第16話 過去のお願い
「では、使用目的の記入をお願いします」
僕は学校に登校してすぐ、事務室に寄って魔道具の登録を行った。学校に持ち込む魔道具は全て、学校側に許可を得ないといけないからだ。
僕は満月堂で買った小さなショルダーバッグを受付のカウンターに置き、その艶やかな表面を撫でた。どこからどう見ても、普通の――小さすぎるくらいの革製のバッグだ。僕が手のひらを開いたくらいの大きさだから、せいぜい小物を入れるだけに見えるだろう。
だがもちろん、その中には大量の荷物を収納できる。
僕は事務員の女性から受け取った書類に、名前や使用目的を書き込んだ。
――図書室で借りた本の持ち運びのため。
それが一応、僕の目的ということになった。もちろんそれは表向きの目的であったけれど、まあ、持ち込んだからには本も入れてやろう。
そう思って、時間に余裕があれば放課後には図書室に足を運ぶことにした。それに少しだけ、図書室に行けば――ガブリエルに会う機会が増えるのでは、なんていう考えも少なからずあった。本当は、授業で会うくらいでちょうどいいのだろうけれど……どうも、自分の考えていることがよく解らない。
満月堂に行ってから、ガブリエルは義足の打ち合わせや何やらで多忙になった。授業が終わるとすぐに公爵家の屋敷に戻ってしまうことが増え、特別仕様の義足制作の進捗がどうなっているのかも解らない。だが、彼の表情から上手くことが進んでいるらしいと予測できた。
何もかも上手くいけば。
そうすれば。
僕も殿下との婚約を解消して、それから。
ぼんやりとそんなことを考えながら一日の授業をこなし、休憩時間に闇の欠片を捕獲して魔導バッグに放り込み、放課後には図書室に寄った。それはいつもと変わらない流れであったけれど、ただ一つ予測していなかったのは。
「話がしたい」
と、アルフレート殿下が僕の前に立ったことだった。彼はどこか緊張した面持ちで、珍しく他の誰も連れていなかった。
――綺麗な人だ。
改めて、目の前の彼を見つめる。僕たちはちょうど、図書室の奥の本棚の陰に立っている。だから、僕らがこうして向かい合っていることは誰にも気づかれていないのかもしれない。
「……あの、話とは」
僕は困惑しながらも、小さく訊いた。すると、殿下は色の薄い唇を少しだけ噛んで、何か考え込むそぶりを見せた。その後で、思い切ったように言う。
「君とガブリエル・ベンディックの距離はおかしくないだろうか」
「え」
僕は変な顔をしただろう。
「君は私の婚約者なのだから、わきまえる点があるだろう?」
「いえ、だから……婚約は解消した方がいいと」
――言ったはずなのに。
僕がつい、ため息交じりにそう言いかけると、殿下は僅かな怒りをその双眸に灯らせたように見えた。
「だが、解消はしていない。だから我々はまだ」
「確かに婚約者のままですが、この関係を続ける意味が見出せません」
「意味?」
「僕らの間には何の信頼性も、ないじゃないですか。ずっと僕らは会ったこともなく、会話もこの学校にきてから初めてしたわけです」
「エヴェリーナ」
何故か、殿下は一歩前に進み、僕に詰め寄るような形になった。両脇に本棚、狭い通路。後ずさって距離を取る前に、彼は僕の腕を掴んで引き留める。
殿下の手は冷たかった。
「信頼関係を築けなかったのは確かに失敗だったが、まだ取り戻せると思う」
彼はそう言うが、僕はそうは思えない。
悩んだのはほんの一瞬。
僕はつい、恨み言に似た言葉を吐き出した。
「では何故、これまで行動をしてくれなかったのですか」
「行動?」
「僕は母とずっとコンラスで暮らしていました。この婚約は失敗すると言われて連れて行かれたわけですが、母の命令に逆らえなかったんです」
「失敗?」
眦を吊り上げて声を上げた殿下を、僕は何とか視線だけで黙らせる。
「母は特別な力があるんです。ある特定の未来が見えるんだとか。それで、僕が殿下と婚約して、悲劇的な終わりを迎えると言われたんです。信じられないでしょう? 僕だって最初は信じられなかった」
僕が本当に幼い頃は、母の言葉が神様の言葉のように絶対的なものとして響いた。だから従ったものの、年を重ねると疑問を覚えることだってあった。
本当に母が言うような未来がやってくるのか。だから、殿下のことについても情報を得ようとした。
何年も前から、アルフレート殿下に対する世間の評価は高いものだったと言える。目の前の美しい王子様は、その見た目通り真面目で素晴らしい人格者だと周りから言われていた。
だから、少しだけ期待したのだ。
形だけだとはいえ、婚約者を裏切ってヒロインを選ぶなんて……信じたくなかった。清廉潔白な王子様。その評価を信じたかった。
「僕は随分前に手紙を書いた時、殿下に対してお願いをしました」
「……お願い?」
僕が静かに言うと、彼もまた真剣な眼差しで僕を見下ろして先を促す。
「一度、お会いしたいと。そのために時間を作って欲しいと。母には内緒で、そんな手紙を三回送りました」
「……ああ」
殿下がそこで、喉の奥をぐ、と鳴らした。
「殿下がどんな方なのか、知りたかった。僕だってずっと男装していることを唯々諾々と受け入れたわけじゃない。ドレスに憧れた時期だってあったんです。普通の女の子みたいに、着飾って化粧をして、殿下の隣に立つことを夢見た時期が。だから、精一杯の僕の意思表示をしたんです」
胸の奥が僅かに痛かった。
でもそれは過去の痛みだ。治った傷を撫でているだけの感覚。
「いつだって殿下からの返事は短かったです。『残念だけど多忙で時間が取れない』とか、『いつかエヴェリーナ嬢が王都に来ることがあったら』と文末に付け加えてある手紙を見て、そうか、と思っただけでした」
「……それは」
殿下が苦し気に何か言いかけたけれど、それに続く言葉は聞こえなかった。
「会いたいから来いと命令してくれたら、僕だって動けました。王族からの命令なら、母に逆らって王都に向かうこともできたでしょう。でも、殿下からの手紙はそうじゃなかった。僕には考える時間はたくさんありました。諦める時間だって充分ありました。殿下は誰に対しても優しく、公平だと噂を聞いていましたから、これが返事だと……僕に対してはそれほど興味がないのだと、会いたくないのだと受け入れることしかできなかったんです」
「違う!」
そこで、ずっと僕の手首を掴んでいた彼の手にさらに力が込められた。
少しだけ乱暴に僕の腕を引き、そのまま本棚に身体を押し付けるようにした彼は、酷く傷ついたような表情で僕の顔を覗き込んでいた。
「違う。それは違うんだ、エヴェリーナ」
「殿下」
僕は背中に当たる本棚の感触に眉を顰め、痛みを訴えている手首を何とかしようと身体を動かそうとしたものの、殿下はそれを許してくれなかった。彼は必死の形相で何か言おうとしたが、そこで図書室の中でも僕らの声が響いていたのか、誰かがこちらの様子を見に来た気配がした。
「あらぁ、これはこれは」
てっきりラウラ先生がきたのかと思ったのに、意外なことに、そう苦々し気に声をかけてきたのはロベルト先生だった。彼は相変わらず女性らしい動きで口元を手で覆って驚きを表現したが、すぐに殿下に咎めるような視線を向けてこう続けた。
「いくら男の子の格好をしてるとはいえ、レディには優しくすべきですわね。ちょっとこれは見逃せないですわあ」
「……これは、すまない」
そこで、ハッとしたように殿下が僕の手首を解放し、僕はもう片方の手で痛む手首を撫でながら先生に向かって軽く頭を下げる。
「リンドルース嬢に化粧品のことで話があったのに、それどころじゃなさそうねえ。保健室に一緒にどうかしら」
ロベルト先生は僕の手の動きに気づき、目を細めて殿下を軽く睨む。
僕は慌てて首を横に振り、「保健室に行くほどでは」とその場から逃げることにした。結局本を借りることもなく足早に歩きだした僕の背後から、殿下の引き留める声が響いたけれど、振り向くなんてことはしない。
しかも、図書室から出て行こうと扉の前に立った瞬間、僕より早く誰かの手が扉を開けた。その開けた相手がヒロイン――薄紅色の髪の毛の美少女、エリカだった。
「わ」
彼女は僕を見て驚いて身体をのけぞらせたけれど、すぐにその表情を引き締めてこちらを見つめ直してくる。まるで、戦いを挑むかのように強い視線。
でも僕は彼女をちらりと一瞥してすぐに彼女の脇をすり抜けて廊下に出た。
「え?」
彼女は虚を突かれたかのように間の抜けた声を上げたものの、すぐに図書室の中にいた殿下の姿を見つけたのだろう、「アル様」と小声で囁いたのが聞こえた。
――アル様。
もう、愛称で呼び合う仲にでもなっているのか。
僕はそこで、ぎゅっと拳を握りしめて廊下を進む。もう何も聞きたくもないし、見たくもない。
結局、こうなるのか。
母の言う通りだった。
アルフレート殿下はヒロインを選ぶ。悪役令嬢である僕を見捨てて幸せになるのだ。そう決まっている。決めたのはどこか遠い場所から見ているのであろう、神様だ。神様がそう決めたから、あの二人は結ばれるのだろう。
でも、僕だって幸せになりたいと願ってもいいはずだ。
僕だって、僕だって。
今の僕は、悪役令嬢エヴェリーナ・リンドルースとは違う。エヴァンとして生活してきた、悪役令嬢にはならなかった僕なのだから。
未来は僕が決める。そう思いながら、適当に学校内を歩き回り、苛立った衝動のまま闇の欠片を捕獲してバッグの中に放り込んだ。




