第13章 長尾景虎の関東侵攻
永禄二年(1559年)7月上旬(グレゴリオ暦:8月上旬) 武蔵国横浜城
やったー、横浜城だ。
俺と今川家への援軍二百は、ようやく横浜城へと帰還したのだが、北条家は問題山積でえらいことになっていた。
一番の問題は、今後今川家をどう支援するかであるが、このことについて俺の出る幕は無いね。信玄は、小田原城に小幡信貞を派遣して支援策について詰めの作業をしているようだが、少しでも多くの利権を得るため、あれこれ難癖をつけているのが手に取るように分かるよ。まあ、支援策については全て氏康と信玄に任せるとして、俺は冷害対策をせねばならんな。
というのも、本来真夏のこの時期に、ジメジメした肌寒い日が続いているのである。
稲に関しては、穂孕み期(8月上旬)における障害型不稔発生の限界が最低気温17℃、最高気温25℃とされているが、今年はその気温に届かず、記録的大凶作になることは明らかであった。まあ、前もって氏康にヒエを植えるよう念を押しておいたから、飢饉になることはないけどね。
実際、怨霊気象衛星の可視画像を見ると、東日本太平洋側は背の低い雲で覆われていた(ちなみに、この温度の高い下層雲は、赤外画像だと見えなくなります)。この下層雲は、オホーツク海高気圧から吹き出す冷たい北東風が三陸沖で加湿されることで発生するのだが、この冷湿を特性とするヤマセは凶作風・飢餓風と言われ、東北地方において特に恐れられていたのであった。
そのヤマセが、やたらと東日本太平洋側に襲来する上に、梅雨前線とも秋雨前線ともいえぬ停滞前線が、北陸から関東甲信越に雨を降らせ続けているのである。俺には、西国から米を買い入れるか、田に水を張って、少しでも冷害の被害を押さえるぐらいしか、打つ手はないのであった。
◇小幡信貞視点◇
小田原城に来て数日が経過した。
オレは、武田家が今川家を支援する見返りとして、安部金山の採掘権を武田家に譲渡するよう、北条家・今川家との交渉を繰り返していた。
そんなある日のこと、オレは北条氏政から呼び出しを受けた。
何やらオレに聞きたい事があるらしいが、多分氏業のことであろうな。氏政の猜疑心を掻き立てて氏政と氏業の対立を煽り、両者を争わせることで北条家の力を落とすことこそが、オレに与えられたもう一つの使命であった。
さて、氏政の状態はどうかと思い顔を拝んでみたのだが、随分と憔悴しているようであった。
恐らく、氏業のことが憎くてしょうがないが、そんな暗い気持ちに支配される自分が嫌でたまらないといったところか。
氏政は、氏業の言う人道についてどう思うと聞いてきたので、
「人間など、所詮知恵の回るサルにございます。そもそも、人間は恩知らずで、むら気で、猫かぶりの偽善者で、身の危険を振り払おうとし、欲望には目がないものです(引用:君主論 マキャベリ著 中公文庫)。そんな人間を従えるには、力で押さえつけるのが一番手っ取り早いでしょう。戦って、勝った者が負けた者を支配する。単純明快で、実に分かりやすいではないですか。それを、氏業は人道だ何だと小難しい理由をつけて、わざわざ分かりにくくしているのです。私に言わせれば、氏業は人に期待しすぎだと思います」
と、オレは答えるのであった。
「だが、それでは争いは永遠に終わらぬではないか」
そう言う氏政に対しては、次のように回答した。
「争いの何が悪いのでしょうか。そもそも、人間の歴史は戦いの歴史です。勝者が敗者を従えるのは当然のことでございます。それに、我らは武士ではありませんか。我らが現に土地を領有し民を従えているのは、我ら武士が力を持っているからなのです」
すると、氏政は、
「では、知恵も力もない私は、北条家当主にふさわしくないということだな。ハハハ」
と、何もかも諦めたように笑うのであった。
そんな氏政に対し、オレは『力をお望みか?』と問いかけるのであった。
「強くない武士など、武士ではありません。例え生命力を吸い取られようが、寿命が削られようが、武士は力を追求しなければならないのです。もし、力を得る方法を知っているにもかかわらず、それをしないというのであれば、武士として怠慢であると、私は思います。氏政様が力を欲するのであれば、いつでも私をお呼び下さい。力になりますぞ」
オレはそう言うと、手のひらの上に黒炎の塊を出現させ、氏政に示すのであった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
◇長尾景虎視点◇
関東の土豪・国人衆に対する調略について当初は上手くいっていなかったものの、桶狭間の戦いで今川家が敗北すると、風向きが正反対に変わった。
関東の諸将は、北条家が以前のように関東平定に専念できなくなったことに不安を覚えたのであろう。早速、下野国の宇都宮広綱・常陸国の佐竹義昭から色よい返事が届いた。
一方、上野国はというと、箕輪の長野業政からは麾下に馳せ加わるとの返事を得たが、他の者は中立を守るようであった。まあ、こやつらは所詮日和見しているだけだから、我が軍の攻勢を見れば向こうの方からすり寄ってくるであろう。
こうして、関東の土豪・国人衆についてはある程度味方にできる目処が立ったが、まだ何か足りない気がする。そうだ、権威だ。
北条氏康は、古河公方足利義氏から関東管領に任じられることで、関東支配の正当性を得ているからな。わしが、上杉憲政公後継の関東管領として関東に乗り込んだとしても所詮同格。しかし、昨年の上洛時に親交を深めた関白近衛前久を関東に同伴し、その『上意』をもって関東を支配すれば、権威において北条家を圧倒することになるであろう。そうだ、それが良い。
それでは、近衛前久卿の越後下向を待ち、その後吉日を選んで越山するとしよう。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
永禄二年(1559年)8月中旬 相模国小田原城
長尾景虎が、関白近衛前久とともに関東に侵攻する。
この情報を得た俺は、いつも通り藤殿に横浜城を任せると、善後策を講じるため孫蔵・弥左衛門・平八郎を連れて小田原の氏康の下へと向かった。
藤殿は、『氏政が余計な手出しをしてくるのではないか』と懸念していたが、俺は『何も心配する必要はありません。安心して留守を預かっていて下さい。それほど心配でしたら、護身用の生石灰を常時所持することにしましょう。あと、横浜城に忍び込んでいる氏政の間者は、いつでも捕らえられるよう菖蒲に見張らせておきましょう』と言って、きちんと危機管理していることを説明するのであった。
「くれぐれもご自愛ください」
藤殿はそう言って、俺を送り出すのだった。
小田原に到着するや否や、俺は氏康に面会を願い出た。
俺の報告を受けた氏康は、『悪い時に悪い事は重なるものだな』と言うと、沼田城(群馬県沼田市)に援軍を送る一方、家臣たちにはいつでも出陣可能な状態を維持するよう指示を出すのであった。
「氏照には兵と兵糧を集めさせるとして、西上州の国人衆には氏照の準備が整うまで厩橋城に籠城するよう命じるとするか。それから・・・」
氏康は、防衛体制を強化するため様々な策を講じるのであったが、そんな氏康の下に氏政がやってきた。
氏政は俺の顔を一瞥すると、いきなり『上野国の国人衆から裏切り者を出さないためにも、人質を地下牢に閉じ込めておくべきではないでしょうか』と切り出した。
その発言を聞いた氏康は、
「おぬし、氏業への対抗心からそのようなことを言い出したのではあるまいな」
と氏政に問うが、周囲の家臣たちも『地下牢は行き過ぎかもしれませんが、城内に軟禁する必要はあると思います』と氏政の意見に賛同するので、急遽俺を含めた人質たちは、小田原城内の一室に軟禁されることになるのであった。
まさか、いきなり軟禁されてしまうとは。藤殿に心配をかけてしまうことが気がかりだな・・・。
◇北条氏康と氏政◇
「父上、お呼びでしょうか」
父からの呼び出しを受け、氏政は氏康の部屋を訪問した。
一方の氏康は、終始不機嫌そうな様子であった。
「氏政よ。当の本人を目の前にして地下牢に放り込むなど、言い方を改めた方が良いのではないか」
こう言う氏康に対し、氏政は、
「私は言うべきことを述べたにすぎません。父上こそ、氏業への偏愛が過ぎるのではありませんか。それほど氏業が可愛いですか」
と、言い返すのであった。すると、氏康は
「ああそうだな。出来の良い氏業が実の息子だったらと、何度思ったことか。だが氏政よ、例え能力では及ばずとも、おぬしは漢の高祖劉邦のように将の将たる力を持てば・・・」
と氏政に話し続けるが、氏康の『氏業が実の息子だったらと何度思ったことか』という言葉を耳にした氏政に、残りの言葉はもはや届いていないのであった。
「おい氏政、わしの話を聞いているのか」
そう言う氏康に対し、氏政は
「父上のお考えは良く分かりました。では失礼いたします」
と言って、この場を立ち去るのであった。
(父上は、氏業のことになると冷静な判断ができなくなるようだ。であれば、父の目を覚ますのは、息子である私の務め)
こう判断した氏政は、早速弟の氏照・松田憲秀・小幡信貞を自室へと呼びつけ、今後の方針について指示を出すのであった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇




