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桶狭間の退き口

 今川義元は、桶狭間にて落雷により死亡した。享年41。

 信長はというと、義元の死で生じた混乱の隙を突いて、戦場からの脱出に成功していた。

 いつの間にか、雨もやんでいた。

 怨霊神業盛は、

『信長に他者の探知を遮る力があるとは、我も知らなかったぞ。あと、信長率いる織田軍の移動速度は凄まじかったな。まさに『神速』と言うべきか。此度の戦いは、織田と今川どちらも勝利する可能性があったが、運の一点において信長に分があったようじゃな。面白き戦いを見ることができ、我は満足じゃ。それにしても、義元に直撃した雷撃は少々不自然であったな。あれからは、怨霊の力を感じたぞ』

 こう言うと、いつものように戦場から姿を消すのであった。

(うむ、あの雷撃が怨霊の力によるものだとしたら、あの場に俺と信長以外にも怨霊魔法の使い手がいたということか。そいつは密かに信長に味方したということになるが、いったい誰がどういう理由で信長に手を貸したというのだ)

 ひとり考え込む俺の肩を、何者かが叩いた。

 振り返ると、そこにいたのは山口吉薫であった。

「貴殿は、有松村付近にて味方が酒・食べ物を飲み食いしていると私に報告した者か」

「はい、左様にございます。今までずっと氏業様の近くで行動しておりましたが、言いたいことはそれではなくて、今は一刻も早くこの場から立ち去るべきではないでしょうか」

 ああそうだ。皆で呆けている場合ではない。俺は氏真に、『速やかに駿府まで退くよう』促すと、氏真も我に返って撤退の準備を始めるのであった。

 あとは、沓掛城にいる北条幻庵殿にも使者を送らねば。

 誰かを呼ぼうとすると、また俺の肩を叩く者がいる。

「何か御用がございましたら、某にお申し付け下され」

 山口吉薫がやたらと自己アピールをしてくるので、それならばと北条幻庵への伝言を頼むのだった。

 とりあえず、反今川の色彩の強い三河は、早急に通過しないといかんな。

 俺たちは、整然と隊列を組んで東海道を東へと進む。

 唯一の救いは、織田軍の追撃がないことかな。

 鷲津砦を攻略した朝比奈泰朝からは、鷲津砦を放棄し撤退するとの報告を得たが、松平元康は一度岡崎に寄ってから駿府に戻るとのこと。これはヤバイ気がするが、俺はあくまでも援軍の将だからな。氏真が元康からの連絡を受けるのを、黙って見ていることしかできないのであった。


◇小幡信貞視点◇

 桶狭間の戦いから三日後の5月22日、オレは家臣たちとともに駿府に到着した。

 駿府城には、既に義元落雷死の報が届いているようで、城内は大混乱していた。

 さて、わざわざオレが駿府城まで来た目的だが、それは松平元康の正室瀬名姫と嫡男竹千代を攫うことである。

 瀬名姫と竹千代を今川家から奪い、本願寺門徒に渡せば、三河に本願寺王国が誕生するという訳だな。武田家は本願寺と親しい間柄だから、本願寺を通じて三河を操ることも可能となろう。

 では、夜になったら正面から駿府城に乗り込むとするか。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇


永禄二年(1559年)5月25日 駿河国駿府城


 やっとの思いで駿府城にたどり着いた俺たちであったが、当の駿府城は火災で一部焼け焦げており、城門も叩き壊されていた。

 いったい何が起きたのか城の者に尋ねると、賊が侵入して松平元康の正室瀬名姫と嫡男竹千代を攫っていったとのこと。

 鉄仮面で顔を隠した賊は、長い太刀で門を真っ二つにして城に侵入すると、周囲に火を放ったり、城兵を雷撃で感電死させるなどして周囲の目を自分に向けさせる一方、部下を城内に侵入させ、まんまと瀬名姫・竹千代の誘拐に成功したのだそうだ。

「何だと。これでは、三河が独立してしまうではないか。どうりで、松平元康は岡崎から動かぬわけだ」

 こう氏真は憤慨するが、元康の独立は史実通りとも言えるね。

 まあ、こうなってしまっては、もう元康の擁護は出来んな。

 ということで、松平元康の討伐は致し方ないことと思うが、元康は信長と同盟を組むことが予想されるので、もし元康を攻めるのであれば武田か北条と合同で攻めるのはどうかと、俺は氏真にアドバイスするのであった。

 それにしても、鉄仮面をかぶり、雷を放つ賊か。俺は、みかじりの戦い(第8章)で血を吐いて倒れた鉄仮面を思い出していた。武田の関与が疑われるあいつも、怨霊の力で軍団を強化していたな。

 まさか、今川義元の上洛を阻止し、今川家の力を弱めるために、武田信玄が信長に手を貸したというのか?史実通りだと、信玄はこの後駿河に侵攻するからな。考えれば考えるほど信玄は怪しいが、証拠がないから何とも言えん。

 今後は、北条家にも何か工作してこないか、注意するより他はないか。


◇松平元康視点(三河国岡崎城)◇

 大高城から撤退した我が軍は、5月22日に岡崎へ到着した。

 岡崎城への寄り道は家臣たちに勧められてのことであったが、私としても望むところだった。そういえば、岡崎城の城代である山田景隆はどうしているであろうか。もし、義元の死を知って逃げ出しているようなら、そのまま岡崎城に居残るのも良いかなと思っているうちに、我が軍は岡崎城へと到着した。

 岡崎城は、異様な雰囲気に包まれていた。

 坊主や武装した農民が大勢集まり、私が入城するのを待ち構えているのである。

「誰か、山田景隆殿に使いを出せ」

 私の発言に対し、近侍していた本多正信は

「城に入ればすぐお会い出来ます」

 そう言って、岡崎城への入城を促すのであった。


 入城した私を出迎えたのは、本證寺第十代・空誓(蓮如の孫)であった。

 空誓は、元康を見るや否や、部下に一つの首桶を持って来させるのであった。

「これは、まさか・・・」

 元康が首桶の蓋を開けると、中に入っていたのはまさしく山田景隆の首であった。

「お前ら、何てことをしてくれた。これで、松平家は完全に今川家を敵に回してしまったではないか」

 頭を抱える元康に対し、正信はこう言って元康を諫めるのであった。

「ご心配することなど、何一つありません。殿には、本願寺という心強い味方がおるではありませんか。それに、殿は本願寺にもっと感謝すべきです。三河の民が飢えずに済んでいるのは、本願寺が民に食糧を施したからですぞ」

「確かにその件については感謝しておるが、本当に今川家と戦争をして勝つことができるのか。それに、駿府には人質もおるではないか」

「殿は、織田信長との同盟を検討して下さい。松平と織田が手を組めば、今川など恐るるに足らず、です。それに、人質については既に手を打っております。ご正室と竹千代様については、本願寺が責任をもってお守りいたします」

「何ということだ。やっと今川家から独立できたかと思えば、今度は本願寺に従属することになろうとは」

 松平元康の苦難の日々は続く。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇


合戦の影響(桶狭間の戦い)


 今川軍の敗戦は、多方面に多大な影響を与えた。

 まず今川家であるが、誰もが今川家の上洛を前提に今後について議論していたため、その前段階で事故死した義元は貴族趣味に溺れた凡将として酷評されるようになり、今川家の名声は地に落ちるのであった。そして、松平家康(元康から改名)の独立によって三河は家康の勢力下に入り、今川家の手から離れることとなった。さらに、家康は本願寺門徒とともに遠江へ攻め込んだため、遠江では今川家を離反して松平につく国人と今川方に残る国人の間で抗争が広がるのであった。

 次に織田家であるが、風前の灯火と言われた織田軍が十倍近い今川軍を打ち破ったということで、信長の名は天下に鳴り響くこととなった。信長は、すぐさま家康と同盟を組み、東の守りを盤石にすると、美濃・伊勢攻めを開始するのであった。

 最後に北条家であるが、西の今川家が不安定になったため、今までのように関東制覇に全力を注げなくなってしまった。氏康は、今川氏真に対する支援もせざるを得なくなったのだが、それを見て長尾景虎・武田信玄はどう動くのか。関東を巡る新たな戦いが、今まさに幕を開けようとしていた。


永禄二年(1559年)6月2日 相模国小田原城


 やっとの思いで小田原に帰ってきた俺たちは、取り急ぎ小田原城に登城して、氏康に戦の経緯を報告することになった。

 今回の援軍に参加した主だった将は、北条幻庵を先頭に本丸大広間の氏康の下へと向かう。一応、俺も一番後ろをついていったよ。

 氏康は、『大変な思いをさせたな。ゆっくり休むがよい』と皆にねぎらいの言葉を掛けるが、氏政は俺を見るや『義元殿を死なせておいて、よく私の前に顔を出せたものだ。常勝が聞いてあきれるな』と、俺を罵るのであった。

 それを聞いた氏康は烈火のごとく怒り、

「皆が大変な思いをしてようやく帰ってきたというのに、なんという言い草だ。恥を知れ。すぐ皆に謝り、この場から立ち去るがよい」

 こう氏政を叱ると、氏政はひどく狼狽しながら、

「不適切な発言にて皆様のご機嫌を損ねたこと、深くお詫び申す」

 と、謝罪してこの場から立ち去るのであった。

「愚息は、そなたに対抗意識を持っているようだ。わしは、たとえ出来が悪くとも、将に将たる力を持っていれば良いと思い、出来の良いおぬしを奴に近付けてみたのだが、却って逆効果になってしまったようだ。すまんな」

 そう謝る氏康に対し、俺は何と答えればよいのかわからなかった。


◇北条氏政視点◇

 くそっ、全てがうまくいかぬ。

 氏業を今川家の援軍に加えてみたが、大した汚点にはならず、むしろ困難な退却戦で被害を最小限に抑えたということで、またもや評判が上がってしまった。

 そして、私はといえば、また父上の怒りを買ってしまった。

 何故、私と同じ時代に奴がいる。私はただ、父上に認められたい、褒められたいだけなのに。

 父上に褒められる奴を見ると、嫉妬や妬みといった暗い感情が湧き上がってくる。

 私自身、このような感情に支配されたくないのに、抑えることができない。

 いったい私はどうすれば良いのだ。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇


◇小幡信貞視点◇

 尾張・三河での仕事を終えたオレは、御屋形様に報告するため甲斐の躑躅が崎館へと戻った。

 御屋形様は、『此度のそなたの働き、誠に見事であった』とオレを褒め、オレには新たに知行五百貫が加増されることとなった。

「さて、これで今川家は良いとして、北条家では最近氏政と氏業の仲が上手くいっていないという。そこで、帰って来て早々申し訳ないが、おぬしにはこれから小田原でひと仕事してもらいたいと思っている。おぬしには、氏政を上手く操って、北条家内部で内紛を起こしてきて欲しいのだが、やり方はこんな感じだ。どうだ、出来るか?」

 こう御屋形様が尋ねるので、オレは

「今すぐ小田原に赴き、北条家の内部抗争を激化させ、憎き氏業めにとどめを刺して御覧に入れましょう」

 と答えるのであった。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 やったー、ようやく横浜城に帰れるぞ。

 いつも城主代理を頑張っている藤殿には、何かお礼をしないといかんな。

 隣にいる山口吉薫も、『奥方様は大事にせねばなりませんぞ』なんて言っている。

 いや、まだ結婚していないから婚約者なんだけどね。まあ、俺は18歳になるまで結婚する気はないんだけど、というか今川家の将である吉薫が何故ここにいる。

 そのことを吉繁に指摘すると、

「私は今川家の家臣ではありません。陣借りしていただけです。桶狭間における氏業様の戦いぶりに惚れ申した。どうか、家臣の末席に加えていただきたい」

 なんてことを言い出した。まあ、ここまで付いて来てしまった者を追い返すのも可哀想なので、横浜に住むことは許可するのであった。吉薫は、家族を呼び寄せられると大喜びである。

 さて、この山口吉薫であるが、祖先は大内義弘(室町幕府周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊守護)で、代々周防国山口村(山口県山口市)に居住していたため、山口姓を名乗ったそうだ。同じ祖先を持つ鳴海城主山口教継を頼って尾張まで流れてきたが、そこで出世できなかったため、今川家で陣借りしていたということだが、それにしても山口か。こいつって、もしかして金敷平山口家の祖先か(高崎市箕郷町金敷平には、大内義弘を祖先に持つ山口姓の人が多数住んでいます)、なんてことを思ったりした。


主な金敷平山口家の人物:山口松胤(国学者)、山口薫(画家・東京芸術大学教授)


第12章 完

戦争:桶狭間の戦い

年月日:永禄二年(1559年)五月十九日(グレゴリオ暦:6月22日)

場所:尾張国知多郡桶狭間

結果:織田軍の勝利


今川軍指導者・指揮官

今川義元、今川氏真、朝比奈泰朝、松平元康、井伊直盛、蒲原氏徳、松井宗信、井伊直親、北条幻庵、長野氏業など

戦力:約25000

戦死:約3000(今川義元、井伊直盛、蒲原氏徳落雷死、松井宗信討死)


織田軍指導者・指揮官

織田信長、柴田勝家、佐久間信盛、佐久間盛重、飯尾定宗、織田秀敏、佐々隼人正、千秋季忠など

戦力:約3000

戦死:約1000(佐久間盛重、飯尾定宗、織田秀敏、佐々隼人正、千秋季忠討死)

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