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泉鏡花作品 エッセイ

泉鏡花『琵琶伝』雑感

作者: らいどん

(I)


 鏡花、明治29年(1896年)1月発表の短編。

 初期のいわゆる観念小説とよばれた一連の作品の末尾近くにあって、浪漫主義的傾向への移行期に位置する。

 鏡花は直前の明治28年5月に『愛と婚姻』というエッセイを発表していて、因習的な結婚を批判し、自由恋愛、恋愛至上主義を称揚しているのだが、そうした鏡花のロマンチックな恋愛観を如実にあらわした作品としても知られている。


 登場人物は、


 ・お通        ……本作のヒロイン

 ・近藤重隆(しげたか)      ……その夫の陸軍尉官

 ・相本謙三郎     ……お通の結婚以前からの恋人

 ・お通の母      ……謙三郎の養母でもある

 ・三原伝内      ……近藤の下婢、お通の監視役の老人


と、わずか五人。

 ここに、間接的に語られるお通の亡父と、お通と謙三郎がかわいがった琵琶という名のペットのオウムを加えることもできる。


 さて、五つの章に分かれた物語を要約すると、


【第一】 新婚初夜の夜、新婦のお通は、新郎である陸軍尉官の近藤との同衾を拒み、できることなら浮気をしたいと言い放つ。お通は恋仲だったいとこの謙三郎との仲を引き裂かれ、亡父清川通知(みちとも)の遺言で、大嫌いな近藤のもとへむりやり嫁がされたのだった。

 お通と謙三郎の恋仲を知った上で結婚した近藤は、サディスティックな笑みを浮かべる。


【第二】 時は日清戦争下。招集された謙三郎が入営をする当日のこと。

 謙三郎は、かつて自分とお通の恋の仲立ちをしたオウムの琵琶が「オツウチャン」と鳴くのを聞きながら、嫁いだお通のことを思って悲嘆に暮れている。謙三郎は孤児で、伯父叔母夫婦に引き取られ、その家の娘お通と恋仲になったのだった。

 お通の胸のうちを知る養母(お通の母)は、その様子を見るに堪えず琵琶を籠から放つと、たとえ軍律を破ることになってもひと目お通に会ってやってくれと嘆願する。


【第三】 そんなお通の夫となった近藤の嫉妬深さ、嗜虐嗜好は異常なほどで、初夜を拒んだお通を一つ屋に監禁したまま会話もせず、一年以上外出を許していない。

 謙三郎が逃亡兵になってまでして近所に身を潜めていることを知ったお通は、決死の覚悟で脱出を試みるが、近藤の忠実な下婢である監視役の伝内に阻まれる。自らに課せられた職務に忠実たらんとお通を逃がそうとしない伝内は、雨戸を隔てた恋人たちの愁嘆場に接して、忠義と人情の狭間で煩悶する。

 騒動の末に謙三郎は伝内を殺害し、ついにお通と再会する。しかし謙三郎は、待ちかまえていた近藤とその配下によってすぐさま拘束される。


【第四】 近藤は残忍なサディストぶりを発揮し、謙三郎の銃殺刑の現場にお通を立ち会わせる。恋人の惨死を目のあたりにして精神の病にかかったお通は実家に戻り、あたかも謙三郎と所帯を持ったかのような幻覚のなかで暮らしている。

 ある日、窓外から「オツウチャン」と呼ぶ琵琶の声が聞こえてくる。オウムの声に導かれながらさまよい歩いているうちに、いつしかお通は謙三郎の墓所に来ていた。


【第五】 霊園ではなんと、近藤がののしりながら謙三郎の墓を蹴飛ばし、唾を吐きかけている。卑劣な行為をお通に目撃され、憎しみに歪んだ顔を向けられた近藤は激昂し、お通に銃を向けて発砲する。お通は近藤にしがみつくと、その喉を食い破って果てる。

 二つの死体の上で、琵琶はしきりにお通の名を呼んでいる。


 ……とまあ、特異な人物たちをドラマチックに動かす作劇は、これ以上の簡潔さが望めないほど削りこまれ、文章も彫琢を極めている。

 とはいえ、まるでそれぞれの造形によって性格が決められた五体の人形が演じる人形劇であるかのような不自然さが否めない。人形たちにはそれぞれの妄執がキャラクターとして固定されていて、いざとなれば人殺しさえためらわない、あきれるほどの偏執狂ばかりで、近代的であることに逆らうかのような、大時代な愛憎劇である。

 『夜行巡査』や『外科室』で得た、最新流行の「観念小説」を代表する作家というレッテルはどこへやら。



(II)


 さらにあらすじを簡潔に削ると、まるで江戸読本や歌舞伎の悲劇のような因果律の見通しがよくなる。


【第一】 恋人がありながら亡父の遺言で嫌いな近藤と結婚させられたお通は、あくまでも近藤を疎んじている。


【第二】 お通の恋人である謙三郎は入隊の日にお通の母に嘆願され、軍律を破ってお通にひと目会うことを決意する。


【第三】 お通は嫉妬深い近藤に監禁され、近藤の下婢・伝内に監視されている。謙三郎は伝内を殺害してお通と再会するが、踏みこんできた近藤に拘束される。


【第四】 近藤は復讐のためにお通を謙三郎の銃殺刑に立ち会わせる。気のふれたお通は戸外をさまよい、謙三郎の墓所にたどりつく。


【第五】 謙三郎の墓前で、たがいに憎しみを抱いたお通と近藤が鉢合わせをする。殺しあいのすえ、両人ともに相果てた。


 ――つまり、謙三郎、お通、近藤という三人の偏執狂がおりなす三角関係の、残虐趣味仕立ての因果応報の顛末である。


 これを登場人物の視座と関係性に絞りこむと、見えてくるのは、『義血侠血』以来の鏡花の小説にしばしば見られるシンメトリカルな構成である。


【第一】 お通×近藤

【第二】 謙三郎主観

【第三】 謙三郎=お通

【第四】 お通主観

【第五】 お通×近藤


 伊藤整は「泉鏡花」という文章で、「彼が本当に書くことのできたものは、場景即ちシーンであって、物語りの筋の展開でないことは、劇の設定そのものの多くが不合理で下手だったことによっても明らかである」「泉鏡花という作家の小説は、その設定やその筋を確かめて読むべきでなく、歌舞伎や文楽のように、その場面の一つ一つを味わい楽しむべきものと思う」といっているのだが、これほど堅牢な構造によって成り立つ創作物の書き手に対してなにをもってそんなことがいえるのか、理解しがたいところがある。


 それはちょうど、堀辰雄がプルーストの『失われた時を求めて』について、


「どの一冊だって初めから終りまで通読しようなんという気にはなれない。だから僕は手あたり次第に一冊引っこ拔いては、出まかせに開けた頁を読むことにしている。……その後N・R・Fのプルウスト追悼号の中でヴァレリイがプルウストの作品は何処から読み始めて何処で切っても差支えないものだと言つているのを発見して大いに意を強くしたね。」(堀辰雄「プルウスト雜記」)


といっているのと同じようなもので、読みやすい翻訳や解説がそろった今の時代において『失われた時を求めて』を読んでみると、けっして部分を味わって満足すべきものではなく、最初から最後まで完読しなければ見えてこない構造によって成り立っている小説だと確信できる。


 もちろん伊藤整も堀辰雄もポール・ヴァレリーも、その時点においていい加減なことを述べるような人ではなかったことからすると、その時代にとってあまりにも異質で大きすぎるものには、その時代から離れた後世から全体を見なければ見えてこないものがあるということなのだろう。



(III)


 さて、物語のメインモチーフである、この三角関係をかたちづくる人物を、あらためて書きだしてみよう。


  謙三郎     お通      近藤


 この三角関係には、謙三郎とお通の間にはお通の母が、近藤とお通の間には伝内が、有形無形の力をおよぼしている。


      お通の母    伝内


  謙三郎     お通      近藤


 お通の母と伝内を三角関係の上位に置くことで、左斜面には「謙三郎-お通の母」という恋愛至上のライン、右斜面には「伝内-近藤」という因習と義務のラインが見えてくる。「恋愛至上」と「因習と義務」の対照的な配置に挟まれて、その狭間で煩悶するのが、ヒロインのお通である。


 ところで、この関係性のなかに、本書の題名になったオウムの琵琶を置くとすると、どこに配置すればいいのか。人間関係の欄外で「謙三郎-お通」の愛を取り持つことから、考えられるのはさらに上位の位置である。


          琵琶


      お通の母    伝内


  謙三郎     お通      近藤


 このように琵琶を置くことによって、「謙三郎-お通の母-琵琶」という恋愛至上のラインはさらに鮮明になる。しかし、琵琶と近藤、伝内は無関係であり、「近藤-伝内-琵琶」とつながるはずの因習と義務のラインは矛盾をきたしてしまう。



(IV)


 ここで、あらためて、琵琶とは何なのかを考えてみる。

 もちろん、気軽に恋人の名を呼び、恋人たちを結びつけるオウムの琵琶は、あからさまに自由恋愛の象徴である。

 けれどもオウムは、なんの意味も理解せず、周囲の反応をうかがいながら慣習的に「オツウチャン」と唱えているだけであって、なんら思想的実体を伴っていない。


 そのような存在である琵琶に対応する人物が、物語の中にいないだろうか。

 登場はしないが、示されてはいる。因習的な結婚を遺言によって娘に押しつけたお通の亡父である。

 琵琶とお通の亡父はともに、情愛的な実態をもたない空虚なことばを吐くことによって、生きた人間の愛憎関係を外部から動かす存在である。つまり琵琶とお通の亡父は、正と負の力で拮抗しながらも、同じ本質をそなえた表裏一体の存在なのだ。すなわち、琵琶をお通の父と同等に置くことで、因習とはオウムのことばのようなものであるという、オウムの名を題名に選んだことに(意識的にか無意識的にかは不明だが)隠された、鏡花の皮肉があきらかになる。


 『琵琶伝』という題名は、

「(そのことばは空虚ではあるがそれゆえに哀れを感じさせる)琵琶伝」

「(そのことばは義務をともなうもののじつは空虚にすぎない)因習伝」

という二つの背反する意味を潜在的に兼ね備えているとも考えられるのだ。


 こうして書き直された登場人物表は、以下のようになる。


       琵琶/お通の亡父


      お通の母    伝内


  謙三郎     お通      近藤


 琵琶とお通の亡父は表裏一体の存在だと考えることによって、「謙三郎-お通の母-琵琶」という恋愛至上のラインと、「近藤-伝内-お通の亡父」という因習と義務のラインが、ここにおいて堅固に完成する。


 物語の構成のみならず、登場人物の属性にもこれほどまでの対称性を徹底させるというのは、奇妙なことのように思える。たしかに一種の偏執的な姿勢ではあるのだけれど、たとえばエミリー・ブロンテの『嵐が丘』なども、構成や人物配置における対称性が顕著な小説であって、あるタイプの作家がたどりつく姿勢の一つだとも考えられないだろうか(もしかすると、ゴシック・ロマン的な指向性といっていいのかもしれない)。

 まあ、勇み足のすぎる考察はひかえるとして、そもそも、なにかを描こうとしたとき、そこに必ず対立要素を配置するのは、鏡花の基本的な作劇法でもある。


 たとえば、【第三】で、お通と謙三郎が再会をする、物語の頂点をなす場面。


「内に入らむとせし、謙三郎は敷居につまづき、土間を両手をつきざまに俯伏(ふつぶし)になりて起きも上がらず。」


 一刻も早く、一瞬であってもお通と抱擁したいという謙三郎の焦燥に対して、敷居につまずいて起き上がれないという対立要素が即座にあてがわれる。

 あるいは、別の作品『辰巳巷談』では、主人公の鼎が恋人のお君に会いに行く物語を語りだすにあたって、まずお君の住処が探してもわからない、という状況から語りはじめる。

 あるいは『高野聖』は、厳寒の越前敦賀の宿に泊まった僧が、灼熱の飛騨山中での出来事を語る枠物語であったりもする。

 構成においても、けっしてスタイリッシュを気取っているわけではなく、細部と細部の対立、全体と全体の対立によってドラマを組み立てることで、細部が全体を模し、全体が細部を模した結果として必然的に導かれるシンメトリーなのである。



(V)


 この『琵琶伝』に対しては、明治29年1月に、森田思軒が批評の俎上にあげている。


「鏡花の激と執着とを写すや()ねに其の原因を写すに疎なるを(うら)む甚だしきは全く之を殺して見せしめざるに至る。」(森田思軒『偶書』)


 鏡花という作家は、激情や執着を描く場合、いつもその原因を示さないのが残念である、ひどいときはまったくそれをやらず、なんの説明もないということになる、と思軒は鏡花の欠点を嘆いている。

 科学的な視点から社会と結びついた小説、心理主義によって人間の実体を解明する小説、つまり「近代小説」を理想とする立場からのまっとうな批判だといえる。


 けれども『琵琶伝』で鏡花が目指したのは、『愛と婚姻』で宣言した恋愛至上主義の理想を小説として示すにあたって、典型的なキャラクターをどう配列して、その語りをどう構成するかという方法論の確立であって、その技法のために使われたものと思軒が要求するものとは、まったく噛み合っていなかった。

 『琵琶伝』によって自分なりの手応えを得たのだろう鏡花の筆は、みいだしたばかりのその技法に、より豊かな素材を注ぎこむために、いかにも「鏡花らしさ」にみちた同年の傑作『照葉狂言』へと向かっていく。

 以後鏡花は、いかに崇敬する思軒から批判されようと、いかに世評を悪くしようと、いかに自然主義者たちから過去の遺物扱いされようと、独自に発見したシンメトリカルな対立の作劇ともいうべき、一見して反近代的なルックスをおびたそれを曲げることはなかった。


 明治末から大正期の充実期の作品では、思軒がいうところの「其の原因」が示されないという弱点は、さすがに目立たなくなる。しかしそれは、多くの明治・大正期の作家たちが受け入れた近代小説的な手法を取り入れることによってなされたわけではない。

 『琵琶伝』で自家薬籠中にしたシンメトリカルな因果律の糸を、物語の背景にも二重三重にもつれさせることで「其の原因を写す」ことに職人的な委曲を尽くした結果、鏡花の小説はその絶頂期に向けて、用字用語のみならず構成面においても、ことばによるフランボワイアン様式ともいうべき難解、複雑の一途をたどることになる。







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