罠にかかる
最初は、男性の怒鳴り声に気付いた。
どれだけの時間が経過したのかはわからないけど、気を失っていたようだ。
何か嫌な夢を見ていたようで、ピリピリとした痺れが残っていなかったら、呻き声をあげていたかもしれない。
今は薬のせいで体が動かないから、耳だけが声を拾っている。
どうせ身動きが取れないはずだと思われたのか、拘束はされずに床に横たわっていた。
私の視界には薄汚れて黄ばんだ壁しか映らないけど、背後に誰かがいるのは確実だ。
「アデル!貴様のせいだぞ!俺は堕ろせと言ったはずだ!それを、よりにもよって、アレクセイなどと名付けおって!」
また、男性の声がした。
途中で聞いた声と似ていたから、この人がハーデン卿なのかもしれない。
「ふふっ。もう聞き飽きたけど、現実を認めない貴方には、何度も同じ事を言ってあげなければならないようね。そんな事、私の勝手でしょ?侯爵様、大切な貴方との子供の命を、母親の私が摘み取る事なんかできるわけないじゃない」
それからもう一人。
アデルと呼ばれた女性?
その声は、言葉とは裏腹に思いやりのかけらもなく、嘲笑を含み、冷酷さを示すものだった。
「私に似ても面白かったけど、結果的に貴方に似て、愛すべき自慢の息子よ。幼い頃からの知り合いだった貴方の子供を授かって、私は幸せよ」
言っていることと、声の質が全く一致してない。
全く幸せそうじゃない。
それに、お腹の中にいたアレクセイ様を殺そうとしたの!?
少なくとも、父親には生まれてくる事を望まれていなかった。
「ぬかせ!くそくそ、何もかもが上手くいかない。おかげでワシは、殿下から役立たず扱いだ!」
「本当なのだから、仕方ないじゃない。補給の妨害にも失敗するし、あの手この手で戦場で始末しようとしても結局生き残っているし。今度は、こんな子まで誘拐してくるし。次はアレクセイを殺す為に何をするのかしら?それとも、異教の公国との新たな戦争の火種を撒き散らすのかしら?」
また、女性の笑い声が響いた。
戦場で始末って、じゃ、じゃあ、味方側から矢を射ったのは、
「この、毒婦が…………」
男性の呻くような呟き。
「何度も言うけど、私を始末すれば、すぐに貴方の奥様のもとに証拠の手紙が届くわよ。奥様が妊娠中に、私に愛を囁いてあの子を孕ませた証拠が。そんなことになれば、即刻侯爵家を追い出されるのは貴方よね?立場の弱い婿養子さん。ただでさえ、アレクセイとアレクシスはそっくりだって妙な噂が立っているのに、これ以上のスキャンダルは嫌ですものねー」
「貴様が言うな!!」
女性の声に被せるように、怒鳴り声が響く。
この部屋にいるのはこの二人だけのようで、部屋自体もそこまで広くはないと思われる。
一般的な民家のリビングよりは、少し広いくらいだと感じる。
ここは、どこなのか……
「あら。気付いたのね」
ひゅっと、口から変な空気がもれた。
体が自由なら、飛び上がって動揺していたかもしれない。
それほどの恐怖を、この女性から感じていた。
「はじめまして、お嬢さん。私の息子がお世話になってます」
コツコツと近付いてきたかと思うと、私を覗き込むように見下ろしている。
私の頭上で赤い髪が流れ落ち、何も知らなければ、柔らかく、そして誰をも魅了する美しい表情にすっかり騙されていたかもしれない。
アレクセイ様の母親だというのなら、相応の加齢による変化があるはずなのに、容姿からは全く感じられない。
でも、なんとなくでも事情を知ってしまった今では、その笑顔が薄ら寒いものに思える。
レジーナ様やニコラス殿下と同じ菫色の瞳がやけに目に付くけど、それも今は恐怖の対象でしかない。
「娼婦の母親から生まれた賤しい出自の男との政略結婚なのに、健気に息子の帰りを待ってくれる貴女を知って、泣けたわー。でも、悲しい事に、貴女のお手紙は、宛先不明で返信されましたー。なんてね」
目の前に、見覚えのある封筒がヒラヒラと落とされた。
戦時中に、私がアレクセイ様に送ったものだ。
この人が、私達が連絡を取り合うことを妨害した張本人なんだ。
「さぁて、あの子が最も苦しむ為に、この子はどうしてやろうかしらね。シンプルに、飢えた男達の中に放り込むことかしら?それとも、熱湯で顔を醜く変貌させることかしら?」
艶のある赤い唇が、ニッコリと微笑みを浮かべながら動く。
どうして……
どうして、アレクセイ様が苦しむかもしれないと、想像しながらも笑う事ができるの?
「親子なのにって?」
私の考えを読んだかのように、彼女が言葉を紡ぐ。
「ふふっ。お嬢さんは可愛らしいわね。誰かの不幸を願う事なんかないのでしょうね。とっても楽しくて、素晴らしい蜜の味なのに」
口元を押さえて、女性が笑う。
どこか優雅な雰囲気さえ感じられるのに、言っていることは人間味のカケラもない。
「待て、この女。よく見れば、四年前に、公爵家の娘の誘拐を邪魔してくれた女じゃないか!」
その姿は見えないけど、ハーデン卿の苛立たしげな声が割り込む。
「何?あの、王太子の婚約を邪魔するついでで公国の邪教徒のせいにして開戦させようとしたっていう例のアレ?へぇー。こんな小娘に邪魔されていたの。やっぱり、貴方ってバカな男ね。使えないわ」
一度にたくさんの事実を知らされて、頭はまだ十分に整理しきれていなかったけど、今分かる事は、怒りを買ってこれ以上ないってくらいマズイ状況だと言うことだ。
「ザハール。貴方の手癖の悪い部下を連れてきてちょうだい。できるだけ多く。時間をかけてもいいから、屋敷の外にいる者を集めるのよ。いいわね?」
「なんなら、アデル。ワシが今すぐにでもその娘を剥いて、男に逆らえばどうなるか教えてやろうか?」
ぐへへと品無く笑う声が聞こえて、ゾッとした。
「いい子だから、今は私の言う事を聞きなさい。ザハール」
「はっ!まぁ、この後で存分に楽しませてもらうとするか」
バタンと扉の閉まる音が聞こえ、部屋には私とアデルの二人だけになると、
「さて、貴女の運命は、どちらに転がるのかしらね」
シンっとした室内に、妙に達観したような声が響く。
私の運命は……
大勢の者達が近付いてきている事が、足音と廊下を伝ってくる振動によって知らされる。
「あなたも……あなたの父親も……あの子を切り捨てたりはしないのでしょうね…………」
場違いなほどに穏やかな声が聞こえていたけど、真意を問う余裕などありはしなかった。




