確率大陸「ヴェロシア」の物語
ドウの声が、三度呼んだ。
ルカは振り返った。
確率値の乱れが、少しずつ収まっていた。波紋が消えるように。誰かが操作を止めたのか。あるいは距離が離れたのか。
「……これは」ルカは言った。「私の判断が、間違っていた可能性がありますか」
ドウは一拍置いた。
「あります」
その一言が、静かに落ちた。
ルカは何も言えなかった。
自分の観測は正確だったはずだ。ヴィオの確率値は正常だった。あの時、目を細めて観測して——
目を細めて。
なぜ目を細めた。
ヴィオが言ったからだ。少し目を細めて見た方が精度が上がる、と。確率師に観測方法を指示する依頼人は初めてだと苦笑いしながら、でも従った。プロとしての柔軟性だと思って。
ルカは手を握り直した。指先が冷えていた。
「……これは」
言いかけて、止まった。
ヴィオへの疑念が、頭の中で形を作りかけていた。しかし確信がなかった。自分の観測は正確だったはずだ。目を細めても、精度は変わらないはずだ。変わるはずがない。自分は確率師だ。他者の確率を読む天才だ。だから——
「ルカさん」
ドウが、また呼んだ。
今度の声は、さらに低かった。
ドウが、表情を変えた。
ルカは、その瞬間を見た。
変化は小さかった。眠そうな目が、わずかに細くなっただけだ。口元の緩さが、ほんの少し引き締まっただけだ。ドウは普段から表情が動かない。感情を顔に出さない。だから今の変化は、他の人間には気づかれないだろう。
しかしルカには見えた。
「ドウさん」
ルカは言った。
「はい」
「今、何か変わりましたか」
一拍。
「……なるほど」
また言った。ドウがまた「なるほど」と言った。今度は先ほどより低く、先ほどより短く。一言だけ。何も続かない。
ルカは一歩、ドウに近づいた。
「今の『なるほど』は、何ですか」
ドウは答えなかった。
答えない。
これまで何度もドウが「なるほど」と言って何も続けなかったことがある。ルカはその度に問い返して、ドウに「なんでもないですよ、たぶん」と流されてきた。それがドウの口癖だと思っていた。飄々とした性格の一部だと思っていた。
しかし今回は違う。
今回のドウの「なるほど」には、重さがあった。
「ドウさん」
ルカは声を低くした。「今、何かを観測しましたか」
ドウは少しの間、黙っていた。
取引所の喧騒が遠くから聞こえる。確率値が乱舞する音ではなく、人間の声の重なり。その中でドウとルカの間だけが、静止しているような感覚があった。
「……ルカさん」
ドウが言った。
声のトーンが、また変わっていた。穏やかさは維持されていた。しかし穏やかさの下に、何かが張っていた。ルカが今まで聞いたことのない何かが。
「何ですか」
「ヴィオさんの確率値を」ドウは言った。「もう一度、観測できますか」
ルカは固まった。
ヴィオ。
その名前が、ドウの口から出た。
「なぜですか」
「……なんとなくです、たぶん」
いつもの口癖。いつもの「たぶん」。しかし今回の「たぶん」は、いつもと違った。逃げるための「たぶん」ではなく、何かを測っているような「たぶん」だった。
ルカはドウを見た。
ドウは相変わらず穏やかな顔をしていた。眠そうな目。しかし今、その目がルカを見ていた。周囲の確率値ではなく、ルカを。
「ドウさん」
ルカは言った。「あなたは、何かを知っていますか」
一拍。
今度の一拍は、長かった。
取引所の喧騒が、その間に流れた。誰かが大声を上げる。確率値が揺れる。床のどこかで飲み物がこぼれる音がした。
「……なるほど」
ドウがまた言った。
三度目だった。今日だけで三度目の「なるほど」だった。そしてまた、何も続かなかった。
ルカは拳を作った。指先が冷えていた。
「ドウさん、今日の『なるほど』は」ルカは言った。「何が『なるほど』なんですか。三回言いましたよ。三回とも何も続けなかった。それは——」
「嬢ちゃん!」
大声が割り込んだ。
ルカは振り返った。中央通路の方向から、博打屋ゴンが走ってくる。取引所の喧騒の中でも際立つ声で、周囲の取引師たちがいくつか振り返った。
「ゴンさん、今は——」
「俺でもさすがにこれはまずいと思うで」
ゴンが言った。
大声ではなかった。
ルカは一瞬、聞き間違いかと思った。ゴンが声を落として話している。いつもの大言壮語ではなく、珍しく、真顔で。
「ゴンさん」
「嬢ちゃん」ゴンは言った。「今追ってる方向、最初からおかしいと思ってたんやけど」
「何がおかしいんですか」
「全部綺麗すぎる」ゴンは言った。「証言も、記録も、動線も。確率師やってる俺が言うのもなんやけど、こんなに綺麗に揃うことって普通ないねん。何かが整えられてる感じがする」
ルカは黙った。
整えられている。
その言葉が、胸に刺さった。
証言が綺麗すぎる——ルカも感じていた。記録が消えた。証言が撤回された。確率値が北西方向から乱れた。そして今、ゴンが「整えられている」と言っている。
「ゴンさん、あなたは誰かを疑っていますか」
「疑うっていうか」ゴンは頭を掻いた。「なんか、嫌な感じがするんや。知らんけど」
「誰を」
ゴンは少し間を置いた。
「……知らんけど」
また言った。今度は答えの代わりに。
ルカはゴンを見た。ゴンの視線が、ルカではなくドウの方向に向いていた。ゴンがドウを見ている。何かを確認するように。何かを求めるように。
ルカは振り返った。
ドウは視線を合わせなかった。
取引所の中央通路の方向を見ていた。遠くを見ていた。ゴンの視線を受け取らなかった。
「ドウさん」
ルカは言った。
「はい」
「あなたは今、ゴンさんの視線に気づきましたか」
「気づきましたよ、たぶん」
「なぜ視線を合わせなかったんですか」
一拍。
「……なんとなくです」
ルカは手を握り直した。指先が、今度は震えそうだった。
何かがある。ドウは何かを知っている。ゴンも何かを感じている。そして二人とも、それを直接言わない。
ルカは深呼吸した。論理的に考えろ。感情で動くな。確率師として考えろ。
証言が綺麗すぎる。記録が消えた。確率値が北西から乱れた。ドウがヴィオの名前を出した。
ヴィオ。
ルカは自分の手を見た。あの時、この手でヴィオの確率を観測した。目を細めて。ヴィオに言われた通りに、目を細めて——
「ルカさん」
ドウの声が、また変わった。
今度こそ、変化は明確だった。穏やかさが、薄くなっていた。いつもの飄々とした空気が、わずかに剥がれていた。
「何ですか」
「ヴィオさんの確率値を」ドウは繰り返した。「もう一度、観測してほしいんです」
「なぜですか」ルカは言った。「ヴィオさんは事件と無関係だと判断しました。確率値が正常でした。私が確認しました」
「知っています」
「それなのに、なぜ——」
「知っています」ドウはもう一度言った。「でも、もう一度だけ」
その声に、何かがあった。
ルカは言葉を失った。
ドウが「もう一度だけ」と言う時の声が、いつもと違った。いつものドウは、何かを求める時でも穏やかで、軽くて、断定を避ける。しかし今の「もう一度だけ」は、穏やかではあったが、軽くなかった。重さがあった。
「……ドウさん」
「はい」
「あなたは、最初から何かを知っていたんですか」
一拍。
長い、一拍。
「……なるほど」
四度目だった。
今日だけで四度目の「なるほど」が、何も続かないまま空中に落ちた。
ルカは、その「なるほど」の重さを、初めてまともに受け取った気がした。
何も続かない「なるほど」。毎回何も続かない「なるほど」。それはドウの口癖だと思っていた。飄々とした性格の一部だと思っていた。しかし今この瞬間、その「なるほど」が、何かを知っていて言えない人間の沈黙に聞こえた。
「ゴンさん」
ルカは振り返った。
ゴンは珍しく黙っていた。大言壮語もなく、笑いもなく、ただ腕を組んでルカとドウを交互に見ていた。
「俺でもさすがにこれはまずいと思うで」
ゴンはもう一度だけ言った。今度はより小さく。まるで自分自身に言い聞かせるように。
ルカは空を仰いだ。取引所の天井。無数の確率値が浮遊している。その数値たちは、今日も変わらず動き続けている。過去の観測の積み重ねとして——
違う。今はそんなことを考えている場合じゃない。
ルカは手元の記録を閉じた。
「ドウさん」
「はい」
「ヴィオさんの確率値を、もう一度観測します」
「……そうですか」
ドウの声が、わずかに違った。安堵に近い何かが、穏やかさの下に混じっていた。
「ただし」ルカは言った。「今回は、目を細めません」
一拍。
ドウは何も言わなかった。
しかし今度の沈黙は、いつもの「なんでもないですよ、たぶん」ではなかった。
ルカは歩き出した。北西エリアの方向ではなく、ギルドの方向へ。ヴィオと接触するための、正規のルートへ。
「嬢ちゃん」
ゴンが後ろから声をかけた。
「嬢ちゃんと呼ぶな」
「……気をつけてや」
ルカは振り返らなかった。
気をつけてや、とゴンが言った。大言壮語ではなく、笑いでもなく、ただそれだけを言った。
ルカは足を速めた。
確率値が正常だった。自分が確認した。自分の観測は正確だったはずだ。しかし——目を細めて観測した。ヴィオに言われた通りに。なぜ言われた通りにしたのか。なぜ疑問を持たなかったのか。
「……これは」
口から言葉が出た。しかし続かなかった。
ヴィオが犯人だという確信は、まだなかった。
ただ、自分の判断が間違っていた可能性が、今日初めて、本当の意味で、頭の中に入ってきた。
「ゴンさん」
ルカは振り返らなかった。
カウンターの上に広げた調査の記録を見つめたまま、ルカはもう一度言った。今度は静かに、確かめるように。
「ゴンさん。あの話をもう一度聞かせてください」
「……あ?」
ゴンが入ってきた気配がした。いつもなら大声と一緒に飛び込んでくるのに、今日は違う。ルカの声のトーンが、ゴンの足を止めさせたのかもしれない。
「嬢ちゃん、なんか顔が怖いで」
「誰も見ていない角度から仕掛ける、という話を」
ルカがようやく振り返った。
ゴンが入口のところで立ち止まっている。大きな体が、珍しく静止していた。片手に持った飲み物の袋が、ゆらりと揺れた。
「……嬢ちゃん、それ、俺の自慢話のやつ?」
「そうです」
「あの、ほら、誰も見てへん時に動くのが一番大事やとか、そういう」
「そうです」
ゴンが一歩、入ってきた。
「それが何か?」
ルカは答えなかった。代わりに、カウンターの上の記録に目を落とした。調査の途中で止まったままの、被害者たちの証言の写し。誤読パターンの系統的な歪み。同一方向、同一幅。
——観測されない角度から。
「もう一度、詳しく聞かせてください」
ルカの声が、自分でも驚くくらい真剣だった。ゴンが飲み物の袋をカウンターに置いた。カラン、と氷の音がした。
「……嬢ちゃん、なんか怖いな」
「怖くはないです。ただ、聞きたいんです」
ドウが壁際で茶を飲んでいた。何も言わなかった。ただ、一度だけルカの方向に視線を向けて、すぐに手元の湯飲みに戻した。
ゴンが椅子を引いた。ゆっくりと座る。いつもなら椅子ごと傾けて大声で話し始めるのに、今日はちゃんと四本足で地面についていた。
「……なんで急に」
「調査が行き詰まっています」
「知ってる。さっきルカさんが大変そうやったから戻ってきてん」
「その行き詰まりを解くカギが、ゴンさんの自慢話の中にあるかもしれない」
しばらく、沈黙があった。
取引所の喧騒が遠くで続いている。誰かが大きな取引を決めたのか、拍手の音が聞こえた。確率値がぷかぷかと浮遊して、夕方の光に照らされてわずかに橙色に染まっていた。
ゴンが、ゆっくりと口を開いた。
「……残高荒稼ぎで一番大事なのはな」
「はい」
「誰も見てへん時に動くことやねん」
「それは知っています。もっと具体的に」
ゴンが眉を寄せた。いつもなら「俺の話を聞けや」と大声を出すところだが、ルカの顔を見てやめたらしい。
「……確率値って、見られた瞬間に変わるやろ」
「ええ」
「それが世界のルールや。誰かが観測した瞬間に、確率が動く。せやから残高荒稼ぎは、観測されへんタイミングを狙うんや。誰も見てへん角度から、誰も気づかんうちに、仕掛けを入れる」
ルカは記録に目を落とした。
被害者たちの確率値。同一方向、同一幅の歪み。
観測されない角度から。
確率値を書き換えるには、観測されない角度が必要だ。見られた瞬間に確率が変わる——逆に言えば、見られなければ、確率値を自分の意図した方向に動かすことができる。
「ゴンさん」
「なに」
「それは、確率値そのものを書き換えることもできますか」
ゴンが少し首を傾けた。
「……書き換える?」
「誰も観測していない角度から、確率値の数値を特定の方向に動かすことが。見ている人間には気づかれないまま」
ゴンが黙った。
長い沈黙だった。取引所の喧騒が遠くなった気がした。ゴンの大きな手が、カウンターの上でゆっくりと動いた。飲み物の袋に触れて、それから離れた。
「……理論上は、できる」
「具体的には」
「観測者が見ている角度の外から、確率値の流れに干渉する。確率値って空中に浮いてるやろ。浮いてる以上、どこかから来てどこかへ行く流れがある。その流れを、観測されへん側から押してやると——」
ゴンが止まった。
ルカは待った。
「……押してやると、観測者には数値が正常に見えながら、実は特定の方向に誘導されてる状態を作れる」
「つまり」
「偽造や」
言葉が、空気に落ちた。
ルカはゆっくりと息を吸った。
——これだ。
事件現場で感じた、あの違和感。誤読パターンの系統的な歪み。被害者たちが全員、同一方向・同一幅でずれていたこと。あれは偶然の誤作動ではなかった。誰かが意図的に、観測されない角度から、確率値の流れを押していた。
「ゴンさん」
「なに」
「あなたは、それを試したことがありますか」
また沈黙。
今度は種類が違った。ゴンの顔が、少しだけ変わった。大言壮語の仮面が、ほんの少し、ずれた。
「……嬢ちゃん、なんで分かったん」
「分かってません。聞いています」
ゴンが、飲み物の袋を手に取った。一口飲んだ。それから、袋をカウンターに戻した。
「俺の自慢話がついに役に立つん?」
声のトーンが、変わった。
ルカは一瞬、ゴンの顔を見た。いつもの豪快な笑顔ではなかった。驚き、と言えばいいのか。戸惑い、と言えばいいのか。ゴンが自分の発言の重さを初めて測っているような、そういう顔だった。
「役に立ちます」
「……マジで」
「マジです」
ゴンが、椅子の背もたれに体を預けた。天井を見上げた。
「俺、ずっとそれを自慢話として言うてたんやけど」
「知っています」
「嬢ちゃんにも毎回ツッコまれてたし」
「それ犯罪の説明ですよね、と言いました」
「そう、それ」
ゴンが、天井から視線を下ろした。ルカを見た。
「……俺の自慢話が、事件と繋がってんの」
「繋がっています」
ゴンが、口を開きかけた。そして止まった。また開きかけた。
「……え」
「犯人は、あなたが語った手法で確率値を偽造しています。観測されない角度から、被害者たちの確率値の流れを押して、特定の方向に誘導した。被害者たちは正常な確率値を見ていたつもりだったが、実際には歪められていた」
ゴンが、もう一度天井を見上げた。
長い沈黙があった。
ドウが、壁際で茶を飲む音だけが聞こえた。
「……嬢ちゃん」
「はい」
「俺、標準語になりそうやわ」
「なっていいです」
「ほんまに役に立ったん」
「役に立ちました」
ゴンが、両手で顔を覆った。大きな手が、その大きな顔をすっぽりと隠した。
「……知らんけど」
その声が、いつもと違った。
ルカは何も言わなかった。ゴンが顔を覆ったまま、しばらく動かなかった。取引所の喧騒が、遠くで続いている。確率値が浮遊して、夕方の光に染まっていた。
やがて、ゴンが顔から手を外した。
目が、少し赤かった。
「……照れるやろ、そんなん言われたら」
「照れている場合ではないです」
「知ってる知ってる」
ゴンが立ち上がった。いつもの豪快さが戻ってきた。でも、何かが少しだけ違った。声の底に、何か温かいものが混じっていた。
「で、嬢ちゃん。俺の自慢話のどこが役に立ったん、もっと詳しく教えてや」
「犯行の手法が特定できました」
「観測されへん角度から確率値を押す、ってやつ?」
「そうです。ただ、犯人はあなたより精緻な方法を使っています。あなたが試みて失敗したこと——」
ルカが止まった。
ゴンの顔が、また少し変わった。
「……嬢ちゃん、なんで俺が失敗したって知ってんの」
「知りません。聞いています」
ゴンが、飲み物の袋を手に取った。一口飲んだ。それから、ゆっくりと椅子に座り直した。
「……次の話、するわ」
ゴンが、声を落とした。
それだけで、空気が変わった。
いつも取引所の喧騒に溶け込むゴンの大声が、急に小さくなった。ルカはカウンターの端に肘をついて、ゴンの顔を見た。大言壮語の仮面が、今日は何度もずれている。
「俺な」
「はい」
「同じことを、やろうとしたことがあんねん」
「観測されない角度から、確率値を操作することを」
「そう」
ゴンが、飲み物の袋を両手で持った。握るでもなく、ただ持っていた。
「残高荒稼ぎで、一番でかい稼ぎをしようと思ったとき。普通に低確率の挑戦を成功させるんじゃなくて、確率値そのものを自分に有利な方向に動かせたら、もっと効率がいいと思って」
「それで」
「試した。誰も見てへん角度から、確率値の流れに手を入れようとした」
ゴンが、袋を置いた。
「失敗した」
ルカは何も言わなかった。
「見てへんつもりで、実は見られてた」
夕方の取引所。確率値が橙色の光の中で浮遊している。遠くで誰かが「あっ」と声を上げた。飲み物をこぼした音がした。床が濡れる音。いつもの日常。
「誰かに見られたんですか」
「確率値に見られてん」
ルカが少し首を傾けた。
「……確率値に?」
「観測者バイアス、やろ。俺が確率値の流れに手を入れようとした瞬間、その行為自体が観測行為になってしもうた。俺が確率値を見た瞬間に、確率値が変わった。俺が動こうとした瞬間に、俺の存在が確率値に反映された」
ゴンが、指でカウンターを軽く叩いた。
「誰も見てへん角度から仕掛けようとしたのに、俺自身が観測者になってしもうてん。観測者が観測されない角度なんて、存在せーへんかった」
ルカは黙って聞いていた。
ゴンが言っていること——それは確率師として当然知っているはずの事実だった。観測者バイアス。誰かが見た瞬間に確率が変わる。それは観測される側だけではなく、観測する側にも適用される。ゴンが確率値を操作しようとした瞬間、ゴン自身の観測行為が確率値に影響を与えた。
では、犯人は——。
「ゴンさん」
「なに」
「犯人が成功したということは、その問題を解決したということです」
「そうやな」
「観測者自身が確率値に影響を与えないようにする方法が、どこかにある」
ゴンが、少し考えた。珍しく、本当に考えている顔だった。大言壮語でも照れ隠しでもなく、ただ何かを思い出そうとしている顔。
「……観測者が確率値に影響を与えるのは、観測者が確率値の中にいるからや」
「続けてください」
「確率値の流れの中にいる観測者は、確率値に影響を与える。せやけど、確率値の流れの外にいる観測者は——」
ゴンが止まった。
ルカも止まった。
「……外から見てる人間は、確率値に影響を与えへんかもしれへん」
「確率値の流れの外」
「そう。確率値が及ばない場所から観測した場合——」
ルカの脳裏に、何かが走った。
確率値が及ばない場所。
この世界で、確率値が表示されない場所。
——盲区。
ルカは息を吸った。
「ゴンさん、少し待ってください」
「え、なに」
ルカは記録を広げた。被害者たちの証言。「見慣れない確率師」。事件当日の行動記録。被害者たちが全員、事件当日に同一のエリアにいたこと。北西エリア。
北西エリアから盲区の方向を見ると——。
「嬢ちゃん、急に黙ったけど大丈夫?」
「大丈夫です。考えています」
「怖い顔してるで」
「考えているときの顔です」
ドウが壁際で動いた気配がした。茶を飲む音。それだけ。
ルカは記録から顔を上げた。
「ゴンさん、あなたが失敗した理由と、犯人が成功した理由の違いが分かりました」
「え、マジで」
「あなたは確率値の流れの中から操作しようとした。だから観測者バイアスが発生した。でも犯人は、確率値の流れの外から操作した。確率値が及ばない場所から、確率値の流れに干渉した」
ゴンが、目を丸くした。
「……それ、どうやって」
「確率値が及ばない場所から、確率値の流れを観測する技術が必要です。そしてその観測結果を元に、確率値の流れに干渉する。観測者自身が確率値の外にいるから、観測者バイアスが発生しない」
「そんな技術、あんの」
「あります。少なくとも、犯人は持っています」
ゴンが、カウンターに両肘をついた。
「……嬢ちゃん、それって」
「確率師として、かなり特殊な訓練と知識が必要です。普通の確率師にはできない。ゴンさんが失敗したのは、あなたの技術が足りなかったからではなく、理論的に正しい方法を知らなかったからです」
「……慰めてくれてるの」
「事実を言っています」
ゴンが、少し笑った。いつもの大笑いではなく、小さな笑いだった。
「……俺、失敗したとき、めちゃくちゃ怖かってん」
ルカは何も言わなかった。
「確率値が急に動いて、周りの人間がこっちを見て。俺が何かしようとしてたって、バレたかもしれへんって思って。しばらく取引所に来られへんかった」
「それは」
「知らんけど」
ゴンが、照れ隠しで余計なことを言おうとした。ルカは先に言った。
「それは、あなたが正直に話してくれたおかげで、犯行手法が特定できました」
ゴンが、口を閉じた。
「ありがとうございます」
また沈黙。
ゴンが、飲み物の袋を手に取った。一口飲んだ。それから、袋を置いた。
「……嬢ちゃん、俺に礼を言うのか」
「言います」
「俺の自慢話に」
「あなたの経験に、です」
ゴンが、また小さく笑った。今度は少し違った。照れ隠しではない、本物の笑いだった。
「知らんけど」
その「知らんけど」は、いつもと少し違った。照れ隠しではなく、何か温かいものを隠すための言葉に聞こえた。
ルカは記録に目を戻した。
確率値の流れの外から操作する技術。確率師として特殊な訓練と知識。そして、その技術を持ちながら、事件当日に取引所にいた人物。
——誰が、その技術を持っているのか。
「ゴンさん、もう一つ聞いていいですか」
「なに」
「確率値の流れの外から操作する技術を持つ確率師を、あなたは知っていますか」
ゴンが、少し考えた。
「……理論的には、確率師の中でもかなり上位の技術や。ギルドの中でも、そんな技術を持つ人間は少ない」
「少ない、とは」
「俺の知る限り、一人か二人やな」
ルカは記録を閉じた。
手の中で、紙がかすかに音を立てた。
「ありがとうございます。非常に参考になりました」
「……嬢ちゃん、なんか顔が怖い」
「考えています」
「さっきも同じこと言うてたで」
「同じことを考えているからです」
ゴンが立ち上がった。飲み物の袋を手に取った。いつもの豪快さが戻ってきていたが、その底に、さっきの小さな笑いの温度が残っていた。
「嬢ちゃん」
「はい」
「俺の自慢話、役に立ったんやろ」
「役に立ちました」
「じゃあ今後は、俺の自慢話をツッコまんと最後まで聞くこと」
「それと今回の件は別問題です」
「知らんけど!」
ゴンが笑いながら歩き出した。いつもの大笑いだった。取引所の喧騒に溶け込んでいく。
ルカは、その背中を見送った。
ドウが、壁際で茶を飲む音がした。
「ドウさん」
「はい」
「犯人はゴンさんが失敗した理由を克服した手法を使った、ということになります」
「そうですね、たぶん」
「確率値の流れの外から操作する技術を持つ確率師が、犯人です」
ドウが、茶を飲んだ。
「……なるほど」
その「なるほど」は、いつもと同じだった。穏やかで、断定を避けて、何も続けない。
でも、ルカにはそれで十分だった。
「明日、その人物を特定します」
「そうですね、たぶん」
夕方の取引所。確率値が橙色の光の中で浮遊している。ゴンの大声が、遠くの喧騒の中に溶けていった。
ルカは記録を手に取った。
——犯人は、誰か。
確率値の流れの外から操作できる技術を持つ確率師。ギルドの中でも、一人か二人。
ルカの頭の中で、何かがゆっくりと動き始めた。まだ形になっていない。でも、確かに動いている。
ドウが、茶を飲み干した。
「ルカさん」
「はい」
「ゴンさんが失敗した理由、もう一つあるかもしれませんよ」
ルカが顔を上げた。
ドウが、湯飲みをカウンターに置いた。
「観測者が確率値の外にいるだけでは、不十分な場合があります」
「どういうことですか」
「確率値の外から操作するには、操作する対象の確率値を正確に把握する必要がある。外から見えている確率値と、内側から見えている確率値が、一致していない場合があるから」
ルカは少し考えた。




