たった一年、されど一年
早朝、エヌ氏は牛タンを薄切りにしていた。ここ最近の不況を受けていつもより3ミリは、薄く切っていた。
彼は仕込みを終えると、店の奥にある事務所の硬い椅子に尻を落とした。テレビでは表情の硬い女のアナウンサーがニュースを読んでいる。いつも見ているからアナウンサーの顔ははっきり覚えていた。
「いつまでアナウンサーやるんだろう」
そうすると一本の電話が鳴った。
「もしもし、エイ精肉店ですが」
「お世話になっております。わたくし、ビイ不動産のものです。新店舗の件について進捗をお聞かせ願いたいのですが」
「二号店の件ですか、ちょっと考え中です」
「そうはおっしゃいますが、話が出てからしばらく経っておりますので」
「またかけ直しますから、もう少し待ってください」
「なるべく早くお願いしたいのですが」
「わかったから」
エヌ氏は受話器を音を立てて戻した。
かのビイ不動産の担当者は、どうも歯切れが悪く、言葉も句点で終わらせることがない。だからオレは早く話を切り上げるようにしているのだ、とエヌ氏は考えた。
「まあオレも、歯切れが悪いのは同じか」
自分に対して嘲笑を浮かべた。
そのとき、ドアがノックされた。エヌ氏はドアを開ける。そこにはスーツ姿の、肌がいやに白い男が立っていた。
「まだ開店時間にはなってないよ」
「こんにちは、わたくしお客ではありません。営業に参りました」
「はあ、なんの営業ですか」
「融資です」
「オレは金には困ってないよ」
「おや、わたくしに嘘は通用しませんよ。あなたはこのお店の二号店を開きたいがあと少しお金が足りない、そういうところでしょう」
「なにものだ」
エヌ氏が少し驚いてたじろいでいると、男は口角を不気味なほど上げてこう言った。「私は悪魔です」
「悪魔ときたか。少し話を聞いてやろう」
エヌ氏は悪魔を事務所に通すと、硬い椅子に座らせた。
「悪魔は金の代わりに命を吸い取るんだろ?」
「少しだけ違いますね。わたくしがいただくのはあなたの寿命です」
「寿命ね、何年でいくらなんだい」
エヌ氏は二号店を開くために、この悪魔の話が気になって仕方がない。
「一年で400万円です」
「400万ってオレの年収より少し高いくらいじゃないか。やめだやめだ」
「しかし、あなた見たところこれからおおよそ40年は生きますよ。70歳になれば定年になりますし、悪い話ではないと思います」
エヌ氏は自分がまだ40年の寿命を残していることを嬉しく思い、40年のうちの1年ならば、さして影響は出ないと思った。
「そうだな、80歳で死ぬのが79歳で死ぬことになるだけか。確かに悪くない」
エヌ氏は老後に期待など全くしていなかった。いまだに独り身で、老後の一年が減るくらい、構わないと思った。
「ならば、頼もう。400万円あれば、すぐに二号店を開ける」
「そうですか、わかりました。では目をつぶってください」
「こうか」
エヌ氏は目をつぶった。感覚は何も変わらない。
「おい、もう開けてもいいのか」
返事は、ない。
「開けるぞ」
エヌ氏はそっと目を開けてみるが、そこに悪魔の姿はなかった。
そして、400万円の姿もどこにもない。あるのは硬い椅子とテレビだけである。
「誰だこいつ、見たことないぞ」
テレビでニュースを読み上げていたアナウンサーが別の人に入れ替わっている。先ほどの表情の固いアナウンサーとはうってかわって柔和な笑顔の美人が話している。そして、エヌ氏はその女を初めて見た。
「そんなことより金はどこだ」
エヌ氏はまず通帳を見た。かの悪魔が数字をちょこちょこっと書き換えてくれたのではないかとふんだのだ。
しかし、通帳に金は入っていなかった。むしろ前より金が減っている気がする。
「どういうことだ」
最後の取引日が一年後の昨日になっている。エヌ氏は状況をつかめないまま引き出しを開いてみた。
そこには『エイ精肉二号店オープン!』とデカデカと書かれたチラシがあった。
「オレは二号店を開いた記憶はない。これから開く予定なのにもうチラシが作られている」
チラシを見ていると、ふと引き出しの下に新聞が入っているのに気がついた。
『エイ精肉二号店、女店員のイタズラで閉店か』
エヌ氏の心臓が強く動き出すのをはっきり感じた。
『エイ精肉二号店で勤めるシイさん(19歳)は、冷蔵庫の中に自身の体を入れて遊んでいる写真をインターネットに投稿。それにより衛生面の問題などから批判が集まり、閉店の危機に立たされているようです』
「おい! 悪魔! 出てこい!」
押入れのふすまがスーッと開き、悪魔が出てきた。
「なんですか」
「オレは約束の400万をもらっていないし、この新聞記事はどういうことだ! 二号店を開いた記憶なんかないぞ!」
「いえいえ、その400万円でたしかにあなたは二号店をオープンしましたよ。まあ、寿命を一年いただきましたのでその間の記憶はないと思いますが」
「なぜだ、寿命をもらうってジジイになってからの一年間を取られるだけじゃないのか」
「そんなことわたくしは一言も申しておりませんよ。いただくのは、契約直後の一年間ですから」
「そ、そんな」
エヌ氏は膝から崩れ落ちた。その姿を見て悪魔はまるで赤子のように無邪気に笑っていた。