長野氏業、臭水を掘る
今川氏真と仲良くなろう
駿府ですべきことを終えた俺は、上総掘りの道具や樽を持って孫蔵・弥左衛門・平八郎の三人と相良へ向かったのだが、なぜか今川氏真とその護衛も俺たちについてくることになった。
氏真は、義元に『勉強してこい』と言われて駿府を放り出されたらしいが、これは俺たちを見張っているということかな。まあ、桶狭間の戦い後、氏真には色々と役に立ってもらう予定だから、仲良くなっておくに越したことはないよね。ということで、氏真と話をしてみたのだが、氏真は決して馬鹿ではない。むしろ、文武両道で、かなり優秀な人物というべきではないかな。ただ、戦国大名には向いていないというだけのことだね。
せっかくなので、氏真と古事記や万葉集の話をしてみることにした。
氏真が、『氏業殿は、何故古事記や万葉集を現代語訳されたのか』と質問してきたので、俺は『現世の人々の考え方が、いかに外来の思想に影響されているかを示すために、これらの本を現代語訳した』と回答した。本当は、解読不能の古事記・万葉集を世に出せば大騒ぎになるかなー、と思っただけなんだけどね。
さて、ここからが本番だ。未来の知識で氏真を圧倒すれば、多少なりとも俺に興味を持ってくれるかな。
「氏真様は、何故百年以上戦乱の世が続いているとお考えになりますか」
「それは、足利将軍家に徳がないからではないのか。天皇家も北条家も徳を失って政権を明け渡したが、足利家もいずれ有徳の者に取って代わられるのではないかな」
まあ、予想通りの回答である。ここで、俺は攻勢に出る。
「その徳の有無という考え方は、儒教によるものです。我々は、知らず知らずのうちに漢土外国の考え方で物事を見る癖がついてしまっているのです」
「では、氏業殿は戦乱の世が続く理由をどう考えておるのか」
「それは、土地政策の失敗によるものです」
と、俺は断言する。
「何だと。それは一体どういうことだ」
氏真は、驚きに満ちた表情で俺を見て、さらなる説明を求める。
「日本には一所懸命という言葉がある通り、日本人は土地に対して強い執着心を持っています。本来、日本は公地公民制なのですが、墾田永年私財法により土地を所有する道が開け、地方の有力者(土地を永年私財するには、独自に灌漑施設を作らねばならないため、ただの農民では土地を所有できない)たちは競って田畑を開墾することになりました。ただ、桓武天皇が軍隊を廃止したため、農場主は土地を守るために武装するようになりました。これが、武士の起こりです。当時の土地所有は極めて不安定であり、農場主は常に親戚や国司たちに土地を奪われる危険性がありました。そこで、中央の貴族に土地を寄進し、名義は貴族の物だが管理人は自分という形で土地を守ることになりましたが、これは武士にとって非常に不満が残るものでした。なにしろ、土地の所有権は貴族にあるわけですから。であれば、武士を国の制度に組み込んで、土地の所有を認める代わりに国防や治安維持をさせればよかったのですが、院(上皇)や平安貴族たちは武士を正式なものとして認めませんでした。その結果が、鎌倉幕府の成立です(と逆説の日本史に書かれています)」
「ほう、日本の統治権が天皇家から武家に移行したのは、それが理由というわけか」
「はい、大雑把にまとめるとこうなります。それで鎌倉時代ですが、所領の分割相続が一般的であったため、代を重ねるごとに御家人は貧しくなり、それに有効な手を打てなかった幕府の力は低下し、結果として鎌倉幕府は滅びることになったのです。そして、現在(室町時代)は惣領が全てを相続し、他の兄弟は何ももらえないという制度を採っています。こうであれば、確かに武士の貧困化は回避できますが、相続争いが各地で頻発することになります」
「まあ、惣領であるのとないのではえらい違いだからな。現行の制度がこうであれば、戦国時代になるのもやむなしといった所か。では、どうすれば争いをなくすことができるのか」
「あくまでも、武家の生活基盤(経済的基盤)を土地に求めるのであれば、一番わかりやすい長子相続制が良いと思います。もちろん、長子相続制を徹底させるには、強力な中央政権が必要でしょうね」
「ふむ、実に興味深い。私は、徳のある者が天子(皇帝)になるという天命思想に、ずっと不満を持っていたのだよ。実際、明国の王朝交代について調べればわかるが、どう考えても徳があるとは思えない人物が皇帝になっている例が見受けられる。つまり、皇帝になった後に俺には徳があったと言っているだけで、徳があるから皇帝になったわけではないということだな。長年の疑問が晴れて、爽快な気分だ。しばらく相良に留まるので、また面白い話があったら聞かせてくれ」
と、氏真はすっきりした顔で俺に言った。俺としても、氏真と仲良くなるのはやぶさかではないので、
「こちらこそよろしくお願いします」
と、氏真に答えたのであった。
弘治二年(1556年)7月 遠江国榛原郡相良近辺
夏だ。遠江だ。
東海道を西に進んだ俺たちは、ようやく遠江に足を踏み入れた。
遠江といえば、高崎市や箕郷町を語るにあたって避けて通れない人がいるね。
そう、最後の箕輪城主、井伊直政である。ちなみに、井伊直政は『高崎』の名付け親としても有名だね。
できれば、高崎市のご当地キャラとして井伊直政を大々的に売り出したい気もするのだが、いまいち乗り気になれないのは、その評判の悪さからであろうか。
些細なことで家臣を手討ちにして、ついたあだ名が『人斬り兵部』だし、家臣達は直政の下で働くことを嫌がって、出奔する者も多かったようだしね。
直政が自分に厳しいのは良いんだよ。だけど、家臣に厳しすぎる奉公を強要し、わずかな失敗で手討ちというのは、ブラック企業よりひどいよね。まさに、孟子の言う『家臣をいじめる主君は仇か敵か(離婁章句下 三有礼)』を地で行く感じだ。
だいたい、信頼関係なしで家臣を死地に追いやるから、逃げられるんだよ。実際、家康の口添え無しでは、井伊家の家臣団を維持できなかったみたいだしね。
あと、明らかに家臣の取りまとめに失敗しているにもかかわらず、直政が自身を罰していないのもおかしいと思う。もし、『物事がうまくいかないのは全部家臣のせいで、自分は悪くない』と直政が考えていたとしたら、すごく嫌だね。
でも、戦闘狂の鬼島津とは、ブラック企業同士で気が合ったのだろうね。
今の時代であれば、井伊谷に井伊直虎がいるかもしれんが、会いに行くのは止めた方が良いかな。いや本当に。
最後に臭水について一言。臭水の臭気は、春から夏にかけてが最もひどく、周囲の草木が枯れるらしい。季節的には、今が臭水採掘に最適ということだね。
長野氏業、臭水を掘る
相良に着いた俺たちは、早速菅ヶ谷(静岡県牧之原市菅ヶ谷)に向かった。
数百年後に造られる相良油田の里公園や油井跡はこのあたりかなと見当をつけ、臭気の甚だしき場所を選んで試掘してみると、確かに油らしきものが湧き出てきた。火を近づけると、それは勢い良く燃えた。ついに、念願の臭水(石油)ゲット。
俺たちについてきた氏真は、『こんな容易に臭水が見つかるとは、予想だにしなかった』と驚いている。
さてと、臭水が採れることは分かったので、後は近隣住民にたくさん油井を掘ってもらって、産油量を増やして欲しいのだが、どうしたものかな。
とりあえず、氏真に相談してみると、近隣の有力者に声をかけて村人を集めてくれるとのこと。なんか、氏真がすごく役に立つね。誰だよ、文弱な暗君などと言った奴。
そんな感じで集まった村人に対し、早速臭水掘削への協力をお願いすることにした。
臭水は、米と同じ値段で北条家が買い取り、掘削方法についても全て情報公開すると伝えると、農閑期の小遣い稼ぎにちょうど良いということで、村人数十名の協力を得ることができた。
孫蔵・弥左衛門・平八郎の三人は上総掘りの装置を組み立て、臭水の掘削を開始する。
俺は、油井の位置を記した菅ヶ谷周辺の地図を用意し、皆に配布した。
後は、手掘り井戸や井戸小屋についても教えておくかな。相良油田は、最初から最後までほとんどが手掘り井戸だったようだからね。そこで、鏡を利用して井戸の底を照らす仕組みや、足踏み式のふいごで井戸の底に空気を送る仕組みについても説明しておいた。
まあ、上総掘りでも手掘り井戸でも、村人のやりやすい方法で臭水掘削すれば良いのではないかな。
氏真は、試掘で採れた臭水を持ち、駿府へと戻った。義元に、今回のことを報告するんだってさ。
一方、俺は村人たちに臭水掘削の技術を教えるため、しばらく菅ヶ谷の名主の家に滞在することになった。そんなある日のこと、一風変わった客人が俺の下を訪ねてきた。
信長?登場
俺を訪ねてきたのは、遠江国頭蛇寺城主松下之綱一行であった。
松下之綱といえば、まだ無名の豊臣秀吉が一時期家臣として仕えていたことで有名だね。
「長野新五郎殿、初めてお目にかかります。松下加兵衛之綱と申します。こちらで臭水掘削をしていると伺いまして、後学のため、ぜひ見学させていただきたく参上仕りました。これは、私の故郷三河で栽培されている木綿製品です。ぜひ、お納め下さい」
「北条左京大夫氏康が家臣長野新五郎氏業と申します。この度はご丁重なお品を頂きまして、誠にありがとうございます。早速、石油ランプに使わせていただきたいと思います?」
俺は、異様な圧迫感を感じ取り、その発生源を探す。之綱の護衛として部屋に入ってきた二十代前半の若者と目が合う。発生源はこいつか。その背後から赤い炎が燃え上がっているが、隠す気はさらさら無いらしい。
「なにか、気になることがございますか?」
と、之綱は俺に問う。俺は、
「なぜ、大名のあなたがこんな所にいるのですか」
と、その青年に話しかける。
とたんに、周囲の護衛がその青年の盾となるよう警戒態勢を取る。
孫蔵・弥左衛門・平八郎も、俺を守るために立ち上がる。
この対応で予感が確信に変わった。こいつは、織田信長だ。
こうしてにらみ合いを続けること数秒。突然、信長は笑い出した。
「別に、騒ぎを起こすためにここへ来たのではない。わしは、単に臭水を見たかっただけで、他意はない。ちなみに、わしのことは三郎と呼ぶがよい。わしが身分を明らかにすると、おぬしや松下殿にとって都合が悪いのではないかな」
まあ、確かに今川義元の知らぬところで俺が信長に会うのは問題だろうし、今川家の陪臣である松下殿が織田家と通じていることが知れたら、もっと大変なことになるからね。
ということで、信長を油井へ案内し、実際に石油掘削している様子を見せてやった。
信長は、商業を発展させることで、国を豊かにして強い兵を養いたいと考えており、そのためにも、金になりそうなものがあれば、自ら足を運んで見て回っているそうだ。
早速、上総掘りに興味を持ったようで、信長は孫蔵らに色々と質問をしていた。
また、之綱の贈り物に木綿紐があったので、湯吞茶碗に臭水を注ぎ、中心に木綿紐を通した蓋をかぶせて簡単な石油ランプを作って見せると、信長はその明るさにたいそう驚いた様子であった。やはり、新しいもの好きなのかな。
『この石油ランプ、何としても欲しい』と信長が言うので、木綿紐や綿花の種を提供してもらう代わりに試作品は渡すことにした。
ランプを片手に無邪気に喜ぶ信長であったが、同時に『こいつは金になりそうだ』ともつぶやいていた。おそらく、損得勘定をしているのであろう。せっかくなので、石油ランプについては武州横浜村で商品化するので、興味があれば買いに来るよう信長にPRしておいた。
そんな感じで、信長の臭水見学は終了した。
さて、ここで忘れてはならない人物が一人いるんだけど、どこかなと周囲を探す。すると、屋敷の外で信長を待つネズミ顔の男を発見した。そう、後の豊臣秀吉である。
とりあえず、俺が好意を持っていることを伝えたいんだけど、どうすれば良いかな。何かプレゼントすることも考えたのだが、さすがに多くの護衛がいる中で秀吉一人を依怙贔屓するわけにはいかんか。秀吉も、
「このようなものは受け取れません」
と拒否するだろうしね。
ということで、占いにかこつけて秀吉をほめまくることにした。
「貴殿は、実に良い人相をしておられる。いずれ大出世なさることでしょう。お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
「へい、藤吉郎にございます」
と、秀吉は答える。今は、藤吉郎と名乗っているようだね。
「手相も見せていただけないでしょうか」
と俺が言うと、秀吉は一瞬躊躇するが、すぐに手を広げて見せてくれた。
ふむ、指が6本あるね。躊躇した理由はこれかなと思うが、俺が見たいのは秀吉の手相である。手のひらには、それは見事なマスカケ線(感情線と知能線が一緒になって、手のひらの端から端までつながっている)があった。
「この、手のひらをまっすぐ横切る一本線をマスカケ線というのですが、これは天下取りの相と言われています。貴殿は、武士として、必ずや功成り名を遂げることでしょう」
などと秀吉に説明していると、
「なんだ、氏業殿はサルを口説いておるのか。そのマスカケ線?であれば、わしも持っているぞ」
そう言って、信長が俺に向かって手を広げた。あれ、本当だ。信長にもマスカケ線がある。
そうであれば、家康の手相も見ておくべきであったな。
何はともあれ、これで戦国の三英傑全てに会うことができた。
数年後に信長と家康は蹴散らす予定だけど、秀吉には好意を示しておいて、いずれ時が来たら俺の家臣になってもらえないかな、なんて思ったりもした。
◇織田信長の見解◇
「長野氏業か。在原業平の子孫と言うが、見た目は普通であったな」
相良を訪問したその日の夜、石油ランプの明かりの下で、信長が秀吉に話しかけた。
「サル、おぬしは長野氏業をどう見る」
「何と言えばよいのか、不思議というか変なお方ですな」
「ほう、どう変だというのか」
「例えばその石油ランプですが、現在ある明かりの水準をはるかに超えております。通常、明かりといえば灯明を思い浮かべると思いますが、灯明とは比べ物にならない明るさで、燃料の価格が4分の1の石油ランプが世に出れば、灯明などこの世から駆逐されることでしょう。つまり、氏業は新たな標準を作る者ということです。これは、常人にできることではありません。まさに天才の所業です。そして、氏業のことを多少でも調べればわかりますが、石鹸・ガラス・生糸生産など、全てが規格外なのです。それが、氏業を変と判断する所以にございます」
「であるか・・・」
ふむ、つまりサルは、途中経過なしでいきなり完成品を出してくる氏業を変と評しているわけだな。であれば・・・。
信長は暫し沈思黙考した後、再び秀吉に話しかけた。
「氏業は、今川家の同盟国である北条家の家臣で、わしらからすると敵だ。新商品開発をしているうちは良いが、いくさにおいても奴が全く新しい戦法を世に出すとしたら、あまりに危険だと思わんか」
「ははっ、左様にございます。商人や忍びを用いて、今まで以上に氏業を監視したいと思います」
「サル、頼んだぞ」
「はっ、承知致しました」