後編
それから数日間、夜に家を抜け出す少年の姿を見ることはなかった。
自分の忠告を守ってくれるか不安はあったものの、不良行為を働く少年を連日連夜監視し続けるわけにもいかない。ヨルヒは正義の仕事があるし、維持しなければならない生活がある。
隣室から聞こえる怒鳴り声を少年の存在証明として、ヨルヒはあの夜の出来事を徐々に忘れつつあった。
その日は夜間パトロールだった。
いつものように白いシャツに防刃ベスト、左肩に散弾銃を下げた格好で、ヨルヒは部屋を出た。
外は、西の海から流れてくる臭いで濁り切っている。ただ空気中を舞う粒子は普段より少ないのか、真夜中の空は大陸で燃え盛る炎により、ぼんやりと明るい。ヨルヒは貴重な電池を節約するため、右手に持ったハンドライトを消灯させた。
ルートの途中で立ち寄った駅前のロータリーは、反社会的な若者達の溜まり場となっている。唯一営業を続けている商店の駐車場で、塾帰りらしい気弱そうな少年が、数人の若者に囲まれ現金を要求されていた。
こんなご時世でありながら、学歴という形のない幻想に縋り付く少年も、それを食い物にして荒稼ぎする一部のビジネスも、ヨルヒはクソほどに軽蔑している。
放っておいても良かったが、ここ最近は散弾銃の引き金に指をかけていない事を思い出した。ヨルヒの心に薄暗い蝋燭のような火が灯る。たむろする若者へ向けて声を張り上げると、何の迷いもなく彼らに銃口を向けた。
さっきまで威張り散らしていた若者の声が、途端に小さく震え始める。ヨルヒは、肛門から脳天にかけて虫が這いずり回るようなむず痒さを覚え、身悶えた。
しばらく若者に銃口を向けたまま、ヨルヒはその快感を楽しんだ。
◯
パトロールを終えて帰宅する途中、数十メートル先に見えるアパートの階段から、小さな人影が降りて来るのに気付いた。背格好から、それが隣室の少年である事はすぐにわかった。
少年は、ヨルヒが自室の窓から見ていた時と同じ様に、フラフラとおぼつかない足取りで駐車場に出ると、一度振り返って2階の窓の方を見た。
自分の部屋の消灯を確認しているーーそう感じたヨルヒは、咄嗟に電信柱の後ろへと身を隠した。
ヨルヒの部屋の辺りをしばらく見つめた後、少年は踵を返して道路へ出る。徐々に遠ざかっていく少年の背中を見ながら、ヨルヒは自分の中に抗い難い好奇心の芽生えを感じていた。
少年はどこへ向かっているのか。
左肩から下げていた散弾銃を、不用意に揺れないよう左手でしっかりと握り固定する。ハンドライトは右のズボンのポケットに仕舞い、靴紐の解れを確認すると、ヨルヒは足音を殺して少年の後を追った。
細い道路はしばらく行くと大きな道路へと繋がった。その道の一方は山へ、もう一方は海へと通じている。
少年は海へと向かうルートを、ゆっくりと、しかし焦りを感じさせる歩調で歩いていた。
右手にぶら下げたビニール袋がゆらゆらと揺れる。何度目かの揺れと、遠くから聞こえる波の音が重なる。メトロノームに合わせた自然の音が、静かな夜に響いた。
自動車信号はずっと青を示しているが、道路を走り抜ける車は一台もいない。誰にも見向きもされないメッセージを、この不恰好な金属機械は律儀に送り続けている。その無駄が、ヨルヒの感情を無性に苛つかせた。
無駄の果実を実らせた、痩せほそった樹木の影に隠れながら、ヨルヒは少年を追う。
少年は何度か後ろを振り返ると、海岸へ向かう小道を降りていった。
ヨルヒは嫌な予感がした。
仮に海が何かを運んでくるなら、それは良くないものに決まっている。
みすぼらしい舗装が際立つ海岸沿いの遊歩道を横切ると、その先に見える岩壁の奥へと、少年は消えていった。そこに何があるのか、ヨルヒは知らない。しかし少なくとも、真夜中に少年が向かうような場所ではなかったはずだ。
波の音は大きくなっていた。
自分の足音や、衣擦れの音、緊張により激しくなる呼吸音は、この不気味な胎動がかき消してしまうだろう。少年が消えた岩壁へと、ヨルヒは駆け足で向かう。
岩壁は大きく湾曲し、その内側に数十㎡ほどの空間が出来ていた。回り込んで見なければ気付く事が出来ない死角だった。
海の向こう、西の空の消えない夕焼けが、ゴツゴツした岩肌を照らしている。昔観た映画に出てきた怪獣の、作り物めいた皮膚の触感を思い出させた。
あの映画に出てきた巨大な怪獣は、この国を破壊し尽くして、海へ消えた。子供だったヨルヒはその姿に怯え、そして少しだけ憧れた。
少年は岩壁の窪みに座り込んでいる。
その視線の先で黒い塊が揺れる。
やはり、この海は良くないものしか運んでこない。
ヨルヒは散弾銃のグリップを握り、左手を砲身に添えた。いつでも発砲できる姿勢を崩さず、ヨルヒは叫ぶ。
「お前! 早くそいつから離れろ!」
叫んだ声は、どこか空々しく響いた。口の中が乾燥し、唇が貼り付く。
少年はゆっくりと立ち上がった。
立ち昇る黒煙のような、小さな風一つでかき消えそうなほど弱々しい動きだった。
ヨルヒは散弾銃の砲身にフラッシュライトが設置されていたことを思い出し、急いでスイッチを入れた。円形の光が、少年の足元に踞る黒い塊を捉える。
やはり竜だ。
サイズは大型犬程なので、おそらく幼獣であろう。その小さな頭部の更に小さな目は、ライトの光を受けて輝いた。長い手足を動かし、尾の先をヨルヒへと向ける。
生まれたばかりの竜は炎を排出できないが、目の前の竜のサイズならば、排炎器官が成熟していてもおかしくはない。
早く散弾銃を放ちたかったが、少年は動く気配を見せない。
ヨルヒは舌打ちをした。この位置関係では、よほど近づかない限り、少年に流れ弾が当たる。
「早く逃げろ! そいつは竜だ!」
ヨルヒの指示に反して、少年は銃口と竜の射線上に立ち、ヨルヒを見た。
指先が震えて、思わず引き金を引きそうになる。ヨルヒは慌てて銃口を下に向けた。フラッシュライトの円が小さくなり、あたりは再び赤い薄闇に包まれる。
「こいつ、殺すの?」
少年は問う。波音にかき消されそうな程に細い声だった。
「あたりまえだろ! 竜は発見次第、駆除するんだよ!」
そんな少年のくだらない質問を打ち消すように、ヨルヒは大声で怒鳴り、威嚇する。
「‥‥なんで駆除しなくちゃならないの?」
少年は竜に視線を向ける。
竜は口の端から粘性のある液体を垂らして、小さく唸っていた。地面にビニール袋が転がり、そこから野菜の切れ端や骨などの残飯が覗いている。
この世界で最も愚かな質問に、ヨルヒは怒りを覚えた。大人達が必死で戦っている理由を、無知な子供は理解しようともしないのか。
「この町を守ためだろう!」
叫んだその言葉は、ヨルヒ自身の心を奮い立たせた。背骨のあたりがじんわりと熱くなり、正義という快感が脳を焼く。
しかし少年は、竜を見下ろしたまま、小さいがはっきりとした口調で、言った。
「1組のセイカくんは、頭がおかしくなったおじさんに首を絞められて、死んだんだ」
それは下手くそな絵図が描かれた画用紙を、ゆっくりと引きちぎり、丸めて、落とすような、排他的な響きを含んでいた。
「え?」
予想外の反応に、ヨルヒの恍惚感は引きちぎられ、正義の執行者としての矜持には薄暗い血が滲む。
「2組のセリアちゃんは、公園で『ごうかん』されたし、4組のダイダくんは『ゆうかい』されて帰ってきてない。先生はいつも何かに怒ってて、いつも誰かがよくわからない理由で殴られてる」
ヨルヒは少年が何を言いたいのか理解できなかった。それは一部の頭がおかしい奴らの奇行に過ぎない。そう思い込もうとするヨルヒの思考を乱すように、少年は呟く。
「大人は、何を守っているの?」
竜が大きく唸った。
ヨルヒは反射的に銃口を向ける。
ライトに照らされた少年の顔には、幾つもの赤い斑紋が見える。
それはライトの光をチラチラと反射した。まだ乾ききっていない傷。おそらく、タバコの火を押し付けられた火傷だ。
赤い斑紋だらけの顔の真ん中で、二つの空洞のような目がヨルヒを見ていた。
ヨルヒは目を逸らそうとして、今まで幾度となくその目を避けてきた事を思い出した。
アパートの玄関。
駐車場。
隣室のベランダ。
隣室から聞こえて来る、声を押し殺してもなお漏れ出るその悲鳴を、ヨルヒはヘッドホンで遮断した。
ヨルヒを見つめ、助けを求め、しかしその度に裏切られ、失望の色を深めていく。心の中に浮かんだその哀れな目にヨルヒは目を瞑り、いつも見ないふりをした。
そして、快感を伴う、正義の行いに没頭した。
少年は怯える竜に足元の残飯を掬い、与える。枯れ枝のように細いその腕の先、不自然に折れ曲がった一本の指は、飾り物のように動かない。
ーー大人は何を守っているの?
少年の手に乗った残飯を長い舌で舐め取り、竜は首をもたげた。長い手足で慎重に足元を確かめ、遥か西の大陸にいる仲間へ呼びかけるように小さく鳴いた。
終わらない夕日に染められた岩肌は、子供の頃に見た映画の怪獣のようだ。
子供の頃のヨルヒは、街を破壊し尽くすあの怪獣を観ながら、日常の崩壊を密かに望んだ。
終わらない宿題、理不尽な叱責、友達との喧嘩。
自分だけではどうしようもできない、この不自由な現実から逃げ出す方法論として、子供のヨルヒは怪獣の襲来を心の何処かで待ち焦がれていた。
少年は、竜の頭を優しく撫でた後に「行くんだ」と呟く。
竜は、長い手足で岩壁を蹴り上げると、薄闇の中へと消えて行った。
ヨルヒは散弾銃の引き金に指をかける事が出来なかった。
ここで竜を取り逃すことは、この町のーーこの国の崩壊を引き起こす結果につながるかもしれない。
しかし、すでに壊れかけているこの町を、このままの姿で生き存えさせる事に、一体何の救いがあるのだろうか。
鋭い雄叫びを聞いた気がして、ヨルヒは後ろを振り返る。
終わらない夕日が、彼の横顔を照らしていた。
お読み頂きありがとうございます。
舞台設定のリアリティラインが現実と異なる点については、異世界かつSFという事で大目に見て頂けると嬉しいです(大陸の火でそんなに空が明るくなるわけねーよ!)
某流行病の事を少し意識して書きました。対策が定まっていない初期は、人々の恐怖心が過剰とも言える規制に繋がり、そのストレスから他人を攻撃してしまう人々も散見されました。子供を持つ身としては、様々な行事が中止になり、子供の楽しみが奪われて行った事が、仕方がないとはいえ辛い事でした。
子供が被害者にならないよう、我々大人は考えていかねばならないですね。