存在を忘れられていた
スープが煮つまり過ぎないようにかき回す。
簡易のカマドに設置された大きな鍋には、沢山の戦場帰りの騎士をもてなすだけの量がある。
その見張り番が私の役目だ。
間も無く凱旋途中の騎士団がここに到着する。
それを率いる騎士団長は、まだ私とまともに顔を合わせたことがない旦那様だ。
きっとあちらは私のことがわからないから、どんな顔で会えばいいのか緊張する。
三年に及ぶ、想像を絶する過酷な戦場で戦い抜いた旦那様の帰りが待ちきれなくて、帰還途中にあるこの町で、騎士をもてなすための臨時募集に応じた。
本来なら伯爵家の三女の私が、こんな場で働くなど外聞が悪いと叱られるものだけど。
それでも、一刻も早く旦那様の無事な姿を確認したかった。
騎士団の先頭部隊が到着すると、みるみるうちに町が人の波に呑まれていった。
次々に空腹を満たす為にトレーを持って押し寄せる騎士達に、スープを注いでいく。
手元に集中しながらも、チラチラと辺りに視線を向けていた。
どこかにその姿はないかと。
スープの量を増やして欲しいとせっつく騎士に応じながら、一際目立つ一団が視界に入った。
ドクンと、自然と胸が大きく鳴った。
いた。
旦那様だ。
騎士団長、アレクセイ・ロウ。
私こと、ロウ伯爵家の三女、リリアーヌ・リル・ロウの名目上の旦那様。
彼と私は直接会った事はない。
結婚する前に、私がいつも離れたところからこっそりと眺めているだけだったから。
だから、後ろ姿だけでもわかる。
鍛えられた騎士達の中にいても、さらに頭一つ分は抜きんでた大きなお方だ。
手はスープを注ぎながらも、その洗練された立ち姿に見惚れていた。
キッチリと制服を着込み、30代の男盛りの魅力をまといつつも、激戦を潜り抜けたピリッとした空気は周囲を圧倒していた。
広い背中を見つめ続けていると、突然旦那様がクルリとこっちを向き、そして、バチっと音がしそうなほど私と視線が合ってしまっていた。
厳格そうな濃いブラウンの瞳が私を見つめている。
より一層、胸の音がうるさくなる。
ブラウンの髪を綺麗に後ろに流し、戦場帰りの荒んだものなど感じさせない姿にまた見惚れて、そして、旦那様の足が私の方に向けて動き出したところで我に返った。
おたまを握りしめたまま、どうすればいいのか焦る。
どんどん旦那様が近づいて来る。
私に気付いたのか、いや、でも、旦那様は私の顔を知らない。
とうとう目の前に立った旦那様は、私から一切、視線を外していない。
何が起きるのかと、列に並んでいた騎士達がざわざわとしだした。
「貴女は……」
よく通る低い声に、
「は、はいっ」
上擦った返事をしてしまった。
「貴女の名前を教えてほしい。私は、アレクセイ。騎士だ」
「ど、ど、ど、どうしてですか」
あれ?やっぱり私だとバレてない?
「貴女に一目惚れしました。どうか私と結婚してほしい」
「はいぃっ?」
間の抜けた声をあげて、それから、反射的に言葉を返していた。
まさか、旦那様が突然求婚してくるとは思わなくて、それも、私とは知らずにだ。
混乱していた。
私達が紙面上の結婚をしたのは3年前のことだ。
旦那様が教会で先に結婚証明書にサインすると、私の到着を待つ事なく、私の顔を見ることもなく、その足で戦場へ赴いた。
そうまでして急ぐ必要があった理由は、すぐそばに危機が迫っていたし、それに対処すべく、もうすでにいろんなことが同時進行的に動いている状況だった。
旦那様との結婚もそのうちの一つだ。
大病を患った当時の団長の代わりに、平民出身の旦那様を団長に推すためで、伯爵家が後ろ盾となるためだった。
戦場に向かう途中で騎士団長の任命式が行われたほど、切羽詰まった状況だった。
突然で、それこそ私の意思など何一つ関係ない政略結婚だけど、何よりも国を思うお父様の決めたことだから、従うつもりしかなかった。
旦那様もお父様も国を守るため。
そのことはよく理解していた。
私は紙切れ一枚の結婚が済むと、ただただ旦那様の帰りを待つ身となった。
戦場で必死に戦っている方を思うと遊ぶ気にもなれず、仕事を見つけて、それで不安な気持ちを紛らわせていた。
その仕事の延長で、今日、この場に来ることができていたのだけど……
「ご、ご冗談を。こんな田舎者相手に、お戯れはおやめ下さい。帰りを待つ方がいらっしゃるのでは?騎士様」
「私を待つ者などいない。すまない、真剣なあまり突然こんなことを」
何の素振りも見せずに答えた旦那様の声を聞き、そこで、スーッと何かが急激に冷え込んでいった。
この方は、氷の騎士と呼ばれたほど、仕事一筋の方だ。
以前は、言い寄る女性などに見向きもしない方のはずだった。
「もう一度尋ねます。騎士様の戯言に付き合うつもりはありません。貴方の帰りを待っている方がいらっしゃるのではないのですか?ご冗談でも口にして良いことと悪いことがありますよ」
「いない。私には、そのような女性はいない」
さらに、何かが軋む音をあげた。
ほんの少しだけ、期待するものがあったのだと、自分自身ですら気付かなかった感情だ。
これは旦那様の、ほんの気まぐれ。
殺伐とした戦場帰りに、どこかで癒しを求めるのは仕方のない事だ。
でも、ほんの少しでいいから、私の存在を思い出してほしかった。
旦那様の目を間近に見て、知ってしまった。
私のことなど、これっぽっちも気にしていないのだと。
いない存在なのだと。
名前だけの妻など、忘れて当然なのだと。
もう、盾となり、踏み台となる私の役目は終わったのだと。
離婚と言う二文字が頭をよぎった瞬間だった。
「貴女の名前を教えてほしい」
私の手を取り、許しを得るように跪く旦那様。
部下の前で堂々とこんな事をする方ではなかった。
冷静ではない証拠だ。
戸惑いと混乱は怒りを呼び、思わず私の手を握りしめている旦那様の顔をぶん殴っていた。
この日私は、歴戦の猛者であり、英雄である騎士団長を、拳一つで地面に沈めた飯炊係として伝説を作り、そして、その場で解雇となってすぐに家に帰ることになったのだった。