第10章 弘治三年三浦三崎の戦い
弘治三年(1557年)10月上旬 相模国三崎城(神奈川県三浦市三崎)
俺が七隻の南蛮船を率いて三崎城へ赴くと、既に北条軍の兵船四十余隻が三崎湾に集結していた。なお、今回の海戦の総大将は北条氏政で、実際に兵船を率いるのは梶原備前守景宗、梶原兵部少輔、北見刑部丞時忠、山木信濃守常住、古尾谷中務少輔重長、三浦五郎左衛門茂信、三富源左衛門等ね。ちなみに、里見軍の総大将は里見義弘で、水軍の戦力は八十余隻だそうだ。北条水軍は、里見水軍の半数強の戦力だけど大丈夫か?それとも、余程俺の率いる南蛮船艦隊を当てにしているということなのか?
氏政たちは、江戸湾及び三浦水道の制海権を確保する方法について、ひたすら議論を繰り返していた。
ある者は、里見水軍の本拠地である勝山城(千葉県鋸南町)を急襲するのはどうかと言い、またある者は敵を三崎湾におびき寄せて戦うのが良いと主張するなど、北条水軍の方針はいつまで経っても全く決まらない有様であった。
(相変わらず、氏政は会議をまとめるのが下手だな)
と、俺は思うが口出しはしない。変なことを言って、氏政の機嫌を損ねるのも嫌だからね。
そんな訳で、俺は部屋の目立たないところに座り、脳内で怨霊気象衛星画像を眺めて天気予報を始めるのであった。
えーと、今は移動性高気圧が日本の東に抜けて、天気は西から下り坂になるといったところか。東に高気圧、西に低気圧があるということは、日本付近は今後南東風が卓越することになるが、それは里見水軍が戦いに有利な風上を押さえるということになるのかな。
もし、里見義弘が氏政の優柔不断な性格を知っていたならば、どういう手を打つだろうか。
北条水軍の方針が定まる前に、奇襲攻撃をかけるのではないだろうか。であれば、風上を押さえているこの好機を里見が見逃すはずあるまい、というか俺たちは大ピンチではないか。
そこで、怨霊神業盛に敵軍の探知を頼んでみたのだが、
「七里(約27㎞)先の敵の探知など、長尾景虎ぐらいしかできまい」
なんてことを言われてしまった。
まあ、怨霊神には引き続き敵の動きを探ってもらうことにして、俺は正木時忠に南蛮船七隻を出撃可能な状態にしておくよう命じるとともに、氏政には里見水軍の奇襲攻撃に注意すべきと進言することにしたのであった。
ここで南東風についてひとこと。
本来、風は高気圧から低気圧に向かって吹くので、東に高気圧、西に低気圧がある場合は東風が吹くはずだが、北半球では物体の進行方向に向かって右へコリオリの力が働くので、東風が南東風になるよ。
発言の許可はすぐ下りたので、早速俺の懸念するところを諸将に説明することにした。
「恐れながら申し上げます。これから、南東の風が強まることが予想されますが、里見水軍はその風に乗って三崎城まで一気に攻め寄せてくる可能性が考えられます。里見水軍に三崎湾の東西の出入り口を押さえられると北条水軍は袋のネズミになってしまうので、今のうちに船を湾の外に出して里見水軍を待ち受けるのはいかがでしょうか」
すると、氏政は『これから南東風が強まるのはまことか?』などと周囲の者に確認していた。
(おいおい、氏政は気象も分からずに海戦やろうとしていたのかよ。北条水軍大丈夫か)
と俺は思ったが、出しゃばって目立つのは避けたいので、後の判断は氏政に任せることにした。
しばらく、『あーでもない、こーでもない』と議論を続けていたが、俺の言った通りに南東風が強まったのを確認すると、訓練にもなることだし、一度兵船を湾外に出して横陣を敷いてみよう、ということになった。
「もし、里見水軍が攻め寄せてきたならば、氏業率いる南蛮船艦隊は敵旗艦を攻撃するように」
と氏政が言うので、俺は
「上手廻し(タッキング)にて敵艦隊の風上に抜けたら、反転・増速して衝角による体当たり攻撃を行い、見事敵旗艦を沈めてご覧に入れましょう」
と、答えるのであった。
「ふん、おぬしが口だけの男でないことを願うぞ」
なんて氏政に嫌味を言われるが、俺は気にしないぞ。
そうこうしていると、怨霊神業盛から三崎湾に向かって急速接近する船団を探知したとの報告を受けた。俺は、氏政に『例の異能の力で敵艦隊接近の情報を得た』ことを伝えると、さすがに事の重大さを認識したのか、氏政はすぐさま北条水軍の出撃を命じたのであった。
まもなく、三崎城の見張りからも、『里見水軍八十余隻とその後方に巨大な安宅船を確認』との報告を受けた。諸将は出撃に手間取っているようだが、俺はあらかじめ正木時忠に準備させておいたので、すぐさま湾外に出て、里見水軍を待ち受けるのであった。
◇里見義弘視点◇
昨年の横浜港の戦いでは不覚を取ったが、今回は北条水軍の二倍の戦力で、しかも敵の総大将はあの優柔不断な北条氏政である。負ける要素は全く見当たらないが、一つ気がかりなのは、南蛮船の情報がほとんど得られなかったことだ。里見家の間者は敵の忍びに捕らえられているし、横浜周辺に出撃させた里見水軍は、敵の火炎瓶攻撃で逃げ帰る有様であったからな。
だが、南蛮船には大安宅船で対応することにした。いくら南蛮船であっても、この武器と兵を満載した長さ三十間(約55メートル)を超える巨大戦艦にはかなうまい。それに、火炎瓶の製造にも成功したしな。火炎瓶の中身が、最近普及し始めた石油ランプの燃料と分かったのは僥倖であった。
北条家との戦いでは、散々火炎瓶に苦しめられてきたからな。今までの借りを倍にして返してやろう。
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