魔王を討伐して村に帰ってきた勇者(娘)が俺と結婚すると言って聞かないから困っている件
聖王暦745年、勇者レティシアが長年人類を苦しめ続けていた最大の宿敵、魔王ガルフレイムを倒した。
その報が世界を巡り王都を越えて、そして普段は閉ざされた村に辿り着いた時、セイア村のしがない農民カイラスは歓喜していた。
その喜びは、魔王が倒されて世界が平和になるからでも、何か魔王に強い恨みがあったからでもない。
「生きていてくれて、よかった。―――レティシア」
彼は勇者レティシアの父親だったのだ。早くに両親を亡くし、12年前に妻に先立たれて以降、彼女だけが彼の肉親であった。
8年前、彼女がまだ10歳だったころ王国の人間が来て、彼女には魔王を倒す宿命があるといって連れ去ってしまって絶望していたが、その絶望も今日で終わりだ。
「……叶うことなら、あの子に才能なんてなければ、ずっと一緒に居られたんだけどな。この土と木々に囲まれた村で」
レティシアは多感な少女時代を、魔王討伐に費やした。まだ教えるべきことも教えられていないし、きっと彼女は年相応の遊びも知らないだろう。
「でもあの子はこれからきっと、失った分の人生を取り戻せる。そうだ、たくさんの友人と語らい合って、心優しい王子様の元にでも嫁いで、美味いものでも食べて、それから……」
カイラスは想う。愛しき娘の幸せを。
「ああ、でもやっぱり心配だな」
「彼女は人を思いやれる、そんな子に育っているのだろうか」
―――十日後。勇者レティシアが、戦友の聖女を連れてセイア村に帰ってくることとなった。
村の広場に全員が集まって、素朴な喜びの歌や踊りで彼女たちの帰宅を歓迎した。
ぽん、ぽん。ぴゅーひゃららー。
カイラスは今回の主役の肉親ということもあり、ファイアーブルの皮が貼られた太鼓を叩いていた。余談だがこの太鼓は皮と胴の接合部分が弱く劣化が激しいため、通常の祭りでは使われない。
「お祭りも久しぶりですね。まあ魔王軍に人類が滅ぼされるか否かの瀬戸際だったから、それも当然だけど」
ぽん、ぽんと陽気な音を打ち鳴らすカイラスの横で、隣家の青年がそんなことを言ってくる。
「こうしていると、新しい時代が始まったという感じがするな」
「新しい時代?」
「ああ。君たち若人たちが切り開く、もっと豊かでもっと幸せな時代だ」
「……それは、」
髪に白髪が混じり始め、顔に小じわが増えてきたカイラスは今46歳。この村の平均寿命が40歳に満たないことを考えると、高齢といって差し支えはなかった。
「おっさんもまだまだ元気でしょう。俺よりかはずっと畑仕事もできるし」
「いやいやいつまで生きられるか分からんぞ、最近頭痛もひどいし。娘が信頼できる誰かに嫁ぐまでは、現役でいたいと思うが」
「なら娘さんがいつまでも結婚しなかったら、いつまでも現役でいるんですね」
「ははっ、無茶を言うなあ」
カイラスはふと、向こうで笛を吹いている老人を見やる。還暦をとうに過ぎ、腰の曲がった白髪の男はこの村の村長であった。
何度も行事で笛を演奏してきたからかそこに拙さは見られず、村のムードをさらに明るくしていた。
できることは、まだまだたくさんあるのだろうと彼は思った。
ただ同時に、それでも自分たちの時代は終わりを迎えようとしているのだとも。
・・・そしてまた数分。
晴れやかな蒼天。万緑の地。風はどこか香り高く、夏の到来を高らかに告げていた。彼女の帰りを歓迎するのに、これ以上はないほどのいい日和であった。
村の門の先、遠くから人影が見えてくる。
カイラスはその人影を認めるや否や、こみ上げてくる万感の思いに涙していた。
「レティシア、レティシア!」
公衆の面前で憚らず泣く彼に、しかし隣家の男は何も言わない。八年ぶりの彼女の帰還が彼にとってどれほどの意味を持つのか、理解していたからだ。
だから代わりに彼は、カイラスの背中を押した。
「おっさん、太鼓代わりますよ。会いに行ってください」
「悪い、悪いな、セブンス君」
「アンタにはいつも世話になってますから。今日ぐらいはやりたいようにやっちゃってくださいよ」
人と家畜との足で固められた道を、一歩一歩薄青髪の少女が歩んでくる。少し後ろには金髪の少女もいるが、今はそれはどうでもいい。
カイラスは村の門に向かって歩を進めた。
「おーい、レティシア!!」
隣の少女と歓談していた少女は、彼の声を聞くや否や駆け出した。鳥のように軽快に、風のようにすばやく。
数十メートルほどの距離は一瞬で詰まった。
旅の疲れさえ感じさせない笑顔を浮かべて、彼女はカイラスに抱き着いてくる。
「お父さん!!」
「うわっ!?」
「あれっ!?」
彼はその勢いで転んでしまう。
カイラスも目の前の少女も、彼が転んだことに驚いたように目を見開いていた。昔はよく、同じように飛びついてきた彼女を抱きかかえていたというのに。
だからカイラスは上体を起こすとともに、最初にこう言った。
「見ない間に、大きくなったな。―――レティシア」
「う、うん!……かもしれない」
8年。カイラスには体力が少し落ちしわが増え、髪に白髪が混じり始める程度の変化しか起きなかったが、レティシアにとってはそうではない。
10歳の少女が、18歳になった。昔は彼の肩ほどもなかった少女が、今は並んでいる。
身長だけではない。どこか深い理知と意志を宿した琥珀色の瞳に、大空を糸にしたような青い髪。
整った鼻筋に柔らかい口元、女性的な起伏のある体、何よりその世界に君臨しているような存在感。
すべてが記憶の中にある、昔の彼女のそれと変わっていた。
「久しぶりだね、お父さん」
「……久しぶり」
二人の中では無数の思いが瞬時に去来し、言葉が口からあふれ出ようとして、しかしほとんどは留められていた。
懐かしいこと、寂しかったこと、帰ってきてくれたこと、旅のこと、友達のこと、カイラスはいくらでも、この世で唯一の肉親に話したいことと聞きたいことがあった。
そしてそれはレティシアも同じだったのだろう。
カイラスより先に、レティシアが口を開いた。
「あの後、お父さんはどうしていたの?」
「あの後?」
「うん。私がいなくなった後、お父さんはどうしていたの?」
レティシアの旅について先に聞くのが普通なんじゃないかと彼は思ったが、まあだが彼女が聞きたがっているのだ。カイラスは少し考えて、
「今まで通り、畑仕事を続けていたよ」
「……それ以外は?何か変化とかはなかった?」
「最近食が細くなって、肝臓も少し弱くなってきたけれど、まあ大きな変化はなかったな。どれも年を取れば、自然に起こることだ」
レティシアはそれを聞くと少しだけあごに手を当て、何事かをおそらく考えた後、しばらくして言った。
「お母さんが亡くなって、再婚とかはしたの?」
心細そうに彼女はそんなことを聞いてくる。
なるほど、彼は彼女の言いたいことを、少なくとも彼の中では理解した。
小さな貧しい村落だ、労働力は欲しい。ここでは再婚が全く珍しくなく、また推奨されているからそんなことを聞いてきたのだろう。
「確かに、家に知らない人がいるとお前からしたら気まずいよな。大丈夫、再婚はしていないから」
それを聞いた瞬間、彼女の顔がパーッと明るくなった。
「よかった、魔王討伐の旅の間もずっと、心配でさ」
「ああ、安心してくれ(……旅の間に心配?そこまで気にするようなことか?)」
「それじゃあこれからはいつまでも、一緒にいられるんだね」
「お前が望むのなら。まあでも再婚していたとしても、お前を追い出すことなんて絶対にないさ」
彼がそう言うと、彼女は彼の腕を取った。上目遣いで見てくる彼女を見て、甘える癖も前と変わっていないなと思った。
「まあ行こう、みんなが待っている」
「うん、そうだね」
レティシアは世界の英雄であると同時に、この村の英雄であった。陽気な歌が、聞こえてくる。
後ろからゆっくりとやってきた金髪の少女も交えて、彼らは宴の中心に向かった。
祭りを楽しんだ後、カイラスとレティシアは茅葺の屋根の家に戻ってきていた。変わらない少し薄暗い家の内装に、彼女がわぁと声を上げる。
「どうだ、8年ぶりの家は」
「記憶と変わっていなくて驚いたよ。なんだか嬉しいね、帰る場所がそのままあるっていうのは」
「努めてそうしたからな」
それは失われた時間を意識させないためなのか、帰る場所を残すためなのかは分からないが、どうにもカイラスは家を変えたくなかった。
レティシアがゆっくりと筵の上に座ると、彼もそれに向かい合うように座る。そしてそのまま彼女は真剣なまなざしを向け、カイラスに言った。
「……さて、色々と話さなければいけないことがあるだろうけれど、何から話そうか?」
「何だろうな。魔王討伐の旅の話は、祭りでしていたし」
「それじゃあ近況について報告しようか」
そうだな、と彼女は呟いて、
「まず私は、魔王を討伐した功績を称えられて『伯爵位』を得た」
「……伯爵」
「ああ。面倒くさいから領地は貰っていないけれどね。ほらこれ、貰った物の一部」
「うおっ、うおお……」
レティシアがひらひらと、赤い大きな宝石の埋め込まれたペンダントを見せてくる。人類を救うほどの偉業、報奨としては想定内ではあったが、それでも実際目の前で、物も込みで言われると何だか現実味がない。
「すごいな、いや、魔王討伐のほうがすごいんだろうけれど、」
「えへへ。お金は十分にあるからさ、これからはお父さんを毎日贅沢させてあげられるよ」
「いや、それはいい」
「……」
自慢げに話していると、想定外の即答にレティシアが一瞬目を丸くする。対して彼は山吹色の天井を見上げた。
レティシアが不思議そうに聞く。
「お金が欲しくないの?何か受け取れない理由があるとか?」
「贅沢が嫌い、だからではない。俺が何も成していないからでもない。お父さんはな、今までこの小さな家と村の中で生きてきたんだ」
「……?」
「たまの祭りで美味しいものを食べたり、沈む日に仕事の終わりを感じたり、そういったものが俺の生活なんだ。今更になってそれを捨てて、新しい生活をする気にはなれないよ」
なんとなくカイラスの中には、自分は死に向かって行っているという意識があった。それがこんな考えを生んだのかもしれない。
それに気づいてかいないでかレティシアは頭を振って、
「……どうにも私には、理解できないや」
「お前はまだ若い、それでいい」
「お父さんだってまだ、46じゃないか」
「もう46だ」
東から差し込む日が陰る。お祝いの日にふさわしくない、重い空気が流れる。
「ここでゆっくり休んだら、王都に行くといい」
「……」
それは彼なりに娘を思いやっての言葉だった。
「お前はこの小さな村に納まるべき人間ではない。もっと大きな世界で、」
と、そこでカイラスが後ろに倒れた。
レティシアが身を乗り出して、彼のことを押し倒していたのだ。
「なにを、」
カイラスが動揺する。
「私はさ、王都には行かないよ」
「……村に残りたいなら、それでもいいと思うが」
「いやさ、そういう話じゃないかな」
レティシアの琥珀色の瞳が彼を射抜く。……琥珀色。母親も父親とも違う色。
彼はなぜだか一瞬怯えてしまう。その人間離れした、美しい瞳に。
「っつ、いかんいかん」
しかし親が娘に怯えているのはあまりに救われない話だと、気を強く保って……、
そのまま彼女にあごを掴まれて、顔を上げさせられた。
「ねえ、お父さん」
「なんだ、」
いきなり何をするんだと彼は焦って、
「私と結婚してほしい」
「……何を言っているんだ、お前」
頭が真っ白になった。結婚してくれと、そう言ったのか?いや、そんなはずはない。
「ははっ、なにを」
「ずっと昔から、10年以上昔からお慕い申し上げていました。私をお嫁さんに、してください」
聞き間違えではなかった。理解できなくて、しかし理解できて、嫌な汗が流れてくる。
まさか本気なのかと疑いたいが、彼女の表情が疑うことを許さない。
「それは一時の」
「気の迷いだとか言ったら許さないからね。起きている時も寝ている時も、ずっと貴方のことを想っていたんだ」
「いやだが娘と結婚など」
「できるさ。得た権力でも何でも使って可能にしてみせるよ」
レティシアの表情は真剣そのものだった。
思わず彼は、少し後ろに退いてしまう。インモラリティ。退廃。
重い頭痛が側頭部で発生する。
「ねえ、私は貴方の子供を産みたい。貴方と共に、残りの人生を過ごしたい」
おおよそ、成熟した娘が父親に対して恋愛感情をまだ抱いていることは問題であろう。
しかし何よりもの問題は、彼が性的な何かを娘に見出してしまったことにこそあった。
「……やめなさい」
「……お父さんは、」
「いいからやめてくれ!」
だからこそ彼は、声を荒げてそう叫んでしまった。自らの罪を、振り払うように。
一瞬後少しだけ冷静になって、傷つけてしまったかと彼女の方を見て、
「……えへへ」
彼のそれに気づいてかいないでか……、いや、気づいているのだろう。レティシアはぞっとするほど美しい笑みを浮かべて、その琥珀の瞳で彼を見つめていた。
そういえば、聡明な子だったなと彼は思う。勇者としての素質ゆえか、あるいはそれ以外のところでか、彼女はいつだって驚くほどに賢かった。
彼女が手を結んでくるが、振りほどけない。
レティシアは同時に性愛と畏敬と親愛の対象として彼の中で存在していた。
「待っているよ。お父さんからの返事を、いつまでも」
「……レティシア」
「だけれど返事は早いほうがいい。特にこういうことでは、割り切らないと苦しいだろうからね」
その日は久しぶりに風呂に入っていたときにレティシアが急に現れたり、ベッドの中にも潜り込んできたりと大変であった。
果たしてレティシアの体は女性として成熟し、そのよく透った鈴の音のような声も、青い花のような香りも情欲を誘わせる。
八年ぶりに見る娘は日常性を有しえず、むしろ久方振りの逢瀬という方が二人の間の雰囲気には近かった。
翌日、彼はいつも通り畑仕事に出ていた。……いや、いつも通りというのは語弊があるかもしれない。
いつも通り仕事をしてはいたが、頭の中は昨日のことが占めていた。
おおよそ娘はまっすぐに育った。その歪み切った性愛を除いて。
彼は父親として教え導き、正さねばならないのだろう。
ただそのためには、娘への恐怖と性愛を克服しなければならない。そうでなければ、父親として接するに値しないから。
「……はあ」
「どうしましたか、悩ましげな表情をなされて」
「うわっ!?」
気づくとすぐ後ろに、修道服をまとった金髪の少女が立っていた。
確かこの方は、昨日娘と一緒に来た人だと彼は思う。
「ええと、聖女様、でしたっけ」
「ええ。イディスと申します」
「イディス様」
昨日も少し話したが、どうにも苦手な女性だった。
人間と話しているというより、もっと高位の存在と話しているという気がするのだ。事実彼女は、身分的にも能力的にも彼より遥かに上であるわけなのだが。
「なんの用でしょうか」
「そう年下の女に畏まらないでください。何か悩みがあるようでしたので、話しかけさせていただいただけです」
「……」
もっとも彼の悩みは、余人に語るべきことでは決してなかった。だから代わりに彼はくわを取って、
「大丈夫です。いつも通り仕事をしていれば、そのうちに方策も思いつくでしょう」
「ふふ。流石に長く生きていらっしゃいますね」
「ええ、問題というのは、いつかは解決するものですから。たぶん」
ゆっくりと時間の流れる村で、永遠性の中に生きてきた男だ。彼は村以外のことは知らないし、魔法も使えなければ掛け算もできなければ行儀も知らないが、それでも年長者の知恵があった。
頭の整理がつかないときは、時間を置くしかないのだ。解決するにしても、しないにしても。
ふと、カイラスは喉が渇いたから、水を口に含んで、
「ところでレティシアとはもう交合したのですか?」
「ぶふっ!!」
思わず噴き出した。何気なさそうなイディスに対して、何を言うのかと。
「その様子ではまだのようですね。あの子は多少強引で事を急ぐ節があるから、もう致したものとばかり」
「げほっ、げほっ。……もしかして有名ですか。この話」
「あの子がお父さん大好きなことは、少なくとも勇者パーティの面々には知られていますよ。公言して憚りませんでしたからね」
げっそりしたように、くわに体重をかける。一体どうしたものかと思って。
「まったく、あの子は」
「言っておきますが、頑是なき子供の戯言と断じることのないようお願いしますね。あの子はしっかり考えてはいるし、なによりずっとそうだったのですから」
「……イディス様は止めなかったんですか。宗教的にもたぶんマズいでしょう」
「いえ別に。そもそも神話の時代(これはあくまで彼女の視点から。実際は宗教の成立した時代)には、近親相姦のタブーなんてありませんでしたからね」
「そうですか……」
しかし確かに彼がレティシアの考えを正そうとしているのも、近親相姦が彼の属する共同体で禁忌だからというだけではない。
最大の理由は、彼が前の世代の者だからというものである。
貧しく医療も公衆衛生も発展していないこの村では、50まで生きる者はほとんどいない。隣家の男にも話したが、彼は自分が、緩やかに『傍にある死』に近づいていっているという意識を持っているのだ。
そんな人間に若者の夫が務まるはずもない。
そこまで気づいた時、なんとなく、どうすればいいのか掴めかけてきたな。と彼は思った。
ちらりとイディスの方を見る。彼女はあるかないかの微笑を浮かべて、彼に手を振っていた。
すべてを見抜いたうえで、彼に気づきを与えるために話しかけてきたのだろうか。
ただまだ少し漠然としているから、とりあえず畑仕事を進めることにした。
「……」
初夏とはいえ、まだ朝早いからどこか涼しかった。
耕しては大根の種を地面に撒く彼を、イディスは感情の分からない瞳で見つめ続けた。
畑にレティシアが出てきたのは昼頃のことだった。午前中は村の役場に行って、諸々の手続きを済ませていたのだ。
「……イディス、お父さんと二人で何をやっているのかな?」
レティシアは見るからに苛立ったように彼女を見つめていた。イディスははぁと溜め息をついて、
「私はただ、彼の仕事を眺めていました。田舎の仕事がどんなものか、気になったので」
「ふぅん。そう言いながら、お父さんを誘惑しようとはしていないね?」
「……私はここまで年上の方に、そういった感情は抱きませんよ」
「本当に?」
「ええ本当です。というか普通はそうでしょう」
「……ならいいけど」
彼は少し不満げな彼女に、カイラスは手を止めることなく声をかける。
「そう人様にいちゃもんをつけるものじゃない」
「だって、」
「だってじゃない」
「むー」
レティシアは年相応の少女らしく、口をへの字に曲げた。子供らしい姿と、成熟した女としての姿。どちらも本当なのだろうか、あるいはどちらかは彼を誘惑するための演技なのだろうか。
八年の隔たりは大きく、彼にはよく分からなかった。
しかしカイラスはくわを地面に横たえて、ゆっくり彼女の方を向く。
「なあレティシア」
「なんだい?」
「お前に話すべきことがある」
「……何かな」
彼の態度から真剣な話だと悟った彼女は、同じく真剣な瞳で彼を見つめ返す。いったい何を、言うつもりなんだろうと思って。
「俺はお前の父親だ」
「……うん、そうだね」
「俺にはまだまだ、お前に教えないといけないことがある」
「……」
なんとなく、彼が求婚をはっきり断る腹積もりであることが伝わったのだろう。昼も盛りというのに、空気が少し冷たくなる。
「なんの話かな。もし私の求婚を本気で断るというのなら、肉親とはいえ容赦はしないよ?」
「……カイラスさん、ここは私が」
「親子の問題だ、下がっていてください」
「……」
仕方がなくイディスは引き下がる。
とはいえカイラスとレティシアの力の差は明白、このままではよくないことが起きるかもしれない。しかし彼はそんなこと意にも介さずに話を続ける。
「お前は先ほど容赦しないと、そう言ったな。それはどういうことだ?」
「……私の方が、お父さんより強い。無理矢理犯すことも辞さないということさ」
レティシアはただ、腕を天に向けて振るう。
たちまちに雲は二つに分かれ、さながら天が割れたが如くになった。
「私が旅で学んだことは、この世界では強者こそが絶対という真理だ。お父さんですら私に怯えただろう?つまりはそういうことだよ」
人間を超えた存在。怪物。常人であったら彼女には怯えひれ伏すことしかできないだろう。先ほどまでの、彼のように。
「……」
暴力は人を従わせる力だ。その気になれば(なることはないだろうが)、レティシアは一瞬でカイラスを殺すことができる。
どころか相当の実力者、聖女や魔王軍の幹部といった怪物でさえ5秒はかからない。
「……それがどうした」
しかし今の彼に恐れはなかった。決意を宿した瞳で、つかつかと彼女に歩み寄っていく。
「何かな?」
面倒くさそうに、彼女は彼のことを睨む。
「お父さん、貴方は私より遥かに弱い。貴方が何を思い、またやったところで
パアァン!!
「…………え?」
「カイラスさん?」
高い音が畑に響く。見るとカイラスの手が、レティシアの頬を引っぱたいていた。
「何、を、」
理解できないと言った風に、レティシアがあらぬところを見る。見ていたイディスも驚いている。
一方でカイラスの中には、もう迷いも恐怖もなかった。
そのまま混乱している彼女の方に手を置いて、力強く語る。
「レティシア」
「ッツ、私に何を、」
「いいから少し聞きなさい」
カイラスの、穏やかな蒼の瞳がレティシアの瞳と合う。そのとき彼女はなぜだか、動くことができなかった。
「お前は旅から色々なことを学んだのかもしれないが、大切なことは教わらなかったようだな」
「大切な、こと?」
「ああ。それも一番大切なことだ」
カイラスは伝えなければいけない。
人として生きるために、おそらくは最も大切なことを。
「なに、大切なことって」
「大切なこと、それは、」
「―――他人を、思いやることだ」
……。思いやること。
カイラスの言ったことの意味を、レティシアは理解できないと言った風な目で見つめていた。
思いやり、それは世界を救うために捨てなければいけないことだった。
だから彼女は、なぜそれが大切なのかと聞こうとして、
「助けてええっ!!!」
突然向こうから、叫び声が聞こえてきた。高い、おそらくは10歳ほどの少女の声。
思わずレティシアとイディスが振り向くと、そこでは。
「ぷぎぃぃぃ、ぷぎぃぃぃ!」
小さな女の子の前に、大人の背ほどもある巨大なイノシシがいた。
おそらくは魔物グレイトボアー。非常に興奮しているようで、事態は急を要する。
「ぷごおおおぉ!!」
「やだ、だれかっ、だれかぁっ!!」
今にも少女は踏みつぶされようとしていた。
早く行かなければと、二人は思って、
「待てぇっ!!」
二人がそう思うより前に、彼はもう既に飛び出していた。
「ッツ!?お父さん!!?」
敵を冷静に見極めてから対処するのが基本である魔王討伐の旅を経た彼女たちと違い、彼はただ女の子を救う、それだけを考えて動いていた。
だから彼は一足早かった。
「逃げろ、お嬢ちゃん!!」
そう言って彼は、今にも少女に襲い掛からんとしていたイノシシにくわを振るう。するとくわの先がイノシシの体に突き刺さり、血が噴き出る。
当然、イノシシの標的は彼になった。
「ぷぎいいぃぃぃぃ!」
見るからに怒った様子で彼を睨みつけ、そのまま突進の構えを取ってくる。
低級とはいえ魔物は魔物。そもそもイノシシは人間より強い。
マズいなと彼は思って、
「ライトニング、ブレードっ!!」
瞬間彼の横から伸びた雷にイノシシは貫かれた。
「ぷg
それを中心として眼を焼かんばかりの光が放たれ、凄まじい熱波が到来する。あまりの熱量に断末魔を残す暇もなく、それは蒸発した。
「うおお、」
……少しして、再びいつもの村の静寂が戻ってくる。何事もなかったかのように、死体さえも残さず。
「お父さん、怪我はない!?」
「あ、ああ。大丈夫だ、助かった」
腰を抜かしたカイラスの下にレティシアが駆け寄る。幸いというかなんというか、この件で怪我をした者はいなかった。どこかへ逃げた少女も含めて。
「よかった」
彼女はなんとか胸をなでおろす。……そして安堵のままに言った。
「お父さん、今度魔物に出会ったら逃げてね」
「ああ逃げるさ。当たり前だろう」
「そうじゃなくて、他に襲われている人がいても逃げて欲しい」
勇者ともあろう者が何を、と言おうとするが、彼女が本気でそんなことを言っていたことに気づく。
「……それは違うだろう。あんな小さい子だ、まさか守らないわけにもいかない」
「お父さんは、勇者である私の父親なんだよ。他の人とは立場も価値も違うということを、理解して」
「……」
イディスは、まあ妥当な発想でしょうと言った風に頷いていた。人は当然平等ではない。それが正しい事なのかどうかは置いておいて。
価値。判断。
レティシアは大いなる力を持っていて、ゆえにその双肩には大いなる責任がのしかかっている。
彼女は魔王を倒すために、戻れば瀕死の親友を助けられたのにも関わらず、死地に置いていって先に進んだ。たった一人の命で人類を救えたのだから、それはとても正しい事なのだろう。
彼女は魔族に子供を人質に取られた時、容赦なくその子供ごと魔族を貫いた。その魔族の要求に従っていたら被害はその子供だけじゃ済まなかっただろうから、それはとても正しい事なのだろう。
常に彼女たちは人命と金と物資と時間と諸々を平等に価値の天秤にかけて、選ばなければならなかった。
レティシアは今カイラスを、本気で説得しようとしているのだ。こんな一見ふざけているともいえる、そんな理論で。
……そう、魔王討伐に必要なのは、英雄になるということだった。ミクロの英雄ではない、マクロの英雄に。
しかし今は、彼女はただの一人の村人だった。だからカイラスは立ち上がって、そしてレティシアの頭を撫でてやった。
「……お父さん?」
彼女は怪訝そうに眉を顰める。そのままカイラスは、徐に口を開いて、
「大変だったな」
「……?」
何が大変だったのか、なぜ今いきなりそんなことを言うのか。レティシアは聞きたそうにしている。しかし彼は彼女の質問を待たずして、言葉を続ける。
「お前は旅で様々なことを学んだんだろう。でもやっぱり一番大切なことは、教わらなかったみたいだ。それがあると、魔王は倒せないから」
「一番、大切なこと。……思いやりとやらかい?」
「ああ、そうだ」
カイラスは優しく笑って、
「小さき者を慈しみ、若き者の未来を思い、年寄りを尊敬し、頑張っている人を心から応援し、苦しんでいる人を憐れみ、悪い人を赦し、なにより人を大切にしようとする……思いやりの心。それがお前には足りないんだ」
「それが何の役に、」
「立つさ。英雄としてではなく、人として生きていくのなら、きっとそれは役に立つ」
「……?」
ここまで言ってもなお、彼女はあまり理解をしていないようだった。当然だろう。8年間身を置いていた世界でむしろ捨て去らなければならなかった考えを、たった二日で理解できるはずもない。
「今は分からなくても大丈夫だ」
「お父さんはさっきから、何を言って」
「分からなくても教え続けるのが、親だからな」
イディスは思う。それを彼女に教えるのは、前途多難だろうと。
レティシアは彼が婚姻に肯じなかった場合、実力行使に出ることを宣言した。それはつまり、父親である彼さえも思いやらないと、言ったようなモノであった。
「まあでも存外、通じあえるのかもしれませんね。流石は親子、レティシアに似て頑固者のようですし」
……余談だが土が痩せていて、また体力のある若者が多いこの村では滅多に魔物は出ない。レティシアは8年も経つから事情も変わったかと思って気にしなかったが、八年は彼女にとっては長い時間でも村にとっては歴史のほんの一部である。
「……なるほど、勇者にとってあの男は大事な人間のようだな」
遠くから彼らを見ている影があった。勇者と聖女である二人にすら気づかれず、彼女らを見ている影が。
その日の夜、勇者レティシアは、一人枕の中で考え事をしていた。
「……思いやり、か」
彼女は考える。その言葉の意味を。
「そんなのは、欺瞞だろう」
思いやりで本当に誰かを救えることなんてない。彼女は旅の一年目でそれを知った。人質の子供を助けようとした結果、狡猾な魔族に町の人間を皆殺しにされて。
「人が優しそうに見えるのは、社会的理由からだ」
情けは人の為ならず。結局、自分がよい人間だと思われていた方が色々なことに都合がよい。思いやるから優しくするのではない、自分を優しく見せるために優しくするのだ。
「……本当に、そうか?」
ここまで言って、何かが間違っているような気がした。いや、絶対に間違っているように感じた。
「お父さんは、誰かを思いやっているから優しいんじゃないのか?」
そうでなければ今日、少女の為にイノシシに挑みかかったことの説明はつかない。
そして何より彼女は、今までのあの父の優しさが偽物だとは到底思えなかった。
「……忘れろ。確かにあの人には思いやりがあるのかもしれない。でも私はそういう人間じゃない」
彼女はばっと布団を頭までかぶると、早く眠るために目を瞑った。
しかしもやもやした気持ちが晴れることはなく、なかなか寝付くことはできなかった。
次の日もいつもと変わることなく、カイラスは畑仕事をしていた。仕事のやり方は何十年も前から、あるいはカイラスの生まれるずっと前から決まっている。
この村では進歩はなく、永遠の停滞の中に人々はいるのだ。都での流行りも、新しい魔法も、センセーショナルなニュースも滅多にここには入ってこない。
レティシアはそれを肌で感じると共に、それ自体はどこか心地のいい事だと思った。
……ただ、この村では障害を持った子供は産婆に殺される。王都では軽いとされている病気でも平気で人が死ぬ。無数の偏見や謬説が蔓延っている。
豊かさと知識、それがこの村が永遠性を得た代わりに失った物であった。
それは果たして、どうなんだろうかと彼女は思う。
コツ、コツ。
するとそんな彼女の下に、イディスが歩み寄ってきた。レティシアは視線を向けることもなく、口を開く。
「なんの用だい?」
「王都からの通信の内容を伝えに来ました」
「?」
「国を挙げてのパレードを行うから、戻ってきてくれと」
「断っておいて」
彼女にとってはどうでもいいことだった。イディスはくすりと笑って、
「軽く言いますね。国王からのお達しですよ」
「この国では、聖教会十八代目法王の君の方が偉いだろう」
「それでも向こうにはメンツと、そして世界を救った勇者様を一目見たいという思いがあるんですよ」
「知ったことじゃない」
ふと彼女はここまで話して、ここで王都に戻るのは思いやりに含まれるのか少し気になった。彼女が漠として掴めていない、思いやり。
「……私に足りていないのは思いやり、か」
数々の人を大義の為に見捨てた。数々の魔族を人類の為に殺した。言い訳はいくらでもあったし、正義ですらあったと思う。
最初は心も痛んだが、そのうちに心は麻痺していっていた。
「……いや待てよ。ということは私にも思いやりのようなものは昔あったって、そういうことなんじゃないのか?」
そこまで考えて彼女は、今は心が麻痺しているだけなんじゃないかと思った。この村の永遠性の中で穏やかな生活を続けているうちに、思いやりを取り戻していくんじゃないかと。
決壊は存外に早かった。
畑仕事中にカイラスが倒れたのだ。
イディス曰く、脳の血管の一部が切れていたそうだ。たまたま回復魔法のエキスパートである彼女が滞在していたために何とか事なきを得たが、ゆっくりと死は口を開けて彼を飲み込もうとしていた。
「……慢性の病気、おそらくずっと前から進行していたのでしょう。なぜ誰にも言わなかったのですか?」
「頭の虫は他人に伝えると、暴れ始めるらしいから」
「そんな虫はいません。……一応聞いておきますが、王都には来ないのですね」
「はい」
「長くは持ちませんよ。私も立場ある身です、来週には帰りますので」
「構いません。俺はこの村で生まれて、ずっとこの閉じられた世界で生きてきたんです」
レティシアは部屋の外に立っていた。イディスが治療の邪魔だと託けて、彼女に話を聞かれないようにしたのだ。
しかしレティシアは、一部始終を聞いていた。聴力を上げる魔法を用いて盗聴していたのだ。
彼女はぐっと一人、拳を握る。
「……無理矢理にでも、王都に行かせて治療を受けさせる」
当然最愛の父親が亡くなるなど、彼女にとっては許しがたい事だった。幸いにも英雄の父親ともなれば、最高の治療は保証されるだろう。
「私はお父さんが死ぬことを、決して。たとえその為に私が死ぬとしても、絶対に許容しないから」
だから、彼女はドアを蹴破って室内に入ろうとした。イディスよりもレティシアの方が数段強いから、仮に彼女がカイラスの側についても連れていくのは容易だろう。
……しかし入る直前彼女は、こんな会話を聞いた。
「貴方にとってこの村で生きて死ぬということは、大きな意味を持っているのですね」
「ここは俺の半身のようなものですから」
「ですが貴方が亡くなってしまったら、レティシアは深く傷つきますよ」
ハッと、息を呑む音が聞こえた。
「……ですが俺はもう年で、十分生き」
「彼女はずっと、旅の間も苦しみつづけていました。己の罪に、将来への不安に、そしてなにより最愛の人と二度と出会えなくなる恐怖に」
「……レティシア」
重苦しい声音だった。娘の気持ちがよく分かってしまったのだろう。
「貴方は報いなければならないのではありませんか?少なくともここで貴方が死んでしまえば、彼女の旅が、努力が報われることはない」
「…………」
「貴方は十分に生きてなどいませんよ。少なくとも彼女にとっては」
「………………」
「結婚は出来なくとも、せめて彼女の何より大切な、貴方に生きて欲しいという慎ましい願いくらい、叶えてあげてもいいんじゃないのでしょうか」
カイラスの思いは揺らいでいた。大切な娘の為に。
「貴方は思いやりについて、彼女に語っていましたね」
「………はい」
「なら生きなさい」
凛とした声だった。。
「生きて生きて生き抜きなさい。たとえ見知らぬ大都会に身をやつすとしても、今までの全てを失うとしても。それが彼女を思いやるという、ことなのではありませんか」
……。
……。
反論はなかった。ただ想いだけが、強く燃え盛っていた。
「……聖女様」
「はい」
「……愚かな俺に、大切なことを気づかせてくれてありがとうございます」
「いえ、神に仕える者として当然のことをしたまでです」
「レティシアに王都に行こうと、そう伝えてください」
「分かりました。では貴方は安静に」
それだけ言って、コツコツとイディスの足音が聞こえてくる。
嗚呼、カイラスは死なない。これからもずっと一緒にいることができる。
この朗報を聞いて、レティシアは。
―――なぜだか逃げるように、家の外に飛び出していた。
「ここに、いたのですか」
「……」
レティシアは一人、畑に立っていた。何を考えているのかは分からないが、辺りを見回しているようだった。
「帰りますよ。王都に。カイラスさんも治療の為にそちらへ向かうことを快諾してくれました」
快諾。それが嘘であることは分かっている。
レティシアはどうしていいかわからず、村の風景を畑から眺めていた。あの男が毎日、そうしていたように。
「……ねえ」
「何ですか?」
「綺麗な村だね。どこか落ち着く村だ」
「……?」
イディスは、レティシアが何を言おうとしているのか理解していないようだった。レティシアも自分が何を言いたいのか理解できていなかった。
斜めからの日差しに輝く池の水面。灼かれる葉の緑。黄金色に染まる茅葺の家。永遠の無何有郷、というのは言い過ぎ化もしれないが、気分的には何の違和感もなかった。
あるべきものたちが、あるべき姿のまま永遠に静止している。季節が変わるにつれ、あの夭夭たる桃の色は移ろってしまうのだろう。
だがそれも、また来年には今の姿を取り戻している。
今ある風景は明日もある風景だし、また1000年後の今日もある風景なのだ。
なんとなくお父さんは、死して永遠にこの村の一部になりたかったんじゃないかなと思う。
それがこの村で生きてきた者の、目的であるのかもしれないとも。
「……」
娘の為にこの村を離れると決心した彼は、一体どういうつもりだったのであろうか。カイラスにとってこの村で死ぬことが重要な理由は理解できないが、この村で死ぬことが重要なのは理解できた。
カイラスはそこいらの娘の為に命を捨てることができる。しかし村の外で死ぬことには、病的とも言えるほどの嫌悪を示したのだ。
……と、そこでイディスが口を開いた。
「……レティシア」
「何だい?」
「行ってください。何か疑問もあるようですが、全てはあの方に聞けばいい」
「……そうだね」
「私は役場に行って、治療班を用意しておくよう王都に通信してから行きます」
「分かった」
閉じた村の永遠性は、外界からの者たちによって損なわれていく。そんなことを漠然と感じながら、レティシアは帰路についた。
「初めまして、というべきか勇者たちよ」
彼女が帰るとそこ、―――つまり寝室には禍々しい角と翼を持った、浅黒い肌の大男が立っていた。
傍らには最愛の父、すなわちカイラスの首を掴んで立たせている。
「なっ!!?」
レティシアが悲鳴のような声を上げる。しかし体だけは8年間の経験で、剣を構えて……、
「おっと、剣は抜くなよ。魔法も唱えるな」
「……くっ、」
仕方がなくレティシアは剣から手を離す。そのまま抵抗はしないと言った風に、両手を挙げた。大男を睨みつけながら、しかし何もできない。
そして抵抗の意志がないことを確認した大男はにやりと頬を邪悪に歪めて、言った。
「くくく、やはり父親の命は惜しいか」
「……何が目的だい?」
「英雄の、失墜」
男はつらつらと語る。悍ましいほどの憎悪を言葉に込めて。
「まず私の自己紹介からしようか」
「いらな」
「私は魔王軍四天王がうちの一人、『神殺』のヴァーレンハイト」
「!!?」
レティシアは、彼が想像以上の大物であったことに驚愕する。『神殺』のヴァーレンハイトといえば、確か魔王に次ぐ魔王軍のナンバーツーであったはずだと。
「私の父親を盾にとって、私を殺しにきたわけか。目的は新たな魔王になって、世界を支配することかい」
「否だ」
「はっ?」
考えを即座に否定されて、彼女は理解できないと言った風に眉根をまげる。
「魔王様を倒すほどの傑物。貴様にこんな小細工をしたところで勝てるなどと思っていないし、何より私が貴様を殺せば魔王様は私より弱いことになる」
「……」
「ならば私の目的は、貴様を殺すことではない。先ほども言ったが英雄としての貴様を、地に堕とすことだ」
彼女はヴァーレンハイトが正々堂々を好む、生粋の武人であると言われていたことを思い出した。
戦争に関わらなかったのも、卑怯な戦いに身を投じなかったからだとか。
「……魔王への贖罪と、勇者への復讐か」
「然り。ならば私の貴様に命令することは、想像できような」
「……」
「子供を一人殺して連れてこい。そうすればこの男は生かしてやるし、その後なら私を殺すことも構わん」
それを聞いて、なんだそんなことかと彼女は思う。
彼にとっては子供を殺すというのは絶対に受け入れられざる、致命的な瑕なのかもしれないが、いつだって大きなものの為に小さなものを犠牲にしてきた彼女にとっては、どうってことはなかった。
そう、だから彼女はカイラスの為にそこいらの見知らぬ子供を殺すことなどどうってことないはずなのだ。
……はずなのに。
「……ぐっ、うっ」
なぜだか彼女は、ひどく狼狽していた。その様子を見た彼がくくくと笑う。
「どうだ、これが英雄の殺し方だ。貴様には死すら生ぬるい。永遠の罪を背負って生きていくのだ」
違う。そんなことはどうでもよかった。
手慣れたことのはずなのに、体が震える。
なぜだ、分からない。多分はカイラスと再会してからのことが関係しているのだろうが、具体的に何が自分を変えたのか分からない。
……そして、
「カイラスのおじちゃん、大丈夫?」
とことこと無防備に、先日カイラスが助けた少女がお見舞いにやってきていた。
レティシアの額から、冷たい汗が流れる。
「くくくっ、はーっはっはっはぁ!!!ちょうどよく生贄が来たようだな!さあ殺せ、勇者レティシア!!!」
今にでも殺してやるさ。お父さんが助かるのなら。
そう何度もレティシアは心の中で思おうとするが、やはり手は動かない。体が鉛のように重い。
寒い、吐き気がする。
魔族を見て腰を抜かしてしまった少女を、一瞬で虐殺することができるはずなのに、なぜか手が伸びていかない。
「なんでだ」
「なんで私は、こんな時に!!!」
今にも泣きだしそうな声をレティシアが上げるが、状況は好転しない。するはずもない。
……しかしその声を聞いて、カイラスが口を開いた。
「なあ、レティシア」
「貴様っ、喋るなと言ったはずだ!」
「頼む、娘と話させてくれ」
40も過ぎた男の、強い眼光。
ヴァーレンハイトはかつて見たことのないほど強い意志に、一瞬気圧される。
「……いいだろう。少しだけだぞ」
「助かる。……それでレティシア、俺はお前に言わなければいけないことがあるんだ」
病気で倒れてすぐの彼の肉体は、弱弱しかった。されど彼の姿は何よりも力強く、大きく見える。
「……なんだいお父さん、こんな時に。待っていて、私がお父さんを助けるから」
「いいや、これだけは聞いて欲しい。どうなるにしても、話しておかなければならないことだから」
「……」
何を言うのかと彼女は思った。
俺を犠牲にしていいんだぞと言うのか。きっとそうだろう。カイラスという男はいつだって、自己犠牲的な男だった。
だからそんな話は聞かず、気力を振り絞って少女を殺そうと彼女は思って、
「レティシア。―――思いやりのある、優しい子に育ったな」
「……お父さん」
なぜだかその言葉は水のように彼女の胸に浸透して、そしてジーンと温かかった。
「お前がこの子を傷つけられなかったのは、お前がこの子のことを思いやったからだ。そしてこの子に生きて欲しいと思う俺を、思いやったからだ」
レティシアはそれを聞いて、なぜカイラスが王都に行くと決めた時に、自分が畑に逃げたのかを理解した。
この村で死にたいと思っていた父親のことを、『思いやった』からだ。
ではなぜ『思いやり』をあの時に持ったのか?
……決まって、いる。村を捨ててでも娘と共に生きようとした『思いやり』が、心に深く沁みたからだ。
「なあ、レティシア」
「……なに、お父さん」
「お前は俺の、自慢の娘だよ」
この時レティシアは、強く唇を嚙みしめていた。眉根をまげて、体を震わせて。呼吸は荒い。
ああ、そうだ。
思いやりの価値は、思いやりに胸を熱くした人でないと分からないのだ。今までの彼女に思いやりの意味が分からなかったのも、今の彼女が思いやりを理解しているのも、当然のことなのだ。
「……」
もう一度彼女が見た時には、カイラスはすでに意識を落としていた。おそらく立っているのもやっとで、限界だったのだろう。
向こうから差す日の色が、少しずつ変わっていく。夏の昼の、茹だる様な熱気はもうない。レティシアの顔の半分が、陰になっていた。
まだ彼女には、やらなければならないことがある。
彼女は一歩一歩、少女に足を進めていく。
「ようやく覚悟を決めたか、勇者よ」
「……ああ」
おびえる少女に、レティシアは言った。
「これからひどいことが起こる。どうか後ろを向いて、耳を塞いでいてほしい」
「……うん」
少女は自分の運命を理解してか、ゆっくりと後ろを向いて、耳を塞いだ。
「カイラスおじちゃんは私を助けてくれた。だから今度は、私の番なんだね」
「……」
「いいよ、一思いに、お願い」
少女はギュッと目を瞑る。儚い運命に翻弄され、しかし少女は正しくあろうとしていた。
……人であるのなら、いずれは訪れる死。
それは思っていたよりも早く来たが、仕方がないのだろう。
ふと少女は、耳を塞いでいた手を掴まれた。
「……目を開けて、ゆっくり前に歩いて」
「……?」
眼を開けると、夕日によって赤色に染められた鮮明な空と、空を飛ぶ鳥の姿が映った。
何が起きたのか、なぜ自分は生きているのかと、少女は後ろを振り向こうとする。
「振り向かないで」
「……え?」
「どうか、振り向かないで」
声は震えていた。嗚咽も聞こえた。
されどそれ以外には誰の声も、聞こえることは決してなかった。そしてそれが、すべての答えであった。
―――八年後。彼女は今日も、大地を枕に碧空を見上げる。
小さな村の永遠性の中に、彼と彼女は共にあった。