朝礼
午前七時。神崎カンナは起床すると、歯を磨いて顔を洗い、朝食に自分で用意したトーストを齧り、制服に身を包むとPCの前に座し、画面に向かって声をかけた。
「おはようございます。これから学校へ向かいますね」
「おはようございます。気をつけて行ってらっしゃい」
正体不明の声、Yに送られて、カンナは家を出る。
霧山キセキと学校の屋上で、友好を深めた翌日のことであった。
学校へと向かう道中、カンナは見知った背中が視界に入った。黒い癖毛にカンナと同じくらいの背丈だ。
「おはようございます」
カンナはその背中に向けて声をかけた。振り返った顔は、やや驚いた表情をしていた。
「お、おはよう」
霧山キセキは、どもりながら挨拶を返した。カンナは気にせず、キセキと並んで歩みを合わせた。
「朝もご一緒できましたね。お家、近いのですか?」
「ん、まぁね。向こうの丁字路、右曲がって少し歩いたとこだから」
キセキは親指で背後を指しながら言った。
「そうだったのですか。私たち、すでに少しだけお近づきになれていたのですね」
「そうとも言えるのか……? はぁ、また変な噂立たなきゃいいけど」
キセキは昨日の、カンナの言葉による誤解を思い出しながら呟いた。
揃って学校へ到着し、靴箱で靴を履き替えていざ教室へ、というところで、カンナは立ち止まっていた。自分の靴箱の中をじっと見て、固まっている。
「おーい、神崎? どうした?」
キセキは心配そうに尋ねた。カンナは不思議そうな顔だけをキセキの方に向け、答えた。
「いえ、なんでもありません。先に行ってください」
「そうか? あと十分で学校始まるからな」
「ええ。大丈夫です」
曖昧な返事をするカンナ。キセキも不思議そうな表情を浮かべたが、とりあえず教室へと向かった。
キセキが教室に入ってから数分後に、カンナも入室した。昇降口では挙動不審だったが、今の彼女に特に変わった所はないように見えた。
「遅かったな。何かあったのか?」
「いえ、問題ありません。ただ……」
カンナは視線を自分の足先へと移す。キセキもつられてそちらに目を移すと、彼女の足には白い靴下だけが履かれていた。足の裏は、黒く汚れている。
「……上履きは?」
「ありませんでした。近くを探したんですが。でも名前を書いてありますので、見つかりますよね?」
「いやだけど、それってやっぱ……」
その時、教室の入口が開き、担任の大山が入ってきた。
「おはよう。席に着けみんな」
やや険しい表情で教卓につく大山。その手には、一足の上履きが下げられている。
「神崎、ちょっと来て」
大山の言葉に従い、カンナは教卓へと歩いていく。大山は彼女の耳元で、周りに聴こえないよう配慮したかのようなトーンで尋ねた。
「これは、君のだな?」
「はい。名前もありますし、私のもので間違いありません」
「そうだな。さっき廊下を歩いていたら見つけたんだ。上履きだけが廊下の隅にあったら、それは目立つからな。……とにかく、何か困ったことがあったら遠慮せずに相談するんだぞ」
「? はい、そうします」
大山から上履きを渡されたカンナはそれを履き、自席へと戻る。近くで見ていた生徒たちは、何事かを察してざわつき始めた。一方で離れた席の生徒たちは、事情がわからず怪訝な表情をしていた。
「上履きをどこかに持っていかれるというのは、編入生への恒例行事か何かですか?」
席に着いたカンナは、キセキに尋ねる。その目の輝きは、何も理解していないことを物語っていた。
「そんなわけないって。それはな……なんつーか……」
口籠るキセキ。カンナはその続きが気になったが、この時は昨日のように追及する気にはならなかった。
「教えていただきたいところではありますが、無理には聞きません。先生も教えてくださりませんでしたし。後で気が向いたら教えてください」
「……そうしてもらえると助かるよ」
キセキは心底安心した表情を浮かべた。
「さて、先日は言い忘れていたが、今日はこの後朝礼があり、校長先生からの新学期の挨拶がある。全員、速やかに体育館へ向かうように」
大山は話題を変えるように切り出し、生徒たちは言葉に従って席を立ち始めた。
「なぁ、今日は何人倒れると思う?」
体育館へ向かう途中の廊下で、クラスの男子生徒一人が別の男子生徒にそう尋ねた。
「そうなぁ。多くて三人くらいじゃね?」
聞かれた男子はそう答える。
「そんぐらいいくかね。マジで校長って学生キラーだよな」
「それな。毎回何人倒れさせるんだってな」
男子生徒二人は会話に花咲かせ、笑い合った。
そのやり取りを近くで聞いていたカンナ。彼女の脳内では疑問が次々に沸いてくる。
「キセキさん。お尋ねしてよろしいですか?」
足と口を同時に動かしながら、カンナはキセキに声をかけた。
「何?」
「校長先生は、朝礼で人を倒すのですか?」
「あー、そうとも言えるかもな。けっこうな確率で倒れるからな、朝礼で」
キセキは一瞬ポカンとしたが、すぐにそう答えた。
そしてカンナは再び、考えにふけるのだった。
(校長先生の挨拶で、よく人が倒れるのですか。これも恒例行事ということなのでしょうか?)
あまり考える余裕なく、カンナたちは体育館へ到着した。
朝礼は予定時間は十数分ほどだったが、生徒たちはほとんど立ちっぱなしだった。体力に自信がない生徒にとっては、苦痛の時間だったと思われる。
「……では、校長先生のご挨拶です。よろしくお願いします」
進行の言葉で校長は登壇し、ゆっくりと挨拶を始めた。初老の男性の校長であった。
「えー、皆さんおはようございます。朝早くお集まりいただき、ありがとうございます。本日お話したいことは……」
その時、カンナの背後の方でドサっという鈍い音が響いた。小さな悲鳴のような声や、ざわめく声が辺りに広がっていく。
「すみませーん、九頭竜さんが倒れました」
倒れた生徒の周りから声が響いた。カンナのクラスの生徒だったためか、大山ともう一人の先生が小走りで駆け寄り、倒れた生徒を二人がかりで担いで体育館から運んでいってしまった。
「えー、それでは皆さん改めて……」
騒動が収まった頃、校長は再び挨拶が始めるが、生徒の一件があったこともあってか、話は手短に終わった。
「やっぱ倒れたな。うちのクラスの奴か?」
「みてーだな。ま、立ちっぱでつまんねー話聞いてりゃ、倒れてもおかしくねぇよな」
「それな。マジで校長先生ぱねぇ」
朝礼の終わった帰り道、カンナの近くで先刻の生徒たちは再び笑い合っていた。
そしてカンナは再び思考を巡らせるのだった。
(やはり校長先生は生徒を倒す力があるのでしょうか。悪い人には見えませんが……。考えてもよくわかりませんね)
朝礼が終わってからも、カンナは考え続けていた。しかし、彼女の納得できるような正解は出なかった。
やがて昼休みに入ると、編入生の手続きがあるということで、カンナは職員室へと呼び出された。
その帰り道の廊下のことである。カンナの前方から歩いてくるのは、あの校長だった。
(こ、校長先生です。もしかして私も、ここで倒れてしまうのでしょうか……?)
こちらへ向かってくる校長を前に、カンナは立ち止まったままあたふたとしていた。
そんな彼女に近づいてきた校長は、やんわりと声をかけた。
「こんにちは」
「えっ。……はい、こんにちは」
カンナは驚きつつも挨拶を返す。彼女の慌てた様子を感じたのか、校長は更に言葉をかけた。
「どうかなさいましたか? 気分が悪いのならば、保健室は向こうです。ご一緒に行きましょうか?」
「い、いえ、大丈夫です。問題ありません」
「そうですか。無理はなさいませんよう」
そう言って、校長はその場を後にしようとした。
しかしカンナは、どうしても確かめたいことがあったため、その背中に向かって声をあげた。
「あ、あのっ」
「はい、何か?」
ゆっくりと校長は振り向いた。カンナは息を整え、口を開く。
「校長先生は、とても良い人なんですね」
一瞬、きょとんとした表情を浮かべた校長だったが、すぐににこやかな笑顔を浮かべて答えた。
「ははは、ありがとうございます。それほどでもありませんよ。おや……」
校長はカンナの姿を改めて見ると、何か思い出したかのように続けた。
「あなたはもしかして、編入生の方ではありませんか?」
「はい。神崎カンナと申します」
「そうです、神崎さんでしたね。橙色をした髪の毛の方が我が校にいらっしゃると聞いていたものですから、ふと思い出したのです。まだ始まったばかりですが、学校生活はいかがですか?」
校長はにこやかな笑みを絶やさずに尋ねる。
「とても楽しいです」
「それは良かった。生徒も先生も皆さん良い人ですから。困ったことがありましたら、なんでも仰ってくださいね。それでは……」
校長は踵を返し、再び去ろうとする。
だがカンナはもう一度、その背中に呼びかけた。
「あの、もう一つよろしいですか?」
「はい、どうぞ」
「先生は、なぜ私のことをご存じなのですか?」
「こう見えて、記憶力は良い方でしてね。生徒のことはある程度把握しておきませんと。それが生徒たちを預かる者としての責務だと思っていますよ」
そう言い残し、校長は今度こそカンナの元から去っていった。
校長との会話を終えたカンナは教室へと戻った。隣にはキセキがいたが、彼には目もくれず、カンナは残り少ない時間で昼食を食べ始めた。
「神崎、次の教室は移動になったから」
昼休みに通知された情報を共有したキセキ。だが、カンナは返事をしない。
「あの、神崎……さん?」
やはり返事をしないカンナ。黙々と昼食を食べている。キセキはわけがわからなかったが、伝えたいことは伝わったと思い、それ以降は口をつぐんでいた。
その後、放課後までカンナはキセキと口をきかなかった。休み時間にも、彼女は窓の方を向いて目を合わせようともしない。
キセキはしびれを切らし、思い切って話しかけた。
「あのさ……。俺が何か気に障るようなことしたなら謝る。とりあえず話してくれない?」
続々と生徒がいなくなる教室で、カンナは未だに返事をしない。そこでキセキは、奥の手を出した。
「この前のやつ、奢るから。それならどう?」
「話しましょう」
この前のやつとは、昨日キセキが買って与えたみかんジュース(果肉入り)のことである。カンナはすっかりそれを気に入ってしまったようだ。
「よっぽど気に入ったんだな。まぁそれくらいで機嫌直してくれるならお安い御用だ」
「機嫌は良くなっていませんよ。だって、あなた私に嘘をついたんですから」
「嘘? 申し訳ないが、心当たりがないんだけど」
カンナは朝のキセキの発言と、校長に昼休み出会ったこと、その時の会話の内容を話した。
「……ぶっ、あははっ! もしかして、校長が本当に生徒を倒してるって、そう思ってたの?」
「だって、クラスのお二人がそう言ってましたし、あなたも否定しませんでしたし」
「それはものの例えだよ。朝礼では立ちっぱなしで校長の長い話ずっと聞いてるから、倒れる人出てくるってこと。校長が間接的にそうしてるって話だよ」
カンナはただ黙って聞いていた。頭の中で、キセキの説明を反芻しているようだ。
「つまりは、校長先生は本当に生徒たちを倒しているわけではないと?」
「そういうこと。仮にそうだったとして実際、どういう風に生徒を倒すんだ?」
「それは何か、超能力のようなものを使ってかと」
既に二人きりになった教室で、キセキの笑い声が響いた。
カンナはふてくされた表情でキセキを睨んでいた。
「そんなに笑わないでください。知らなかったんですから」
「悪い悪い。……ああ、久しぶりにすげぇ笑った」
笑いすぎての涙を拭うキセキ。カンナは先刻までの怒りが収まったのか、急に態度を変えて言った。
「キセキさん、先ほどはすみません。嘘つきなどと言ってしまい」
「いいよ別に。ただの勘違いだったんだろ?」
「怒ってませんか?」
「ないよ」
それを聞いたカンナは、やっと表情が柔らかくなった。
「良かった。やっぱり校長先生の仰ったことは本当だったのですね。皆さん良い人です」
「何だよそれ。それを言うなら、神崎もじゃないか?」
「どういうことですか?」
「人に謝れるのって、当たり前だけど良いやつのできることなんだぞ」
その後は二人揃って学校を出て、帰路についた。
足取り軽いカンナの手には、みかんジュースがしっかりと握られていた。