青銅砲と不穏な噂
山科言継との会談も無事に終わり横浜城へと戻った俺は、早速商人にランビキと長尾景虎への進物を注文した。景虎の好むものと言えば、やはり酒であろうか。戦場でも飲みまくっていたらしいからね。であれば、蒸留酒を大量に持っていくのが良いかな。
藤殿や家臣団に官位や越後行きの事を伝えると、藤殿は我が事のように喜んでくれた。朝廷ですら一目置く俺のことが誇らしいのだそうだ。
一方、家臣たちはというと、俺が氏康に振り回されて城を不在にするのは織り込み済みのようで、『領地運営についてきちんと指示を出してから、越後に行って下さい』なんて言われてしまった。
とりあえず、入り江の干拓は来春までに終わらせるとして、常備兵を350人(箕輪城から連れてきた50人+横浜で集めた300人)まで増やして、そいつらには火縄銃・投石機・青銅砲の操作方法を完璧に覚えてもらうことにしよう。そのためにも、鍛冶職人の守重には頑張ってもらわんといかんな。
ということで、守重兄弟の鍛冶工房に顔を出してみると、正に青銅砲が完成したところであった。日本では、弥生時代に銅鐸を作れたのだから、大砲の鋳型さえあれば、戦国時代の鍛冶職人が青銅砲を作ったって問題ないよね・・・。
ちなみに、大砲の砲腔は、中子を用いて作った下穴を、鋼の錐(いわゆるドリルの刃)でさらに削って仕上げたそうだ。動力には水車を用いたのだが、今回は鋼の錐ではなく大砲の方を回転させて、まっすぐな穴を開けたんだって(日本では、平安時代には既に水車が利用されているよ)。『とても大変でした』と守重が言っていたから、あとでボ-ナスをやらんといかんな・・・。
突然だが、俺は他の転生ものによくある、優秀な職人に大雑把な作り方を説明したらなんとなく出来たというのは避けたいと思っている。依頼人ですらまともに説明できない物を、それ以上に知識のない職人が作れるとは思えないんだよね。という訳で、旋盤加工技術(ブローチ盤)や超硬合金(炭化タングステン)入手の目処が付いてから、青銅砲や火縄銃にライフリングを刻むことにするよ。とにかく今は、質より量で勝負だね。
とりあえず、今回作った前装式の青銅砲は、15kgの弾丸を2千メートル以上飛ばせるよう設計している。ライフリングはないけれど、敵の射程外から城門を吹き飛ばすことなど造作もないはずだ・・・?あれ、思った以上にやばいものを作ってしまった気がするぞ。
今の時代(1556年)であれば、大量の火薬と弾丸さえ用意できれば、落ちない城などなくなってしまうではないか。しかも、間者が多数入り込んでいると思われる横浜城の城壁の上に青銅砲を並べて軍事訓練をすれば、他国に情報は洩れるし、なにより氏康が黙っているはずがない。上杉家に寝返る可能性のある俺は、氏康にとって危険な存在といえる。俺が氏康であれば、俺から情報を取れるだけ取ったら、さっさと暗殺して不安要素を払拭するね。
うん、青銅砲はしばらく作り溜めておいて、時代の趨勢が明らかになってから公開することにしよう。試射して大砲の強度を確認できないのは残念だが、知らないうちに危険視されて、いつの間にか消されていたというよりは良いんじゃないかな。
火器はこれくらいにして、あとは干拓地の田畑に植える作物であるが、数年後に起こる永禄の飢饉に備えて、ヒエを取り入れてみようかな。そうそう、三河で入手した綿花も栽培しないといかんな。
そんな感じで過ごしていたら、あっという間に正月である。ついに俺も十四歳か。
俺、藤殿、菖蒲といつもの三人は、年賀の挨拶で小田原城に向かったのだが、そこで不穏な噂を耳にすることになるのであった。
◇武田晴信と小幡信貞◇
晴信は、西上州侵攻作戦を開始するため、別室に信貞を呼び出した。
「信貞よ、おぬしはこれから上信国境の山賊を手懐け、碓氷・群馬・吾妻郡の村々を荒らして回れ。西上州の兵が出てきたら、戦わずに逃げよ。それを繰り返して、上州を疲弊させるのじゃ。そして、農繁期になったら、山賊集団を率いて西上州に攻め込め。目的は上州を混乱させることだが、箕輪城を落としてしまっても構わん。おぬしが西上州に攻め込む直前に、宇都宮・佐竹・里見を蜂起させる予定だ。西上州まで手が回らなくなった氏康が武田家に助けを求めてきたならば、晴れて堂々と西上州を占領できるというものじゃ。それと、甘楽郡(小幡領)には手出しをするでないぞ。小幡家は武田家と通じていると噂を流し、小幡家を孤立させるのだ。北条家に居づらくなった小幡家は、自ら武田家に助けを求めてくるであろうな。信貞よ、おぬしには信州佐久(長野県佐久市)に三百貫の領地を与える。西上州が武田家の領地となった暁には、小幡領に加えて西上州武士団のまとめ役の地位も与えよう。あとは・・・、この南蛮甲冑と鉄仮面はわしからの贈り物じゃ。では、励めよ」
「ははっ、ありがたき幸せにございます。言うことを聞かぬ山賊は、怨霊の力でねじ伏せて御覧に入れましょう」
「佐久で支度せよ。それまでは口外するな」
「心得ましてございまする」
弘治三年(1557年)1月 相模国小田原城
小田原城にやってきた俺たちが耳にしたのは、小幡家が武田家に通じているという噂であった。実際、上州ではかなり広まっていて、山賊被害の大きい碓氷郡や群馬郡、吾妻郡の小領主たちに動揺が見られるようだ。安中忠政(安中城主)・忠成(松井田城主)親子などは、小幡家に対してかなり不信感を募らせているらしい。
しかも、小幡信貞が佐久(長野県佐久市)に領地を得て、小幡領に山賊被害が全く無いという事実が、余計に不信感を強めているようだ。
今回は、憲重義兄上が直々に小田原まで来て釈明に回り、方々で信貞は既に廃嫡して当家とは関係ないと訴えているそうだ。そして、北条家に対しては、長野家と同様に嫡男(信貞の弟信重)を小田原城に出仕させるという結論に至ったのだそうだ。まあ、体のいい人質ということだね。
・・・あれ、小田原城に来ている俺って人質だったのか?そのことについて孫蔵たちに聞くと、『何を今さら』という反応をされる。そういえば、俺が小田原に来るのと同時に、長野家の人質が箕輪城に戻っていたかな。あれは、俺との交換だったのか・・・。
まあ良い。同じ境遇の小幡信重とは仲良くするとしよう。あとは、父業政と今後について打ち合わせをする必要があるな。でも氏康が目を光らせている前で変な動きはできないし、どうしたものかな・・・。
その他、下総・常陸・下野の一向門徒が、武器・兵糧を集めて不穏な動きをしているとのこと。とりあえず、この件については、武田晴信を介して本願寺に動きを抑えるよう働きかけることにしたのだそうだ。なにしろ、北条家と本願寺の不仲は有名だからね(北条領内では、一向宗が禁制となっている)。
正月に気になった話題は、こんなもんかな。
氏康への年賀の挨拶も無事に終わり、横浜城に戻った俺は、とり急ぎ越後行きの下準備に取り掛かることにした。城主代理は、相良行きの時と同様に藤殿にやってもらうとして、軍事訓練では、常備兵全員に槍・シャベル・クロスボウ(弓矢)・火縄銃・投石機の扱い方を叩き込んでもらい、ついでに火縄銃の三段撃ちも練習させることにしよう。そして、守重たち鍛冶職人には、火縄銃を量産させるのと同時に、秘密裏に青銅砲も作らせることにするかな。
そうこうしているうちに、西高東低の冬型の気圧配置も弱まり、関東地方には温帯低気圧と移動性高気圧が交互に訪れるようになっていった。
春はすぐそこである。
第六章 完
武田晴信が小幡信貞に与えた南蛮甲冑と鉄仮面ですが、信貞の顔を隠して目立った格好をさせたかっただけです。それ以上の意味はないです。




