第12話 王子様は葛藤する<アルフレート視点1>
「エヴェリーナ・リンドルース嬢?」
私がそう声をかけた時、僅かに彼女の表情が揺らいだのが解った。
病弱だと聞いていた私の婚約者。
しかしその当の本人は、男子の制服に身を包んで背筋を伸ばして立っていた。きつい印象を与える目元、整った横顔。その瞳がこちらに向けられた時、何とも複雑な気分になった。
――これは、違う。
そう思ったからだ。
私が守るべき姫君ではない、と。
私が幼かった頃――物心ついた時には、母はもうこの世にはいなかった。だから、乳母となったマリィ・ローシャル伯爵夫人が母替わりとなった。
マリィは三人の息子を育て上げた女性で、私が六歳になるまで一緒にいてくれた。彼女は寝物語としてたくさんの絵本を読んでくれたが、その中でも一番好きだったのは『光の王子の冒険』だった。ドラゴンに攫われた姫を救い出す、勇敢な王子の長い旅。
旅の途中でたくさんの人々と会い、友情を育みながら様々な困難を乗り越え、力を合わせて悪のドラゴンを倒す。そして、美しい姫を救い出して大団円を迎える。
絵本の内容は平凡だったかもしれない。だが絵が美しく、何度見ても、何度繰り返し読んでもらっても飽きなかった。
絵本の中の姫君は、とても可愛らしい女の子だった。だから私は主人公である王子に感情移入し、自分も強くなりたいと思ったものだ。か弱い女の子を守るのは自分の役目でありたいと考えたから。
「ご立派な考えです。きっと、殿下なら素晴らしい男性になれますよ」
マリィはそう言いながら、ベッドで横になって話を聞いている私の頭を撫でてくれた。それがとても心地よかったが、母が生きていたらマリィのように撫でてくれただろうか、と寂しさを覚えたこともあった。
私が六歳になってすぐ、マリィの代わりに教育係となる人間がやってきた。将来はこの国の上に立つべく、私にあらゆる知識を与えてくれる立場の人間たち。彼らは誰もが厳しく、マリィのように優しく――甘やかしてくれる人間はいなかった。
絵本などというものに触れることもなくなり、寝る時間以外はずっと勉強と身体を鍛えることだけに専念するだけになった。
そんな中、婚約者が決まった。
エヴェリーナ・リンドルース。
この国一番の魔力の持ち主だという話だった。
そう、魔力が強いという理由だけで決まった婚約者だった。
最初は期待した。
優しくて可愛らしい女の子。そんな子と仲良くなり、結ばれてこの国の上に立つ。それはきっと幸せなことだろうと思った。
だから手紙を書いた。
最初に書いた手紙は本当に長くなって、自分の好きな食べ物や好きな本、エヴェリーナの好きなものを教えて欲しいとか、実際に会ってみたいとか。
頑張って色々書いたが、結局、それを教育係が添削して短く書き直すことになった。
これは私の手紙じゃない。
私の言いたかったこと、訊きたかったことは何も書かれていない手紙を封筒に入れ、封蝋をした時、妙に苦々しさを覚えた。
そうして丁寧なだけの手紙を送った後、彼女から返事が届いた。
私が送ったものと同じように短く、義理堅さを感じる内容だった。
「父上もそうだったのですか?」
私が十歳になったばかりのことだっただろうか、国王である父に問いかけた。「婚約……からの結婚というのは、こうして顔を合わせることがなくても仕方ないのですか?」
すると、執務室で机に向かっていた父は苦笑しながら顔を上げてこちらを見た。
「そうだ。我々王族、いや、貴族という立場の人間は多かれ少なかれ、こういう結婚をすることになる。血筋と、そして魔力を保つだけの相手を選ばなくてはならないのだ」
綺麗に撫でつけられたように整えた銀髪、私と同じ色の瞳。最近、皺が目立ち始めた目元。
父は私に似た顔立ちをしていて、雄々しいというよりも優し気な雰囲気を持っている。それでも、その双眸に灯る光はいつだって冷徹であり、どこか孤独を感じさせるものだった。
母が亡くなってから、他の女性を近寄らせないという話を聞いていたから、だからきっと――政略結婚だとしても愛し合っていたのだろうと思っていた。そんな父に憧憬を抱いていたのも事実。
だが――。
「お前も大人になれば解ると思うが、ある程度、婚約者とは距離がある方が楽だ」
そう父が言い出した時、ただ首を傾げるだけだった。
戸惑う私を笑いながら見つめ、神経質そうに指先で机を叩いた父は、こう続けた。
「私を信じなさい。お前とリンドルース嬢は結婚しても上手くいくだろうから」
そう言われたとしても、納得がいくわけがない。幼かった私は不機嫌さを隠せず、座ったソファの上で足をぶらつかせていた。
やがて父が笑顔を消して、ため息をこぼす。
妙に重苦しい空気が流れたような気がしたが、私はどうしても我慢できず、我が儘を口にした。
「彼女に会ってみたいです。どんな子なのか知らないのに結婚とか厭です」
「駄目だ」
「え?」
瞬時に却下されたことに私は息を呑んで父を見つめ直す。
すると、父はハッとしたように慌てて手で目元を覆い、短く言った。
「もう少しお前が大きくなったら話そう」
結局、父はそれきりリンドルース嬢について何も話をしてくれなくなった。だから、自分で色々調べてみた。
どうやら、リンドルース嬢の母親は苛烈な性格をしているようで、性格の悪さ、気位の高さで悪名高き女性だということ。夫であるリンドルース公爵とは不仲で、娘であるエヴェリーナを連れて辺境にある領地に引きこもっているようだということも。
そんな女性に育てられた少女はどうなるのか。
もしかしたら、母親に似た性格になっているのかもしれない。
でも、病弱だというのなら。
エヴェリーナは母親とは違って、もっと……か弱い女の子であるのなら。
私が守ってあげたいと思えるような少女になっていて欲しいと切に願った。
それなのに。
実際に見た彼女は私の理想とは違いすぎた。
「僕の母が、姉上の居場所を奪ったことになるんです」
将来、私の側近となるべく育てられたはずのミハル・リンドルースは、酷く暗い瞳で床に視線を落としていた。「父は気にするなと言いますが、そんなことができるはずもなく……」
これが――彼が私の側近候補とは。
今は正式にリンドルース家の人間になったとはいえ、それまで婚外子であったミハルの立場は微妙だが、魔力の大きさでは他の貴族の連中とは桁違いだった。それでも、貴族の一員としての自覚に欠けている雰囲気がある。
リンドルース公爵の教育は上手くいかなかったのだろう。
「君の姉上はどんな人だ? 今の立場をどう思っている?」
私が小さく問いかけても、ミハルは困ったように薄く笑うだけだ。
知らない、ということだろう。
私は剣の訓練をしている二人を見つめながら、どことなく現実味のない光景だと考えている。二人とも、かなりの腕前なのは一目瞭然だ。彼らが使っているのが魔剣であるということも差し引いても、他の生徒たちでは敵わないだろうということが解る。
つまり、私が守るべき『姫君』は男の子のように育っていたということ。剣を握り、男勝りに振り回すその姿は凛々しいと言えるが――やはり、これは違うとしか言えない。
それでも。
私のもう一人の側近候補、ガブリエルに対するエヴェリーナの表情は――解せない。
何故、笑うのだろう。
まるで仲の良い友人同士のように。いや、友人以上に近い存在に思えるくらいに。
それ以前に、この状況はおかしいだろう。
ガブリエルもガブリエルだ。エヴェリーナは私の婚約者という立場なのだ。近づくことすら許されない相手なのだとどうして解らないのだ。やはり、彼もまたミハルと同じように、元は貴族として育ってきていないからか。
私は初めて、自分の胸の奥が気持ち悪くなるくらいの感情を抱いた。
これは何なのだろう。ただの不快感という言葉では説明できない。
黒い髪の少女。
たとえ男装しているとはいえ、彼女は間違いなく女性であり、そして私が守ってやらなくてはならない存在であるのだ。それなのにどうして。
「何故、他の男に対して笑う」
私はそう呟きながら、そっと踵を返して訓練場から外に出た。空は明るく晴れ渡っていて、庭にある木々も美しく生い茂っているが、それらの何もかもが気に入らない。
私の護衛たちが付き従ってついてくるのも忌々しく感じた。
そしてその日、私は学校の敷地内に与えられた自分の部屋に戻るのではなく、急遽、王城へと向かうことにした。
「父上」
いきなり執務室のドアを叩いた私に、父は驚いた様子もなく迎え入れてくれたが――私が整理のついていない頭で感情を言葉にして吐き出す前に、何か察したかのように微笑みを浮かべた。
「リンドルース嬢のことかな」
そう言った父は、私の後についてきた護衛たちを手ぶりで離れるように指示すると、二人だけで会話できるようにしてくれた。
「正直、納得いきません。あれは素行不良と言われても仕方ない」
私が父に勧められたソファに座ることもなく、爪が食い込むほど拳を握りしめて小さく呟くと、父は椅子から立ち上がって私の肩を叩いた。
「まあ、来なさい。お前もそろそろ大人扱いされてもいいだろう」
「はい?」
私が困惑しつつも苛立った返事をすると、父はドアを開けて廊下へと出ていった。どうやらついてこいということらしいと気づき、私が父の背中を追っていくと、歩きながら小さく言った。
「……結婚するなら愛のない相手の方が罪悪感が少ないのだよ」
「はい?」
「私は後悔したよ。知らないということは罪でもある。だから、私はお前にはいつか話そうと思っていた」
「何のことですか?」
苦渋の混じり始めた父の声に、わたしは少しだけ不安な気持ちを胸に抱え始めていた。何か父は重要なことを話そうとしている。
「王妃となる女性には、国の存続のために重要な役目がある。そして、それがゆえに長生きできない」
「え?」
「だから、お前はよく考えなさい。好きな女性と結婚するという意味をね」
父は長い廊下の途中で一度足をとめ、妙に白く見える顔をこちらに向けた。




