第二次横浜城の戦い
永禄二年(1559年)9月19日 武蔵国横浜城
第一次横浜城の戦いから三日が経過した。
俺は、籠城に必要な兵を集めたり、南蛮船の整備などをしていたのだが、ついに北条氏政・北条幻庵・大石氏照率いる北条軍が現れたとの報告を受けた。ちなみに、今回の北条軍の規模は三万を超え、さらに南蛮船二十隻が三浦水道を北上しているそうだ。我が軍の兵数は三千程度で、南蛮船は六隻だけだが、火力においては北条軍をはるかに超えている。ここは、火力の優勢を生かして、長期間北条軍を横浜城へ釘付けとし、その間に打倒氏政の機運を盛り上げるに如くはなし。北条水軍を打ち破って江戸湾・三浦水道の制海権を得れば、補給にも問題は無いしな。
ということで、横浜城の防衛は弥左衛門と平八郎に任せると、俺は正木時忠とともに南蛮船に飛び乗り、北条水軍が現れるのを待つのであった。
俺たちの南蛮船は、横浜沖に展開して北条水軍を待つ。
しばらくすると、北条水軍が南方に現れたが、俺たちを見るや否や、船速を落とすのであった。なぜ、船速を落としたかといえば、俺が三浦三崎の戦いで気象操作したことを覚えているからであろう。つまり、俺の艦隊にむやみに近づくのは危険、と判断したわけだ。そんな北条水軍に対し、俺は船の横腹をさらすことで、敵の攻撃を誘うことにしたのであった。
北条水軍の連中は、『敵に船の横腹をさらすなどあり得ない。あれは、我が軍の攻撃を誘う罠ではないか』なんてことを考えていたのだろうが、北条水軍にとっては今が攻撃のチャンスであるのも事実である。それに、敵の倍以上の兵船を持ちながら攻撃できませんでした、なんて言えるわけないしね。結局、水軍を二つに分けて、一方はこの場で待機とし、もう一方を俺たちの艦隊に突撃させるのであった。
迫りくる北条水軍の南蛮船十隻。こいつらが大砲の射程距離に入ったのを確認すると、俺は砲門を開いて砲身を外に出し、砲撃を開始するのであった。
「放てーーーっ」
ズドーン!!
・・ドカーン!!
我が艦隊から放たれる砲弾は、俺の念力によって次々と敵の船に命中した。氏康から力を貰ったせいか、別の艦の弾丸も念力で操作できるようになっているなあ。
そんな感じで敵に砲撃を浴びせていると、不意に怨霊神業盛が俺の傍に現れた。
『ほう、敵の射程外から一方的に攻撃を浴びせる戦法か。本当に、大砲の威力は凄まじいのう。見てみよ、敵はこの砲撃で慌てふためいておるぞ』
嬉々として敵艦隊を眺める怨霊神に対し、俺は『先の海戦で里見義弘を捕らえた時の様に、今回も強い南風と北向きの海流を発生させて、敵の逃亡を妨げることは可能でしょうか』と尋ねてみた。やはり、この機会に敵兵船を全て沈めて、江戸湾・三浦水道の制海権を確保したいからね。
すると、怨霊神は『我に任せよ。敵兵船に集中砲火を浴びせ、阿鼻叫喚の地獄を現出させるのじゃ』などと言いながら、嬉々として気象操作を開始するのであった。
急に強まる南風と北向きの海流。
戦場から離脱を図っていた敵兵船は、風向きと海流の急変で大混乱している。遠目でも、水兵たちが慌てふためいている様子が分かるね。
俺たちは、大砲を掃除して砲弾を充填し終えると、敵が海流に流されてくるのを待って砲撃を開始するのであった。中には、こちらに突撃してくる敵兵船もあるが、そういう奴らには集中砲火を浴びせ、真っ先に沈めてやったよ。あと、南蛮船の周囲にいた小早・関船などは、衝角攻撃で沈めたり、銃撃したり、火炎瓶で燃やすなどして、俺たちは北条水軍の殲滅に成功したのであった。
『ほう、すさまじい戦果じゃのう。ここまで一方的な勝利というのは、我も見たことはないが、おぬしは随分と浮かぬ顔をしておるのう。何か気にかかることでもあるのか?』
そう問いかける怨霊神に対し、俺は、
「この海域を見て下さい。周囲は、敵の死体や肉片だらけではないですか。今までは生き残ることに精一杯で考えないようにしていましたが、改めて自分の開発した兵器で敵が次々と死んでいく事実に愕然としたわけです」
と答えたのだが、
『何を悩んでいるかと思えばそんなことか。そもそも、この戦国の世に生まれた者は、まず人の殺し方を教わるのじゃぞ。おぬしは、そんな常識も知らずに戦国時代に憧れていたというのか?ふん、そんなことを考える暇があるなら、一刻も早く我の無念を晴らすがよい。我の望みが叶い、我が御霊と化したならば、奇跡が起きておぬしも元の時代に戻れるやもしれぬぞ』
怨霊神はこう言い放つと、俺の前から姿を消した。
とりあえず、今は海で溺れている敵兵を一人でも多く救わないと。兵船は破壊するけど、兵は救うよ。まあ、捕虜は身代金と交換すれば金になるしね・・・。
大勝利に沸く周囲の兵たちをよそに、俺の気分はどんどん沈んでいくのであった。
無傷で横浜城に戻った俺たちは、藤殿や家臣たちから盛大に出迎えられた。
「さすが氏業様、お見事です」
皆に称えられる俺であったが、相変わらず気分は憂鬱であった。
「氏業様、お体の具合が悪いのですか?」
俺を心配する藤殿には、『心配をおかけして申し訳ない。私は大丈夫です』と答え、俺は家臣たちに当面の対応策を指示するのであった。
取り急ぎ里見家に使いを出して、長野家と里見家で江戸湾・三浦水道の制海権を確実に掌握しないといかんな。その際は、元里見家家臣の正木時忠に頑張ってもらうとしよう。
あと、横浜城を包囲する北条軍三万の士気を下げるため、氏政の罪状を喧伝するのも良いかな。今すぐ、職人にメガホンを作らせるとするか。大きいじょうごを作れと言えば分かるであろう。ついでに、矢文も撃ちこむとするか。『氏政は、氏康様から不当な手段で家督を奪った簒奪者である。氏政を討つことこそが正義である』なんて感じで訴えれば、氏政から離脱する者も増えるかな、というか増えてもらわないと困るな。
それと、武器弾薬の残数も確認せねば。そう思い現場に向かおうとする俺は、不意に眩暈を起こしてその場に倒れるのであった。ざわめく家臣たち。
「大丈夫。大丈夫だけど、ずっと気を張っていたので疲れが出たみたいだ。少し、奥で休むことにするよ」
心配する藤殿にはこう答え、弥左衛門や平八郎にあとの事を任せると、俺は自室へと戻るのだった。その際、婚約者兼忍びの菖蒲から『具合の良くなるお薬を用意しましょうか』と言われたので、俺は眠り薬を頼むことにした。なにしろ、小田原城で軟禁されて以来、心労で眠りが浅くなって、熟睡できていなかったからね。
少し休めば元気になるさ。援軍が来るまで頑張るぞ。
戦争:第二次横浜城の戦い(横浜沖の戦い)
年月日:永禄二年(1559年)九月十九日
場所:武蔵国横浜城東方海域
結果:長野軍の勝利
長野軍指導者・指揮官
長野右京進氏業、正木左近大夫時忠など
戦力:約300
戦死:なし(怪我人:若干名)
北条軍指導者・指揮官
梶原備前守景宗、梶原兵部少輔、北見刑部丞時忠など
戦力:約2000
戦死・水死:約1400
捕虜:約600




