第22話 バレないとでも思った?
「また失敗……?」
僕が茫然と呟くと、『彼女』は美しい笑みをその顔に貼り付けて頷いた。
「そうです。この世界は何なのか。あなたはそう疑問を抱いたのでしょう?」
ひらりとスカートの裾を翻しながら、滑るようにこちらに進んできたその人――人ではなくおそらくは神? ――が僕の顔を覗き込む。
理由など解らない。
目の前の女性をただ異質だと感じて、背中に冷たいものが這い上がるような気がした。
「疑問を抱くこと、それは素晴らしいことです。あなたのような『誰かによって作られた命』が自我を持つ。それはこの世界が間違いなく格が上がることにつながります」
「格?」
僕はただ彼女の言葉を繰り返す。理解が追い付かないというか、頭が上手く働いていない。
彼女は形の良い眉を僅かに顰めると、この暗闇の中をぐるりと見回した。すると、それまで恐ろしいまでに闇の色だった空間が少しずつ光に染まり、頭上に『穴』が空いた。
「……え?」
僕はその穴を見つめ、そこにある光景を茫然と見つめる。
「あれがあなたにとっての現実です」
彼女は困ったように続ける。「今も進み続けている時間。あなたの現在、これからの未来」
「え?」
僕はそこに映し出されている彼――ガブリエルの姿に、胸を突かれたような気分になった。
空に浮かんでいる空間。
それはさっきまで僕がいた場所だ。学校の中庭で、魔物となった殿下に襲われて意識を失った。
いや、死んだのか。
僕は、もう生きていないのか。
ガブリエルは僕のぴくりとも動かない身体の傍で膝を突き、ただ虚ろな表情で呟いている。僕の身体にはあの黒い槍が突き刺さったままで、それを何度も叩き切ろうとしたのだろうか、魔剣を握る手が内出血でもしているかのように赤かった。
「守ると、約束したのに」
ぞっとするほどの白い頬。
いつだってお気楽そうな表情しか見せなかった彼とは思えない。ガブリエルは魔剣を地面に突き刺して杖のようにして立ち上がったが、その動きはどこかぎくしゃくとしたものであり、自暴自棄になっているようにも見えた。
「ガブリエル」
僕がそう声をかけても、彼の耳には届かないのだろう。ガブリエルは冷えた横顔を見せたまま、魔剣を振りかざして巨大な魔物に飛び掛かっていった。
「駄目だ! やめさせてくれ!」
僕はその玉砕することすら覚悟の上だと言わんばかりの様子に驚き、必死に懇願した。「ガブリエルを助けてくれ!」
でも、彼女は小首を傾げて笑うだけだ。
「わたしは手を出すことができません。助けるならあなたがやらねば」
「しかし僕は!」
――死んだんだろう!?
僕は彼女の方に歩を進め、焦りに任せてその胸元に手をかけようとした。
しかし。
「生きていますよ? 厳密的に言うと、あなたという存在は『生きている』と表現するのも間違っているのかもしれませんが」
彼女は僕の頭の中を読み取ったようで、優しく微笑みながら続ける。「本当ならば、こうしてわたしがあなたに、いえ、全ての人間に接触するのは禁じられています。でもこうしてあなたをこの空間に切り離したのは、可能性に賭けたからなのです」
「は? それはどういう……」
僕の伸ばした手は彼女に触れることはなく、何もない空を切ってしまう。彼女は肉体を持っていない存在なのかもしれないと唇を噛んでいると、彼女は空に浮かんだ光景を見上げて見せる。
「わたしは女神アイ。この世界を崩壊させないようにと命じられて、魂の選別を行いました」
「選別?」
「この世界は数え切れぬほど崩壊と再生を繰り返してきました。そのように造られてきたのです」
……は?
僕は困惑の声を上げることもできなくなり、ただ顔を顰めて次の言葉を待った。全部説明してもらわなくては理解できないと知ったからだ。
「端的に説明しますと、ここはあなたが考えているような世界ではありません。ヒロインのための世界。確かにゲームではそうでした。でも、今は違うのです」
――じゃあ、何だ?
「この世界は、わたしのための世界なのです。女神アイ、わたしという存在のための、試験場」
「え?」
「そう、もう一度言いましょう。ここはわたしのための世界です。わたしの上の存在、本当の『神』によって与えられた試練、それがここにあるのです。この世界を崩壊せずに保つことができれば、わたしは本当の意味での神になれる。つまり」
そこで彼女はゆっくりと僕に顔を向け、両腕を広げるようにして慈愛の微笑みを浮かべた。
「この閉ざされた世界から出て、わたしが本当の神となる。そのための試験場」
「……よく、解らない」
僕が思わず数歩後ずさって首を横に振っていると、彼女は憐れむように目を細める。
「理解できなくてもいいでしょう。あなたは――エヴェリーナ・リンドルースは興味深い変化を遂げました。わたしが選んだ魂をこの世界に投げ込み、崩壊を起こさないための物語を進めさせた結果が、変質したあなたです。あなたは本当ならば魔物となってこの世界の崩壊を促すきっかけとなるはずでした。でも今は違うでしょう? あと少しなのです。あと少しで、この世界は平穏を手に入れることができた。残念ながら失敗したように思えたのですが……でも、まだ遅くはないと期待したのです」
「解らない」
僕がぼんやりとそう繰り返している間にも、頭上からは凄まじい音が聞こえてくる。
魔物の咆哮と、何かがぶつかる音。人間の叫び声、そこには聞き覚えのある声も確かにあった。
「これが最後のチャンスだったのです。わたしに与えられた最後の試験」
女神アイとやらは穏やかに続ける。それはだんだん僕の心に苛立ちを与えた。何でそんなに落ち着いていられるのか、と。頭上に響く声を何とも思わないのか、と。
「痛ましいことだと思っていますよ? だからこうして救いの手を伸ばしているのです。この切り取られた空間の中にあなたを、エヴェリーナ・リンドルースを保護しました。もう一度あの世界に戻り、あなたが『彼』を救ってくれれば全て終わります」
「彼?」
「アルフレート・フリードル。あなたが彼を受け入れ、暗闇から救いだしてその手を取ればおそらくは――」
「解らない!」
僕はそこで思わず叫んでしまった。
女神アイの言っていることは、よく解らない。
彼女はおそらく、考えていることを僕に正確に伝えようとはしていないのだろう。説明が簡潔すぎて全く理解できないのだ。
でも。
ガブリエルの苦痛に満ちた声が頭上で響いて、それどころではなくなってしまった。
慌ててその声の方を見上げると、ガブリエルの左肩、そしてその左足にも魔物の身体から伸びた黒い槍が突き刺さっていて、それでも剣を手放すことなく戦おうとする姿があって。
――死んでしまう。
僕は急に目元が熱くなるのを感じて、慌てて大きな声を上げた。
「ガブリエルを助けてくれ!」
「だからそれはあなたがやるべきことで」
「解ったから、僕をあの場所に戻してくれ! もう何でもいい! 僕だってまだ戦えるんだったら、何でもやる!」
「そうですか」
そこで彼女は小さく笑い声を上げ、僕の方に手を伸ばしてきて。
冷たい感触が僕の頬に触れたと思ったその瞬間、彼女は僕の耳元に顔を近づけてこう囁いた。
「外の世界に出たら、ここでわたしに会ったことは一言でも言ってはいけません。これはルール違反なのです。わたしはあなたを助けてはいけなかった。あの少年、ガブリエルも見捨てなくてはいけなかった。だから秘密ですよ?」
――もう、解ったから早く!
そう叫びそうになった時。
『ざーんねんでした。バレないとでも思った?』
そう、頭上で何かが割れるような音と共に降ってきた声があった。背筋をびりびりと震わせる気配に足が竦みつつ、僕はのろのろと顔を上げた。
悲鳴を上げなかったのが不思議なくらいだ。
空が割れていた。
黒いだけの空が大きくひび割れ、そこにあったのは巨大な女性の顔だ。まるで、割れたガラス窓を覗き込むような格好で、『それ』は僕らを見下ろしていた。
自分が蟻か何か、小さな存在になった気がした。
それほど、『それ』は畏怖の対象でもあったのだ。
明らかに人間とは違う存在。これこそが本当の『神』なのだと本能が理解してしまうのだ。
硬質そうな長い髪の毛、宝石のように輝く瞳、整った鼻筋と白い唇。滑らかでシミ一つない真っ白な肌と、異国の民が着そうな色とりどりの刺繍の入った服。それが瞬き一つしたら、この世界が吹き飛んでしまいそうだと思えるほどの圧倒的な力。そんなものが頭上に現われている。
僕はいつの間にか、その場に座り込んでいた。
そして、女神アイもまた、僕と同じような状態だった。
「あ、あの……アルディアナ様……」
そう言った女神アイの声は相変わらず穏やかであったけれど、諦めに似た響きも混じっていたように思う。ほんの少しだったけれど、落胆したような肩が僕の目に映る。
そして、僕は女神アイが口にしたアルディアナ創生神の名前に息を呑んでいた。
アルディアナ様、それはこの世界を造った神。
この世界一番の力を持つ神。
それが。
『残念ね、女神アイ。あなたは失格でーす』
「そんな!」
空の割れ目から覗き込む巨大な顔は、ただ楽しそうに笑っているだけだ。
『チャンスは与えたわよ? あなたが本当の神になるための昇格試験。それがこの世界だった。この世界を救う聖女となるべく魂を一つ選べ、と最初に言った。でも、まず一回目は失敗した。だから簡単にこの世界は壊れた』
「でも」
『まあ、一回目だものね、もう一度やってみなさい、とわたしはやり直させた。でも結局失敗した』
「あの、だから」
『だからラストチャンス、魂を二つ選べ、とわたしは言った。ヒロインの魂と、もう一つ』
――もう一つ。
僕はその場に座り込んだまま、母の顔を思い浮かべた。
『この世界の救世主となる魂が二つ。これならあなただって試験をクリアすることができるのではないか、と思ったのだけど』
「それは僕の……?」
思わず僕が小さく問いかけた時、巨大な双眸が僕を見下ろした。
『せいかーい! あなたの母親は、別の世界から引き寄せられた魂を持つ存在。この世界を救うために力を与えられた存在だったというわけ』
そう告げた彼女の顔は、少しだけ困ったように僕を見つめていたようだった。
女神アイは茫然とした様子で何も言うこともできず、アルディアナ様を見上げているだけで。
一体、僕はどうしたらいいのだろうか。
そう考えている間に、空に空いた穴に映っていた光景は、まるで時をとめたように固まっている。
ガブリエルは魔物に剣を向けて地面を蹴った格好で、魔物――アルフレート殿下の成れの果てはそのガブリエルに向かって巨大な牙を剥いて襲い掛かろうとしていて。
ヒロインであるエリカが何か叫ぼうとし、猫のような生き物がエリカを守ろうと彼女の前に浮かんでいて。
ロベルト先生もラウラ先生も、魔物に向かって魔術を放とうとした姿のまま停止している状態で。
『まあ、今回はしょーがないわね。関係者を集めて終わりにしましょうか』
アルディアナ様は白い指先で自分の唇を撫で、それからぱちんと指を鳴らして見せた。
その瞬間、止まっていた頭上の空間に動きが現れた。
何かが壊れる音と同時に、僕の周りにそれまでいなかったはずの人たちの姿が出現したのだ。
剣を握ったままだったガブリエルが目を見開いて剣を下ろし、その近くには泣きそうな表情のエリカが猫を両腕に抱え込んで座り込んでいる。
そして少し離れた場所には、人間の姿に戻ったアルフレート殿下が、悄然と肩を落としながら俯いている。
さらに。
「何これ?」
困惑した表情の母が、頭を掻きながら僕の前に立っていた。




