第21話 この世界は何なんだ?
「レベルアップしましたレベルアップしました、でも全然追いつかなーい! もおおおお!」
そんな叫びが僕らの背後から聞こえてきて、ガブリエルが「うるせえ」と悪態をつきながら魔剣を握り直す。
僕も素早く辺りを見回し、腰を抜かしているのか地面に座り込んだまま動けない生徒たちが数人いることに舌打ちし、彼らを逃がす手段を考えていた。
殿下――黒い魔物はいつしかその身体中に鋭い槍のようなものを生やし始め、近くにあった木々、石畳の通路さえも攻撃始めている。もうドラゴンらしさも消え失せ、禍々しい気配を放つ『何か』だ。
不規則に鳴り響く地響き、巻き起こる土煙。
さっきまで晴れていたはずの空もゆっくりと暗くなり始め、奇妙な息苦しさまで感じてしまう。まるで空気すら毒でも孕んでいるかのようだった。
唐突に魔物が吼えた。
その瞬間、離れている校舎の窓ガラスが一気に割れる。
降り注ぐ破片、苦痛を含む誰かの悲鳴。
「とりあえず、行くぜ」
ガブリエルが短くそう言って地面を蹴り、肉体強化の魔術を使った気配と共に白刃が煌めく。魔物から伸びた巨大な棘を一刀両断し、地面の上に転がしていく。
……やるなあ。
そんなことを考えながら、僕は近くで座り込んだままの生徒たちに駆け寄り、その腕を掴んで無理やり立たせ、魔物の攻撃が届かない場所へと引きずっていく。とりあえず、邪魔なものは排除しておかないと安心して戦えない。
あっという間に戦うため空間を確保して、僕もガブリエルのところに戻る。並んで戦うために。
「やっとスキル覚えたぁぁぁ」
半泣きで闇の欠片と戦い続けているエリカは放置して、僕も魔剣を構えて地面を蹴った。
切り飛ばした棘は金属音のような音を立てながら宙を舞い、予想もしていなかった方向へ飛んでいく。地面に落ちるだけじゃなく校舎の壁に突き刺さるものもある。そして授業の開始と終了を告げるための大きな鐘が壊れて落ちてきた。
「ちょっと、何事なのー!?」
遠くからロベルト先生の金切り声が聞こえてくる。「ラウラ先生、ちょっと援護してちょーだい! 何だか解んないけどあの魔物、ぶっ殺してくるわ!」
「言葉遣い」
ラウラ先生の呆れた声も聞こえる。
何だか唐突に、味方が増えた感じがして少しだけ――僕は油断したのかもしれない。
「エヴァン!」
一瞬だけ、僕はロベルト先生たちに視線を向けた。
その途端に響く、ガブリエルの叫び声。
え? と僕が視線を元に戻した時、目の前に鋭い槍が迫っていた。
「危な……」
慌てて僕が魔剣を真横に振り払い、その黒い槍を跳ね飛ばした直後。
凄まじい衝撃が僕を襲った。
「エヴァン! おい!」
切羽詰まった声を上げながら、僕の前にガブリエルが降り立つ。そして、彼は握っていた魔剣を僕に向けた。
いや、僕に向けたんじゃない。
僕の腹に突き刺さった、黒い槍に向けた。そして彼は思い切ったように剣を振り下ろした。
激痛と衝撃。
悲鳴を殺すことなんてできず、僕は手にしていた魔剣を落とし、目の前にある黒いものを掴んだ。
「おい! しっかりしろ!」
ガブリエルが真っ青な顔色で僕の前に膝をつく。
僕も気が付けば両膝を地面につき、呻くことしかできずにいる。ただ僕は現実味のない目の前の光景を見つめ、どうしよう、と呟くだけだった。
魔物から伸びた鋭い槍は、まっすぐに僕のお腹に突き刺さっている。血は出ていないけれど、凄まじい痛みだけが全身を突き抜けていく。
どうしようどうしようどうしよう。
失敗した。
あれだけ剣の訓練をしたのに。
ダンジョンに潜って、多くの魔物と戦ってきたのに。
いざという時にこれか。
「どうしてぇ!?」
こちらの様子に気づいたのかエリカがそう叫び、ロベルト先生も「ちょっとぉ!」と悲鳴を上げている。
でも僕は、目の前にいるガブリエルから目をそらすことができずにいた。
「……エヴァン」
怯えたような、後悔したような、さらに絶望したような複雑な色を含む彼の瞳。彼の震える手が魔剣を握り直すのが見えて、「ごめん」という短い謝罪の声も聞こえる。
「痛かったらごめん、ぶった切る」
彼は悲壮な覚悟を決めたようにそう言うと、僕の腹に突き刺さった槍に魔剣を叩きこんだが――切断することは叶わず、ただ僕の喉から苦痛の悲鳴が上がるだけだった。
「ごめん!」
彼もまた、苦痛に満ちた叫びを上げた。
どうしよう。
僕の身体が冷えていくのが解る。まるで、体内を巡る魔力を魔物に吸われているかのようで、全身から力が抜けていくのだ。
このままだと死ぬのだろうか。
僕が死んだら。
「母は悲しんでくれるはずだ」
するりとこぼれたその声は、掠れていて誰にも聞こえなかったのかもしれない。それに、実際に声になっていたかどうか。
気づいたら、僕の目の前はただ暗く、何の音も聞こえなかった。
どうしよう。
暗い。
どちらの方向を見ても、ただ闇が広がっている。
静かだ。
何も聞こえない。
さっきまであったはずの痛みが消えているのを感じて、僕は厭な考えに行きついたのだ。
「……死んだのか、僕は」
そう呟いたはずの声は、この暗闇には伝わらないのだろうか。ぼんやりとこもったような音となり、すぐに消えた。
ここが死後の世界なのだろうか、と暗闇を見つめる。
辺りを見回しているという動きをしているはずだけれど、どこを見ても、自分の身体や腕を見ようとしてもその輪郭すら解らない。
ただひたすら静かで、孤独で、怖かった。
「ガブリエル」
僕は彼の名前を呼んだ。
返事がないことも解っているけれど、ただ呼びたかった。
そして唐突に。
『エヴェリーナ』
聞き覚えのある声が辺りに響いて、びくりと僕は顔を上げた。何もなかったはずの暗闇の中に、ぼんやりと浮かび始めたものがある。
まるで陽炎のように揺らめく光景。
夢の中にいるかのような、ぼんやりとした姿が遠くに見えた。
「父……上?」
僕は茫然と呟いた。
今よりも若い父の姿がそこにはあった。不機嫌そうな父が僕を見て、苦々し気に言葉を吐き出す。
『私は忙しいのだ。話があるならお前の母親に言え』
父はそう言って、目の前から消える。
その代わりに浮かび上がるのは、母の姿。金糸の刺繍の入った赤いドレスに身を包んだ母は、妙に派手な化粧をして僕を睨みつけていた。
『邪魔よ、自分の部屋に行きなさい』
その突き放すような言葉に僕は息を呑み、急に暴れ出した心臓の鼓動を感じる。心臓が動いている。つまり、僕は生きている?
混乱しながら僕は自分の胸に手を当てた。
そこでやっと、自分の手のひらが見えた。
少しだけ辺りが明るくなったせいだろうか。
『あなたを産んだのは義務だもの。もう終わったのだからわたしの手を煩わせないで』
続いた響いた母の声に、僕はまた顔を上げた。
「違う。こんなこと、一度だって言われたことない!」
僕は困惑しつつそう叫んだ。
すると母はさらに僕を蔑むように見下ろし――そうだ、まるで子供を見下ろしているかのような角度で言うのだ。
『あの男の血を引いていると思うと可愛くもなんともない』
「違う! これは違う!」
そう叫んだ瞬間、辺りに響いた次の声は。
『お父様もお母様も、わたしを愛してなどいないの』
酷く幼い、それでいて厭と言うほど聞き覚えのある、僕の――幼い頃の声だった。ただ違うのは、妙に女の子らしい口調だったということ。
そしていつの間にか、見下ろした自分の手が妙に小さくなっていた。白くて細い、小刻みに震えている手。か弱さが妙に際立つ動きだった。
『君がエヴェリーナ?』
そして続いて響いたその幼い声に、僕はハッとして顔を上げた。
するとそこには、母の姿ではなく幼い彼がいたのだ。彼――アルフレート殿下の、小さな姿。きっと、六歳とか七歳とか、そのくらいなんだろう。無邪気な笑顔を浮かべた彼は、まるで天使か何かのように僕の目に――いや、『わたしの目に』映ったのだ。
『はい、殿下』
わたしがそう言うと、彼はさらに嬉しそうに口元を緩ませてこちらに手を伸ばしてきた。
『よろしくね、エヴェリーナ。これから仲良くしようね』
彼は優しくわたしの手を取って、そっと引いた。
わたしはその時、泣きそうになった。
初めて、初めてわたしに優しくしてくれた人。
それがわたしの婚約者なんだって。
わたしたちは結婚するんだって。
わたしのこと、愛してくれるんだって。
初めて、初めて、初めて。
わたしを見てくれた人! わたしを愛してくれる人!
わたしはその時、目の前の王子様に恋をした。大好き。この人が好きになる。間違いない!
そんな幼い激情に流されそうになりながら、『僕』は叫ぶ。
「違う! こんな過去は僕には存在しない! 僕は幼い頃、殿下と会ったことなんてないんだ! これは違う! 違うんだ!」
その叫びはアルフレート殿下には届かなかったようだ。幼い彼は輝くような笑顔をこちらに向け、やがてその背丈が伸びて。今の殿下と同じ、綺麗な顔立ちになった彼が悲し気にこちらを見つめて言った。
『ごめん、エヴェリーナ。君との婚約は解消したいんだ』
『そんな、だって』
僕ではない、『わたし』が苦しそうにそう言ったのが聞こえてきた。
そして理解するのだ。
これは、そう、だ。
僕が悪役令嬢となるはずだった過去なのではないか、と。
僕が僕ではなく、わたしとして存在する世界。アルフレート殿下に恋をして、魔物となる道を選ぶ世界。
でも何で、こんなものが見えるんだ。
僕が知りえない世界の光景じゃないか。僕が知らない世界なのに、どうしてこんなにもはっきりと見えてしまうんだ。まるで、経験してきたかのように。その『わたし』の心の痛みすらはっきりと伝わってしまうくらいに。
『ごめん、エヴェリーナ』
わたしに声が届かないくらい離れた場所で、殿下が顔を歪めて俯いている。彼は少しだけ唇を噛んでいたけれど、やがて本当に小さく囁いた。
『本当は、こんなことしたくなかった。でも、仕方ない。仕方ないんだ。君の命を守るには、こうするしか』
――ここは。
この世界は何なんだ?
僕には考える時間があった。幼い頃からずっと、母からこの世界が『ヒロインのための世界』だと聞いてからずっと考えてきた。
この世界がヒロインのための世界だというのなら、僕がこうして違う道を選んできたのはおかしいのではないか、と。
本当にこの世界はヒロインのための世界なのか。
じゃあ僕は、僕たちは何なのだ。
ヒロイン以外の人間の命は、誰のためのものだ?
僕らの人生は僕らのためのものじゃないのか。
僕はずっと考えてきた。
僕らの命は『本物』なのか、と。
母が言うには、この世界はゲームの世界。神以外が造り出した虚構の世界。そこに生きる僕らは何者なんだ。
「……神様。もしも本当にいるのなら、僕らにどうしろと?」
僕が胸に手を置きながらそう呟いた瞬間、頭上で鈴の音が響いた。
「……本当に、困りましたね」
そう、誰かが囁いた気がした。
僕が思わず顔を上げても、そこには誰もいない。暗い空が広がっているだけだ。
でも確かに聞こえた。女性とも男性とも解らない、茫洋と響く声。ただ穏やかで、静かで、人間とは違う声。
それが続けてこう言った。
「また、失敗するとは」
そしてその声と同時に、真っ白な長い髪の毛の女性が姿を見せ、辺りに光が生まれたのだった。




