、ほんの少しだけ間を置いてから、言った。
「今、計算しましたね」
廊下が静止した。
石壁も、光も、浮遊する確率値も、すべてが一瞬だけ止まったように感じた。ヴィオの表情は変わらない。微笑みも崩れていない。しかし——
「……何のことでしょう」
その返答が、短すぎた。
ヴィオの言葉は常に丁寧で、長く、余裕がある。「なるほど、それはどういう意味でしょうか」でも「少し意味が取れませんでした」でもなく、ただ「何のことでしょう」という最小限の言葉だった。
ルカは何も言わなかった。ヴィオも何も言わない。廊下の光だけが動いている。
ヴィオの周囲の確率値が、一つだけ動いた。
ほんのわずかに、ほんの一つだけ、静止していた確率値が揺れた。ルカはそれを見た。ヴィオは見せていないつもりだろう。あるいは気づいていないかもしれない。しかしルカは確率師だ。確率値の動きを読むことが職業だ。
「失礼しました」ルカは言った。「少し話が飛びすぎましたね」
「いいえ」ヴィオは言った。「零花さんの調査が進んでいるのであれば、それは喜ばしいことです」
「ありがとうございます」
「何か、ご協力できることがあれば」
「あれば、またお声がけします」
ルカはヴィオの横を通り過ぎた。廊下の先に向かって歩き出す。ドウが後ろについてくる気配がある。ゴンが廊下の端で何か言いたそうにしているが、今は黙っている。
背後でヴィオが立ったまま、動かない気配がした。
ルカは振り返らなかった。
廊下の角を曲がったところで、ゴンが口を開いた。
「嬢ちゃん」
「嬢ちゃんと呼ぶな」
「あの人、普通じゃなかったな」
ルカは足を止めた。ゴンにしては珍しい言い方だった。「普通じゃなかった」という言葉は、ゴンの語彙の中では滅多に出てこない。たいていは「やばかった」か「えぐかった」か、あるいは「知らんけど」で終わる。
「どこが?」
「なんか、計算してる感じがした」ゴンは腕を組んだ。「俺、残高荒稼ぎで色んな人間見てきたけど、あのタイプは苦手やわ。数字で人間見てる感じがして」
「確率師ですから」
「嬢ちゃんも確率師やろ。でも嬢ちゃんはそんな感じしない」
ルカは何も言わなかった。ゴンが「知らんけど」と付け加えて歩き出した。
ドウが隣に並ぶ。
「ヴィオさんの確率値、見えましたか」ルカは言った。
「見えました」
「どうでしたか」
ドウは少し間を置いた。茶を飲む動作がないのに、この間があった。
「静止していましたね、ほとんど」
「ええ」
「ああいう確率値は、あまり見ません」
「どういう意味ですか」
「人間の確率値は、感情に応じて動くものです」ドウは穏やかに言った。「怒ったり、驚いたり、何かを決意したりすると、確率値が動く。それがほとんどない、というのは」
「感情がないか」
「あるいは」
ドウが言いかけて止まった。
「あるいは?」
「感情はあるけれど、それが確率値に出ないように、何かをしているか」
ルカは立ち止まった。廊下の先に、ギルドの書庫への入口が見える。
「確率値を、制御している」
「そうかもしれません」
「それは可能なんですか」
「確率師として、観測の精度を上げることは可能です」ドウはゆっくりと言った。「ただ、自分の確率値を他者から見えにくくする、という技術については——私はあまり詳しくない」
「でも、あり得ると思いますか」
ドウは少し考えた。考えるというより、何かを確認するような間だった。
「あり得ると思います、たぶん」
ルカは歩き出した。書庫の方向ではなく、さっき来た廊下を引き返す方向に。
「どこへ?」ゴンが聞いた。
「もう一度、ヴィオさんと話します」
「えっ、さっき話したやん」
「足りませんでした」
ゴンが「知らんけど」と言いながらついてくる。ドウは何も言わずに並んだ。
廊下を戻ると、ヴィオはまだそこにいた。
移動していなかった。廊下の中央に、先ほどと同じ位置に立っている。まるで待っていたかのように。
「もう一つ、よろしいですか」ルカは言った。
「どうぞ」
「先ほど、私が『今、計算しましたね』と申し上げた時——」
「はい」
「ヴィオさんは『何のことでしょう』とお答えになった」
「そうですね」
ルカはヴィオの目を見た。ヴィオも見返している。廊下の光の中で、二人の間に浮遊する確率値が静かに漂っている。
「ヴィオさんのお答えは、いつも丁寧で長いです」ルカは言った。「私が何か言えば、それを受け取って、整理して、丁寧に返してくださる。それがヴィオさんの話し方です」
「そうですか」
「でも、あの時は短かった」
沈黙。
今度は長い沈黙ではなかった。ヴィオは微笑んだままだ。しかし何かが、ほんの少しだけ変わっていた。廊下の光の中で、ヴィオの輪郭がわずかに固くなったように見えた。
「言葉が足りませんでしたか」ヴィオは言った。「では、改めて。零花さんが『今、計算しましたね』とおっしゃった意味が、私には少し分かりかねました。確率師として常に計算をしているのは当然のことですし、それを指摘されることの意図が——」
「分かりました」ルカは言った。
ヴィオが止まった。
「分かりました?」
「説明していただかなくて結構です」ルカは言った。「ありがとうございます」
ヴィオは少しだけ、何かを考えた。
「……何が分かったのでしょう」
「あなたが今、私の意図を確認しようとしたということが」
廊下が静止した。
先ほどとは違う静止だった。先ほどは一瞬だったが、今回は少し長い。ヴィオの微笑みが、ほんのわずかだけ揺れた。揺れた、というより、固まった。固定された表情というのは、生きている人間の顔には見えないことがある。
「零花さん」ヴィオは言った。声は穏やかだ。「あなたは面白い確率師ですね」
「そうですか」
「計算の外から来る、という感じがします」
ルカは何も言わなかった。
「確率師は通常、確率値に基づいて動きます」ヴィオは続けた。「ですから、相手の行動はある程度予測できる。確率値が高い行動を取るだろう、低い行動は避けるだろう、という予測の枠組みがある。ところが零花さんは——」
ヴィオが止まった。
「私は?」
「いえ」ヴィオは微笑んだ。「失礼しました。少し話が逸れました」
「いいえ」ルカは言った。「続きをお聞きしたいです」
ヴィオは少し間を置いた。
「続きは、特にありません」
「そうですか」
「ただ」ヴィオは言った。「零花さんの調査が正しい方向に向かっているとしたら、それはいくつかの意味で、興味深いことになります」
「どういう意味ですか」
「正しい方向というのは、必ずしも安全な方向ではないということです」
ルカは一拍置いた。
「それは、警告ですか」
ヴィオは首を傾けた。
「情報提供です」
「区別が難しいですね」
「そうですね」ヴィオは言った。「では、こうしましょう。私は確率師ギルドの一員として、この調査に全面的に協力する意思があります。何かお役に立てることがあれば、いつでもお声がけください」
「ありがとうございます」
ルカは頷いた。ヴィオも頷いた。
廊下の光の中で、二人が向かい合ったまま、少しの間、動かなかった。
「では」ルカは言った。
「はい」
「失礼します」
「ご武運を」
ルカは歩き出した。今度こそ、振り返らずに。
廊下の角を曲がる直前、ゴンが小声で言った。
「詰んでるやん……知らんけど」
ルカは答えなかった。ゴンの言葉の意味は分かった。分かった上で、答える言葉がなかった。
角を曲がって、三人は廊下の先へ向かった。
ルカの頭の中で、ヴィオの言葉が繰り返されていた。
*計算の外から来る、という感じがします。*
その言葉の意味を、ルカはまだ完全には把握できていなかった。しかし何かが、そこにある気がした。何か大切なものが。
「ドウさん」ルカは歩きながら言った。
「はい」
「ヴィオさんの確率値、あの時どうでしたか。私が『今、計算しましたね』と言った後」
ドウは少し間を置いた。
「一つだけ、動きましたよ」
「動いた」
「ええ。静止していた確率値が、一つだけ」
ルカは立ち止まった。
「どの方向に?」
ドウが少し考えた。
「横向きに、たぶん」
横向き。
ルカは確率値の動きのパターンを頭の中で整理した。上向きは高揚や決意。下向きは落胆や諦め。不規則な動きは混乱や驚き。では横向きは——
「横向きというのは、あまり見ないパターンですね」
「そうですね」ドウは穏やかに言った。「私もあまり見たことがないです」
「どういう意味があるんでしょう」
「さあ」ドウは言った。「でも、ルカさんの確率——」
ドウが止まった。
ルカは振り返った。ドウは廊下の先を見ている。何を見ているのか、ルカには分からない。
「今日は、なかなか面白い数値ですよ」
ドウは言った。穏やかに、いつもの口調で。
「具体的には?」
「あ、あそこで揉めてますね」
ゴンが廊下の先を指差した。ギルドの別の部屋から、誰かの言い争う声が聞こえてくる。
ルカはドウを見た。ドウは廊下の先を見ている。
「ドウさん」
「はい」
「さっきの話の続きは?」
「後で」
「また後でですか」
「今は少し、確認したいことがあります」
ドウはそう言って、廊下の先へと歩き出した。
ルカはその背中を見た。ゴンが「知らんけど」と言いながらドウの後を追う。
廊下の向こうで、揉め声が続いている。浮遊する確率値が、争いの熱気に揺れている。
ルカは一拍だけ立ち止まった。
ヴィオの言葉が、まだ頭の中にある。
*零花さんは、計算の外から来る。*
その言葉を、ヴィオはなぜ言いかけて止めたのか。
言いかけて止めたということは、言いたいことがあったということだ。
ルカは歩き出した。答えは、次の対面で引き出せるはずだった。
窓から差し込む午後の光が、テーブルの上の確率値を斜めに照らしていた。
数個だけ浮遊している。この部屋は静かだ。取引所の喧騒が嘘のように、ここには確率値の光しかない。
ルカはテーブルを挟んで、奏確ヴィオと向かい合っていた。
ヴィオの周囲の確率値は、いつも通り静止して見えた。動かない。他の場所では常に揺れ続けているはずの数値が、ヴィオの側だけ水面のように平らだった。
ルカはその静けさを、今日も「この人は確率値の制御に長けているのだ」と処理した。
「では、改めて確認させてください」
ルカが口を開いた。声のトーンは平坦だ。職業的な確認口調。
「ヴィオさんは、事件当日の午後二時から三時の間、どちらにいらっしゃいましたか」
「記録室です」
ヴィオの返答は速かった。丁寧で、過不足がない。
「ギルドの記録室で、過去の観測データを確認しておりました。これは私の習慣でして、週に三度は必ず立ち寄ります。担当者にも確認が取れるかと思いますが」
「ありがとうございます」
ルカは手元の資料に目を落とした。記録室。また記録室だ。
廊下でヴィオの名前を聞いたのはいつだったか。三日前か、四日前か。記録室の扉の取っ手が磨り減っていたのを思い出した。几帳面な人だな、とその時は思った。
「次に、事件当日に取引所の北西エリアへ立ち寄られたかどうかを——」
「立ち寄っておりません」
また速い。
「私は記録室から直接、ギルドの会議室へ向かいました。その後は夕方まで会議です。複数の証人がおります」
「そうですか」
ルカは短く答えた。
膠着だ。
ヴィオの答えは完璧だった。どの問いにも、過不足なく、過剰でもなく、ちょうど必要なだけの言葉が返ってくる。アリバイは確認済みだ。証人もいる。確率値も正常だ——少なくとも、ルカが前回観測した時は。
「ヴィオさん」
ルカは資料から目を上げた。
「少し、別の話を聞かせてください」
「どうぞ」
ヴィオの表情は変わらない。穏やかで、丁寧で、完璧だ。
「被害者の一人が、事件当日に『感触が違った』と証言していました。観測の感触が。具体的に何が違ったのかは言えないが、何かがおかしかったと」
「観測者バイアスではないでしょうか」
ヴィオはすぐに言った。
「確率値は観測者の状態によって変動します。被害者の方々は動揺されていたでしょうから、観測精度に影響があったとしても不思議ではありません」
「そうですね」
ルカは頷いた。
そうだ、そうなんだ。観測者バイアス。それが正しい。ルカは何度もそう結論を出してきた。
なのに。
なのに、なぜだろう。
ルカは自分の中に、薄い棘のようなものが刺さっているのを感じた。言語化できない引っかかり。証言の食い違いが「系統的すぎる」という感覚が、何度か頭をよぎっては消えていた。
「零花さん」
ヴィオが口を開いた。
「一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
ルカは顔を上げた。
ヴィオが自分から問いを立てるのは珍しかった。これまでの会話は、ルカが問い、ヴィオが答えるという構造だった。
「どうぞ」
「あなたは」とヴィオは言った。「確率値が何を見せているものだと思いますか」
沈黙が落ちた。
ルカは一拍置いた。質問の意図を測る。頭脳戦の戦術か。話題を逸らそうとしているのか。それとも——
「未来です」
ルカは即答した。
「確率値は、行動の成功可能性を示します。つまり未来の予測です。それがこの世界のルールでしょう」
「そうですか」
ヴィオは静かに言った。
それだけだった。「そうですか」。反論もなく、同意もなく、ただその二文字だけ。
ルカはヴィオの横顔を見た。
ヴィオが窓の外に目を向けていた。中庭が見える。石畳の上に午後の光が落ちている。
その横顔に、何かがあった。
うまく言葉にできない。疲労、というには薄い。憂鬱、というには静かすぎる。ただ、これまでのヴィオの表情とは少し違った。完璧な制御者の仮面に、ほんの少しだけ、人間的な何かが滲んでいた。
ルカはその変化を認識したが、「頭脳戦の戦術だろう」と処理した。ヴィオが感情的な揺さぶりを使っているのかもしれない。あるいはただ疲れているだけか。
いずれにせよ、今は追及だ。
「では」とルカは言った。「もう少し具体的な話に戻りましょう。事件当日、被害者たちが観測を受けた確率師の特徴について、ヴィオさんはご存知のことはありますか」
「存じません」
また速い。
また完璧だ。
「私はその時間帯、記録室と会議室にしかおりませんでした。取引所の北西エリアで何が起きていたかは、報告書でしか知りません」
「そうですか」
ルカは資料に目を戻した。
膠着が続く。
ヴィオの答えは完璧だ。すべての問いに対して、すべての答えが用意されている。まるで最初から準備していたように。
いや、実際に準備しているのかもしれない。ヴィオはそういう人間だ。想定問答を事前に組み立て、最適な答えを選んで出力する。それがヴィオの在り方だ。
ルカは次の問いを探した。
どこかに亀裂がないか。どこかに、計算の外から来る問いを投げられないか。
「ヴィオさん」
ルカは資料を置いた。
「一つ、確認させてください。あなたは確率師として、観測者バイアスをどのように扱っていますか」
「どういう意味でしょうか」
ヴィオが問い返した。今度は少し間があった。ほんの少しだけ。
「観測者バイアスは、観測者の感情状態や期待値によって確率値の読み取りが歪む現象です。これを意図的に利用することは、確率師の倫理上、どのように位置づけられると思いますか」
「禁じられています」
ヴィオは言った。
「確率師ギルドの倫理規定において、観測者バイアスの意図的な誘発は厳禁です。確率値の公正な観測を妨げる行為ですから」
「そうですね」
ルカは頷いた。
「では、もし誰かが観測者バイアスを意図的に誘発したとしたら——例えば、観測者が確率値を読む際に、特定の方向へ誘導するような働きかけをしたとしたら——それは確率偽造と同等の行為だと考えますか」
一拍。
ヴィオの返答が、ほんの少しだけ遅れた。
ルカはその遅れを見逃さなかった。
「同等、と言えるかどうかは難しいところです」
ヴィオはゆっくりと言った。いつもより、少しだけゆっくりと。
「直接的な確率値の書き換えと、観測者バイアスの誘発では、手法が異なります。ただし、結果として確率値の正確な観測を妨げるという点では、類似した問題をはらんでいると言えるかもしれません」
「類似した問題」
ルカは繰り返した。
「なるほど」
ヴィオの目が、一瞬だけルカを見た。それからまた窓の外へ向いた。
「零花さん」とヴィオは言った。「あなたは、今の私の答えに何かを感じましたか」
「感じましたよ」
ルカは正直に答えた。
「あなたの答えが、いつもより少し遅かった」
沈黙。
「そうですか」
ヴィオは静かに言った。窓の外を見たまま。
その横顔に、また何かがあった。さっきより少し、はっきりしていた。疲労。あるいは——
ルカにはうまく名前がつけられなかった。
「もう一つ聞かせてください」
ルカは続けた。
「ヴィオさんは、確率師として長いキャリアをお持ちです。これまでに、確率値が『正しくない』と感じたことはありますか。観測した数値が、何か根本的なところでおかしいと」
長い沈黙が落ちた。
これまでの会話で、最も長い沈黙だった。
ルカはその沈黙を数えた。一秒。二秒。三秒。




