南蛮船を作ろう その1
さて、お祭り騒ぎもひと段落ついたことだし、南蛮船の建造に取り掛かるとするか。
そこで、水軍の取りまとめに実績のある正木時忠を呼び、氏康から南蛮船の建造を命じられたことと、時忠には造船奉行として南蛮船建造の陣頭指揮に立ってもらいたいことを伝えた。『俺もできる限り手伝うから、造船奉行を引き受けてほしい』と時忠に伝えると、
「正直、前例の無いことなので自信はありませんが、主命とあらば命に代えてでも南蛮船を作り上げてご覧に入れましょう」
と、一見無茶とも思える仕事を、時忠は引き受けてくれたのであった。そこで、俺は時忠の知行を五十貫加増した上で、南蛮船建造に成功したらさらに百貫加増することで、時忠の労に報いることにしたよ。まあ、今回は設計図に加えて模型も作ることだし、命を懸けなくても大丈夫じゃないかな。そうそう、時忠には南蛮船を操る水夫も集めて欲しいとお願いしたのだが、これは里見水軍から引き抜くことにしたのだそうだ。まあ、引き抜きが成功すれば里見家の戦力も弱まるし、北条家に良からぬ思いを抱いている(埋伏の毒)かどうかは、怨霊神業盛に探らせれば分かることかな・・・。
そんな訳で、早速の南蛮船建造である。俺は屋敷で設計図を描いたり模型を作ったりしながら、時忠には長さ十二間(約22メートル)の船を組み立てるための台座や滑車を用意するよう指示した。
設計図や模型が完成し、氏康が手配していた船大工や造船用資材が横浜に到着すると、俺たちは力を合わせて南蛮船の建造を始めるのであった。和船と特に違うのは、やはり竜骨の存在であろうか。南蛮船の場合、竜骨とそこから垂直(左右方向)に伸びる肋材を長くすれば容易に巨大化できるという点が、和船との大きな違いと言うべきではないかな。
船大工たちは、日本初の国産南蛮船に興味津々で、設計図を模写したり、肋材のカーブに合うように曲げた竹を作るなどして、少しでも新技術を取り入れようと努力しているようであった。
ちなみに、南蛮船を作り始めると多くの間者が入り込んできたのだが、菖蒲が集めた忍びや氏康の命を受けた風魔の忍びに捕らえられて、鉱山送りにされたそうだ。あと、里見水軍も横浜沖に現れていたが、北条水軍に火炎瓶を投げつけられて逃げ帰ったようだよ。
そんな感じで100日後、ついに2本マストのスクーナー船(君沢型)が完成したのであった。ちなみに、全長25メートル、最大幅7メートルで50人乗りね。
俺と時忠と孫蔵・弥左衛門・平八郎は、時忠が集めた水夫たちと一緒に試験運航がてら小田原に向かい、氏康に南蛮船が完成したことを報告した。すると、氏康は、氏政や重臣たちを連れて小田原の海岸近くまで出てきたのだが、南蛮船を見ると
「ほー、これが南蛮船か。初めて見たが、日ノ本の船より頑丈なのだそうだな」
と、俺に聞いてきたので、『おっしゃる通りです』と答え、竜骨など南蛮船特有の構造について説明した。ついでに、船首水線下に取り付けた衝角を示して、外部からの衝撃に弱い和船に対する体当たり攻撃を提案すると、
「ふむ、それは凄いな。おぬしは陸戦だけでなく、海戦でも新戦法を編み出すというのか」
と言って、時忠や水夫たちに船の操作性や速度、船体の強度等について質問し、和船より性能が良いことを確認すると、俺に追加で6隻の南蛮船建造を命じたのであった。ちなみに、その内の2隻は俺にくれるというので、ありがたく貰っておくことにしたよ。
◇北条氏康の見解◇
氏業の作った南蛮船を見たが、正木時忠や水夫たちによると、既存の和船より高速で、ずっと頑丈なのだそうだ。時忠たちが『この船であれば、天竺でも南蛮でも何処へでも行くことができるでしょう』などと話しているのを聞くと、子供の頃に封印した夢が再びよみがえってきた。そう、この海の向こうに何があるのか、この目で確かめたいという夢が。
もちろん、全てを放り出して海外に行くことなど許されないことはわかっておるぞ。
だが、日ノ本が統一されて戦が無くなれば、海外に行くことが普通になるのであろうか。
いつか、わしも海外に行ってみたいのう。
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