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羽毛布団と瓦版

弘治三年(1557年)12月中旬 武蔵国横浜城


 南蛮船を伊豆鳥島に出航させてから2ヶ月ほど経過し、ようやく時忠たちは横浜港へと帰還した。もちろん、船の内部は魚の干物やアホウドリの羽毛でいっぱいだったよ。無人島での大砲試射も上手くいったようで、見たところ砲身にひびも入っていないし曲がったりもしていないようであった。命中精度については、練習回数を増やすことで対応するのが良いかな。アホウドリについては、絶滅させることだけは絶対にしないから、人道のために羽毛布団になってもらうことにしよう。お前らのことは絶対に忘れん。

 さて、布団にする前にアホウドリの羽毛を洗浄する必要があるが、石鹸で洗えばよいのかな、なんてことを考えていのだが、よくよく考えてみると俺は浄化の怨霊魔法を使えるではないか。という訳で、怨霊魔法できれいにした羽毛を絹製の袋にぎっしり詰め込めば、あっという間に羽毛布団の完成である。もちろん、羽毛が偏らないようキルト仕立てにしてみたよ。

 試作品は、城の女性陣に使い心地を確かめて貰ったのだが、軽くて暖かく寝心地も良いということでとても好評であった。藤殿は、『もう羽毛布団を手放せない』なんて言っているしね。

 そこで、年賀の手土産として羽毛布団をいくつか用意して、氏康に献上することにしたよ。

 あとは、瓦版も発行したいから、原稿を用意して小田原に向かうとするかな。

 

弘治四年(1558年)正月 相模国小田原城


 ついに1558年、すなわち永禄年間に突入である(正親町天皇即位のため、2月28日に弘治から永禄に改元されます)。永禄年間といえば、桶狭間や川中島の戦いなど多くの大戦が勃発するし、まさに戦国時代後半戦の始まりと言ったところかな。

 1つ歳を取って15歳になった俺は、孫蔵・弥左衛門・平八郎たちと一緒に小田原城へと向かうのであった。冬だから天気も良いし、氏政も一生懸命街道を整備していることから、小田原までスムーズに行くことが出来たよ。

 正月の小田原城は北条家の家臣でごった返していたので、隅の方で大人しくしていると、乙千代丸(北条氏邦)、孫次郎(松田康郷)、大道寺政繁、小幡信重(信貞の弟)、太田資正・氏資親子等に加えて、地黄八幡こと北条綱成や、この前の三浦三崎の戦いで捕まえた里見義弘までもが俺に話しかけてきた。武蔵国の太田家といえば、上野国の長野家とともに関東管領上杉家の双璧として有名だから、仲良くしておいて損はないかな。地黄八幡がわざわざ俺の顔を見に来てくれたことについては、光栄に思うとしよう。だが、問題は里見義弘である。

「私に遺恨はないのですか?」

 と義弘に尋ねると、

「正直、おぬしに対して思うところはある。戦に敗れ、里見家の後継者から外されてしまったからな。だが、北条家に来て分かったのだ。おぬしは、わしなどとは比べ物にならない天才だということをな」

 と義弘は答えるのであった。

「それは、さすがに買いかぶり過ぎでしょう」

 と俺は義弘に伝えたのだが、

「何を言うか。この前の海戦で用いた南蛮船は、明らかに日ノ本の技術水準を超越していたではないか。わしは、いずれ氏康殿の許可を得て横浜城へ行くつもりだ。その時は、新しき物や珍しき物を色々と見せてもらうことにするぞ。では、またな」

 そう言うと、義弘は俺の前から立ち去るのであった。

 そんな感じでしばらく時間つぶしをしていると、俺が挨拶する番になった。

 ということで、氏康・氏政親子に年賀の挨拶をして、羽毛布団を献上して、瓦版の原稿を渡したら、今日の仕事は終了となった。

 氏康は俺に話があるらしく、『後で使いをやる』と言っていたので、俺はしばらくの間小田原城に留まることとした。それじゃあ、ゴロゴロ寝正月でもしようかなと思っていたのだが、やたら客が来るのには参ったね。北条家の家臣たちに加え、商人や職人や学者も俺に会いに来たのだけど、これはここ数年で俺の知名度や影響力が格段に向上したということなのかな。


弘治四年(1558年)1月4日 相模国小田原城


 来客の相手で忙しくしていた俺であったが、氏康の使いから『急ぎ登城するように』との連絡を受けたので、早速小田原城本丸大広間へと向かった。

 大広間で待つ氏康は、俺の顔を見るや否や『あの羽毛布団は、軽くて暖かくて素晴らしいものだな。あれはどうやって作るのだ。原価は。大量生産できるのか』などと、怒涛の質問攻めをするのであった。隣にいる氏政は、若干引いているぞ。

 俺的には、アホウドリの乱獲は避けたいので、『大量生産は不可能』『数量限定の高級品として販売するのはどうか』と氏康に伝えると、『大量生産できぬのは残念だが、それなら朝廷や将軍家への贈答品として用いるのが良いかな』と氏康は感想を述べるのであった。

 一応、物資の輸送量増大と海路の安全確保のため、南蛮船六隻までの保有を氏康に認めさせたよ。船の製造費は、羽毛布団の販売で稼ぐことにするかな。

 一方、瓦版については

「正条植えや塩水選、それに長期予報(予想される向こう3カ月の天気傾向)はまあ良い。だが、『里見義堯が長尾景虎に支援を要請』『将軍と三好長慶の間で和睦が成立。近いうちに将軍は帰京する予定』『今川家に尾張攻めの兆しあり』『長尾景虎に上洛の兆しあり。将軍に要求するのは関東管領就任の許可か』とはどういうことだ。わしにも把握していない情報があるではないか」

 と、少々興奮気味にまくしたてる氏康に対し、俺は

「横浜港には畿内の商人も多数出入りしているので、その者たちから情報を集めました」

 と答えるのであった。

『商人の情報など当てになるのか』と言う氏康には、『商人は信用が第一にございます。それに、私に間違った情報を渡して横浜港を出禁になれば、一番困るのは商人ですしね』と答えたのであった。

 ともかく、瓦版については氏康が真偽を確認した上で、北条家の方針が定まった後でなら発行して良いということになった。ついでに、瓦版は毎月持ってくるようにとの命令も受けてしまった。俺としては、民の識字率を向上させたかっただけなのだが、なんか大ごとになっちゃったのは誤算だったな・・・。


◇小幡信貞視点◇

 御屋形様に尾張・三河の調査を命じられてから2ヶ月が経過した。一応、オレは商人として三河・尾張に入り、配下の山賊を使って情報収集をしていた。

 信長の使者として甲斐を訪れた梁田政綱にはオレの店のお得意様になってもらい、お互い情報交換をしているぞ。今川家に追い詰められた信長からすれば、オレすなわち武田家とのつながりは、何を差し置いても維持したいと考えるであろうな。

 こうして三河に入って情報収集していると、想像以上に今川家に対する恨みや不平・不満が高まっているのを肌で感じ取ることができた。織田との戦闘では最前線に置かれる三河衆の戦死者は年々増加し、戦争で消費される兵糧は三河の農民から搾り取られ、住民にとって三河はまさに生き地獄と言ったところか。これでは、死ねば天国に行けるという一向宗が流行るのも当然であろう。そして、三河衆の唯一の希望が松平元康ということか。

 幸いなことに、武田家と一向門徒の関係は良いからな。いっそのこと、三河衆を一向門徒にしてしまえば、間接的に三河を武田の支配下に置くことができるのではないだろうか。今川に対する恨みや不平・不満が渦巻く三河国であれば、怨霊の力を少々上乗せするだけで操り人形になりそうな人間は、掃いて捨てるほどいるであろうな。早速、御屋形様に進言するとしよう。

 話は変わるが、怨霊の力による雷攻撃も上手くなりつつあるぞ。

 当初は力を使うたびに倒れていたが、試行錯誤の末、景清の太刀に怨霊の力を充填させてから放出すると、効率よく雷撃を放てることが判明した。ちなみに、天候が悪ければ悪いほど、雷撃の威力も増すようだ。

 悪天候時に、遠距離から雷撃で敵を暗殺する。

 なかなか、使い勝手が良さそうだな。あとで、乞食でもさらってきて、威力を確かめるとするかな。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

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