アレクセイ・ロウ②
あの町で犯してしまった自分の不誠実な行いは、戦場から先に王都へと戻っていたロウ伯爵にすぐに報告した。
お嬢様を裏切り、蔑ろにした行為に怒りを示されるのも当然と思っていたが、
「リリアーヌが、手紙で君の事を、汚らわしい者と?」
意外にも、伯爵はそこに驚いていた。
「はい、ですが、それも仕方がない事で、お嬢様が嫌悪するのも当然かと」
伯爵に問われるままに答えてしまい、まさかお嬢様がお叱りを受けるような事はないだろうと安易に思っていたが、
「その手紙はまだ残してあるか?」
「はい。お嬢様からの手紙を粗末に扱う気はないので……」
「見せなさい」
伯爵に手紙を手渡すと、険しい表情でそれを見つめ、
「娘は、“汚らわしい者”などと、君のことをそんな風には絶対に言わない。絶対に、だ」
強い口調で断言した。
お嬢様への信頼がよくわかるものだ。
では、誰がこの手紙を書いて私に送ったのか。
お嬢様以外の何者かが、私を故意に貶めるために送ってきたと考えるのが自然だが……
戦時下の重要な書類は伯爵自ら管理されていた。
だが、私的な手紙などは管轄外だ。
家族への手紙などは、担当の者へと渡していた。
「それから、娘からは署名入りの結婚無効の申請書が届いているそうだな」
「はい。これです」
三行半を突きつけられて、ますます自分の罪を思い知った。
お嬢様のことを思えば、結婚自体を無かったことにした方がいいのかもしれないが……
「こんなものは、保留だ。書類は全て私が預かっておくから、君は早まったことをしてはならない。それから、手紙の件は調べておく」
「私はまだ、お嬢様と婚姻関係を続けてもいいのでしょうか……?」
「……………………そんな事は当人同士で話し合いなさい」
騎士となってから、ずっと信頼を寄せてくれていた伯爵から、初めて、出来の悪い息子を見るような視線を向けられていた。
「緊急事態に国の為とは言え、何の迷いも躊躇も無く愛娘を強引に政略結婚させた親の気持ちを考えなさい。私は、娘の幸せを願っているし、君が不幸になることを願ってはいない」
その必要があったとは言え、私を信頼してお嬢様との婚姻を結んでいただいたのは理解している。
せめてと、お嬢様に会って話がしたい旨の手紙を送るも、返事は当然ながらの拒絶で、これ以上はお嬢様の前に姿を見せるべきではないと思っていたのに、私の決意はすぐに、そして呆気なく崩れることになった。
お嬢様が関係する事で、自分が誓った事が何一つ守れないことに、自身を殴りつけたくなる。
お嬢様にお会いできたのは、仮面舞踏会の会場でだった。
エクトルがどこからか手に入れてきた招待状で、
「わからなければ御本人に聞けばいいんすよ。まぁ、楽しみましょう」
聞きたくても聞けない状況なのに、意味がわからないことを言われながら、引き摺られるように渋々参加する羽目になった。
仮面を付けた人々の中で、一体何を楽しめばいいのかと、それこそ仮面で不機嫌さを隠していたのだが、そこでまた、一際目立つ女神と奇跡的に邂逅する機会を得たのだった。
会場で、真っ先にその女性だけが私の視界に映し出され、誰かと思えばリリアーヌお嬢様だった。
仮面でいくら素顔を隠しても、お嬢様の輝きは損なわれない。
おたまにエプロン姿も良かったが、気品溢れる姿で立つお嬢様のドレス姿はどこの姫君にも負けていない。
私が見つめると同時にお嬢様もこちらに顔を向けられたものだから、お嬢様が私を見つめていると、浅ましくも勘違いしたくなる。
お嬢様の幸せを願わなければならないのに、自分がどれだけ賤しい血であるか自覚していながらも、あの方との縁に縋り付こうとしている。
見えないものに引き寄せられるように、お嬢様のもとに足が進んでいた。
このように尊い女性に、自分のようなものが触れてはならないのに、それ以上に他の男が近付くことが耐えられなくて、結局、欲に抗えずにお嬢様をダンスに誘っていた。
すっぽりと自分の腕の中に収まるお嬢様は、か細く、自分と同じ生き物だとは思えないほど繊細な存在だ。
もうこの時点で、自分がしなければならないことなど微塵も残らずに抜け落ちていた。
初めは俯いていたお嬢様だけど、懇願すると、私を見て、言葉を交わし、時には微笑を浮かべてくれる。
いくら足を踏まれたところで、小鳥のように軽いお嬢様からダメージを受けることなどない。
自分が誘ったとは言え、信じられないような時間を過ごしていた。
調子に乗った私は、ここでまた愚かな振る舞いをすることになる。
お嬢様と話し合うつもりで場所を移動したというのに、何故、お嬢様を前にすると、煩悩の塊と化すのか。
まず謝罪をしなければならなかったのに、結局、あの方の姿を見た途端に自分の願望だけが先行してしまった上に、お嬢様を伯爵家へとご同行願って話し合うことは叶わなかった。
全て、私の不誠実極まりない行いの結果だ。
言い訳もできない。
「落ち込んでいますね、団長。地面にめり込んでいきそうですよ。上手くいかなかったんですか?まぁ、その様子ではそうなんでしょうね」
翌朝、私の姿を見た部下から容赦のない言葉が浴びせられる。
「エクトル。私を殴れ」
「ふへっ?何を突然。団長に、そんな趣味がありましたか?お嬢様からの一撃でそっちに目覚めました?」
「いいから、殴れ」
「嫌ですよ。絶対に、俺の拳を痛めるじゃないですか」
「むぅ……お嬢様の手は無事だったのだろうか……」
今更ながら、心配になってきた。
昨夜のお嬢様の手は、とても綺麗で柔らかく、そして小さく、無骨な自分の手との違いに驚いたものだ。
「三十路で迎えた初恋は迷走していますね。有史以来、女性に対する男の謝罪は、一に土下座、二に土下座と決まっています。まずは顔を見た直後にちゃんと謝罪してみてはいかかですか?きっと、お嬢様は話を聞いてくれますよ」
「いや、謝罪は当然なのだが、お嬢様の姿を見ると我を忘れるんだ」
「ああ、重症なんですね。ダメなやつです」
部下にダメ出しをされている時点で、騎士として終わっている気がする。
いや、私はすでに人として終わっている。
「大丈夫、大丈夫。団長はまだギリギリの崖っぷちにいますよ」
崖っぷちのどこが大丈夫なんだ。
落ちてないからいいと言うのか。
もはや慰めにもなっていない言葉を聞きながら、ますます自己嫌悪に陥るしかなかった。