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今川義元、出陣

永禄二年(1559年)5月12日(グレゴリオ暦:6月15日) 駿河国駿府城

 

 今川義元率いる二万余の軍勢は、永禄二年五月十二日に駿府を出陣した。

 そして、俺はというと、なぜか義元本隊にいるんだよね。念のために言っておくと、俺の率いる二百の騎兵・今川氏真・井伊直盛・井伊直親も一緒だよ。

 まさに、『なんでだー。今川軍後方の安全な場所で、大人しくしているはずだったのにー』といった感じなのだが、何故こうなったのかというと、話は数日前にさかのぼる。

 俺は、北条幻庵率いる今川家への援軍二千の一員として、護衛の孫蔵・弥左衛門・平八郎を加えた二百の騎兵とともに駿府城へ到着したのだが、早速今川氏真が俺の下を訪ねてきた。

 氏真は、『おぬしの申した通り(第6章参照)、井伊直盛と直親を側近に加えることにしたぞ』と言って、二人を紹介するのであった。直盛・直親には、『氏真様にお引き立て頂けたのは、氏業殿のおかげにござる。誠に感謝いたす』なんて礼を言われてしまったが、今は井伊家よりも今川義元なんだよね。

 そこで、俺は氏真に向かって、『此度の戦いでは、御父上(今川義元)はわざと戦力を分散させ、自らがおとりとなって信長を誘い出し、野戦にて信長を討ち取るという戦術を取るのではないか』と伝えると、氏真は『そのような戦い方は危険すぎる。父上にしかと確認せねばならぬ』と言うや否や、大広間にいる義元の下へと急ぐのであった。

 俺としては、信長の奇襲攻撃にもう少し注意した方がいいんじゃないかという意味で、氏真を通じて義元に意見できればそれでよかったのだが、しばらくすると俺自身が義元本人からの呼び出しを食らうはめになってしまった。

 しょうがないので、俺も義元のいる大広間へと向かったのだが、北条軍大将の北条幻庵も一緒について来ることになった。

「相手は三カ国を有する大大名だ。口のきき方に気を付けよ」

 そう言う北条幻庵に対し、俺は『承知しております』と答えると、早速大広間へ入るのであった。

 そこには、義元と氏真に加えて今川家の重臣たちが勢ぞろいしていた。氏真は、『面倒ごとに巻き込んで申し訳ない』といった顔をしているね。

 一方、俺の顔を見た義元は、

「氏業よ、久しいな。おぬしと会うのも三年ぶりか。随分と成長したな。見違えたぞ」

 そう、俺に話しかけるのであった。


「さて、おぬしを呼んだのは他でもない。おぬしが氏真に話した内容を、ここにいる皆にも聞かせたいと思ったのでな」

 義元はそう言うと、三河・尾張周辺の地図を広げ、『此度の戦について、おぬしの意見を述べてみよ』と命じるのであった。

 慌てた幻庵翁は、

「我らは援軍です。他家の者が、今川家の皆様の前で戦を論じるなど、あってはならぬことにございます」

 そう言って、何とかこの場を収めようとするが、義元は、

「別に、氏業を罰しようと思ってのことではない。我らに必要と思うから、やらせるだけのことだ。例え何を言われようと、北条家に迷惑をかけることはないから、その点は安心するがよい」

 と言って、俺に発言を促すのであった。

 ここまで言われたらしょうがない。俺は、今川家の皆さんに俺の思うところを話し始めるのであった。


「えー、二万余の兵を動員できる今川家に対し、織田家は多く見積もったとしても五~六千程度しか兵を動員できません。しかも、北に斎藤家、西に北畠家という敵を抱えているため、今川家との戦いに動員できる兵は、せいぜい二~三千程度でしょう。であれば、織田家の勝利は万に一つもないと考えるのが衆目の一致するところであり、なにより信長自身もそう考えていることでしょう。ただ、今川家も兵站に不安を抱えています。義元様が短期決戦を望むのであれば、あえて信長に隙を見せて、自らがおとりとなって信長を誘い出し、野戦で信長を討つという戦術を取るのではと思い、氏真殿に話をしたまでのことです」

 俺がこのように説明すると、義元は、

「ふむ、氏業がいともたやすくこの考えに至るのだから、信長もわしの考えなどお見通しと見て間違いないな」

 と言うので、俺は、

「信長は、義元様の首を取ることだけを考えて、乾坤一擲の大勝負に打って出ることでしょう」

 と答えるのであった。

「やはり、信長とは差し違える覚悟で相対するしかないか」

 そう言う義元に対し、氏真は

「父上と信長では命の重みが違います。此度の戦いでは、私が大将を務めましょう。父上におかれましては、我が軍が戦果をおさめるのを、駿府でごゆるりと待つのがよろしいかと思います」

 と主張するが、義元は、

「あの朝倉宗滴ですら一目置く信長の相手を、お前ごときに務まるはずあるまい」

 そう言って、氏真の発言を却下するのであった。

 義元の迫力に圧倒される氏真であったが、

「そうであれば、私自身も一軍を率いて父上をお守りしたく存じます。私が率いる軍であれば、信長も侮ることでしょう。しかし、我が軍には井伊直盛や直親がおります。戦下手という私の評判を逆手にとって、信長の油断を誘うのです」

 この氏真の発言は義元に通じたようで、

「では、そなたには蒲原氏徳とともに二千の兵を任せよう。尾張に入ったら本隊の近くで待機し、信長が突入してきたらその後方を衝け」

「ははっ、ありがたき幸せにございます」

 よっしゃー。義元に信長の危険性を伝えることもできたし、氏真参戦という形で歴史も変わった。これなら、義元も生き延びて、無事尾張を平定できるであろう。その後は、今川家・武田家・北条家が一緒に上洛して、連立政権でも組めば良いのではないかな。俺は、そんなことを思いつつこの場から立ち去ろうとしたのだが、そんな俺を義元が呼び止めた。

「氏業よ。色々なことを知りすぎてしまったおぬしを、わしが自由にするとでも思ったか。そうだな・・・、そんなおぬしには、氏真の補佐役を命じるとしよう。よろしいか、幻庵殿」

 こう言う義元に対し、幻庵はひとこと『承知しました』と答え、俺に対しては『自分で蒔いた種は自分で刈り取るしかあるまい。まあ、武勲を立てる格好の機会を得たと思えばよいのではないか』と教え諭すのであった。


永禄二年(1559年)5月18日(グレゴリオ暦:6月21日) 尾張国沓掛城


 こうして、今川軍本隊に属することになった俺は、氏真らと共に尾張へと向かい、五月十八日に沓掛城へと入った。

 当面の目標は、今川家に寝返った鳴海城・大高城を、信長の攻勢から救うことである。

 義元は諸将を呼び寄せると、松平元康には、大高城に兵糧を運び込んだのちに朝比奈泰朝とともに大高城の織田方の付城である鷲津砦・丸根砦を攻略することを命じ、義元自身は本隊を率いて鳴海城の織田方の付城である中島砦・善照寺砦・丹下砦を陥落させるという方針を決めたのであった。ただ、これは表向きの目標であって、実際はわざと兵を分散させて隙を見せ、信長自身の出撃を促すのが狙いであった。

 ここで、最も重要な役割を担うことになるのが、俺の率いる二百の騎兵と氏真率いる二千の兵である。俺たちは今川軍本隊の先鋒として、もし信長が正面から攻めてきたら、俺たちが持ちこたえている間に本隊が信長を包囲殲滅することになるし、信長が本隊に奇襲をかけた場合は、俺たちが信長を背後から討つという役割を担当することになるのであった。いやー、ちょっと責任重大すぎやしないか。


 翌日の早朝、沓掛城を出発した俺たちは、桶狭間を通過し、正午頃中島砦に肉薄した。

 今川義元は、今頃桶狭間付近に到着しているであろうか。

 そんなことを思っていると、中島砦が俄かに騒がしくなった。

 敵襲だ!佐々隼人正と千秋季忠率いる三百ほどの兵が、俺たちに攻めかかってきた。

 ふん、たかが三百程度の兵で二千二百の今川軍先鋒に攻め込むとは、命知らずな奴らめ。

 井伊直盛・直親が正面から佐々・千秋軍の攻撃を受け止める一方、俺の騎兵が後方に回って逃げ道をふさいだため、たちまち織田軍三百は今川軍に飲み込まれ、佐々隼人正と千秋季忠は戦死するのであった。

 さて、前哨戦は無事勝利したことだし、ここは信長の出方を見るのが良いかなと思い、周囲に斥候を放つと、信長は善照寺砦にいることが分かった。意外と近くにいるのには驚いたが、フットワークの軽さで信長は有名だからな。下手に善照寺砦に攻め込んで、実際の信長は義元本陣を衝いていた、なんてことになれば大問題だ。ということで、俺は怨霊神を呼び出して信長を探知させる一方、氏真にはいつでも動けるよう準備しつつ、この場で待機するのはどうかと提案するのであった。


永禄二年(1559年)5月19日 尾張国有松村(中島砦と桶狭間の中間付近)


 俺たちが有松村付近に着陣すると同時に、雨が降り始めた。遠くでは、雷も鳴っているね。

兵たちには木の下に移動するよう指示を出し、俺や氏真たちは複数の民家に分散して雨宿りをしていたのだが、何だか兵たちがザワザワしている気がするなあ。

 俺は兵の様子を見に行こうとすると、一人の兵士が俺の前で跪いて氏真への取次ぎを願い出るのであった。

 何事かと思い、山口吉薫ヤマグチヨシシゲと名乗る兵士にその内容を聞くと、周辺の村人たちが献上してきた酒・食べ物を、戦闘中だというのに一部の兵が飲み食いしているとのこと。

 やべえ、信長の策が始まっちゃってるよ。この様子だと、今川義元本陣でも、酒や食べ物が献上されているんだろうなあ。

 とにかく、孫蔵に今すぐ氏真を呼んでくるよう指示を出すと、吉薫を先頭にして俺・弥左衛門・平八郎は現場へと急ぐのであった。


 現場では、五百人以上の兵たちが、酒や料理を飲み食いしていた。

「ええい、何をしている。今は戦闘中であるぞ。直ちに飲み食いを止めよ」

 こう言う俺に対し、今川軍の兵士たちは

「そこにいるのは北条家の麒麟児様じゃあないですか。おれたちも、その神の力で救っては貰えませんかね。去年から食糧不足で、おれらは腹が減ってしょうがないんすよ」

 なんて感じで俺に絡んでくる。これ、無礼討ちしちゃってもいいんじゃないかな、なんて思っていると、そこかしこで兵たちが居眠りを始めた。やはり眠り薬が入っていたか。

 それと同時に雨脚は強まり、雷も近づいてきた。

 そして、怨霊神からも警告が発せられた。

『氏業よ。善照寺砦から信長の気配が消えたぞ。あと、この雨と雷のせいかわからんが、織田軍を探知することができぬ』

 えっ、なんだそりゃ。俺も探知の怨霊魔法を使ってみたが、一面にノイズがかかって、さっぱり使い物にならなかった。

 急いでやって来た氏真に対しては、信長に眠り薬を盛られたこと、信長は既に善照寺砦にいないこと、そして信長率いる織田軍二千は義元本陣を奇襲している可能性が高いことを伝えると、氏真はすぐさま周囲の兵をまとめ、蒲原氏徳らとともに義元のいる桶狭間へと急ぐのであった。

 一方、俺は浄化の怨霊魔法を発動させて眠り薬を盛られた兵たちを起こすと、井伊直親にはこの場にいる残兵をまとめて俺たちの後を追うよう指示を出してから、二百の騎兵・井伊直盛とともに氏真の後を追うのであった。


◇小幡信貞視点◇

 ついに、今川義元の尾張侵攻が始まったが、多数のカラスを操るオレにとって、義元の居場所を探ることなど造作もないことよ。

 今日も義元本隊を探っていると、先鋒は有松村付近に、義元本隊は桶狭間付近に着陣したのが確認できた。それでは、かねてからの予定通り、今川軍には周辺の村人を使って眠り薬入りの酒と食べ物を献上させるとして、オレ自身は梁田政綱との合流地点へと急ぎ、信長本隊を桶狭間まで道案内してやるとするかな。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇


◇織田信長視点◇

『小幡信貞が自身の判断で織田家に味方する』

 この報告を梁田政綱から受けた時、家臣たちは『話がうますぎる。武田信玄の罠ではないか』と訝しんだが、小幡信貞は信じても良いとわしは思った。

 なぜなら、天下に大望を持つ武田信玄にとって、東海道を制する今川義元は邪魔な存在でしかないからだ。わしに今川義元を討たせて、自らは手を汚すことなく漁夫の利を得る。おそらく、信玄の考えはこんなところであろう。信玄の思惑に乗るのは癪だが、わしに選択肢がないのも事実であった。

 五月十九日正午、雨脚が強まる中、かねてからの打ち合わせ通り、我が軍は善照寺砦東方の相原郷付近で小幡信貞と合流した。信貞が言うには、現在義元本隊は桶狭間付近で雨宿りをしているとのこと。信貞は我らを桶狭間まで案内するというが、一つ気になるのは今川氏真率いる今川軍先鋒隊のこと。試しに、佐々隼人正と千秋季忠に衝かせてみたが、両者はあっという間に討ち取られてしまったからな。

 そこで、柴田勝家隊五百を先鋒隊への備えとして残すと、わしは千五百の兵とともに義元本陣へと突撃するのであった。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

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