躑躅が崎館訪問
相良での仕事は一段落つき、木綿紐と綿花の種も大量に入手できた俺たちは、取り急ぎ駿府に戻り、義元に暇乞いの挨拶をしてから甲斐へ向かうことにした。とりあえず、義元には簡易石油ランプを渡し、横浜村に戻ってガラス製の火屋を取り付けた完成品ができたら、改めてそれを贈ることも伝えておいた。
一方、氏真は歴史や書物についてまだまだ語り足りないというので、今後は俺と文のやり取りをすることになった。氏真は、これからの計画の鍵となる人物である。この縁は、大事にしないといかんな。
ついでに、北条氏規経由で氏康にも簡易石油ランプと今までの経緯を綴った手紙を送っておいた。やはり、報・連・相は重要だからね。横浜に戻ったら石油ランプの製作を始めることも記しておいたから、氏康であれば俺のやりやすいように準備をしてくれるはずだ。
というか、氏康の意向で臭水採掘を始めたのだから、それくらい配慮してくれないと困るよ、本当に。
さて、駿府でやるべきことは終わったので、俺といつもの三人は駿州往還(河内路)を通って躑躅が崎館(甲府)へと向かう。
特に連絡もしていなかったので、古府中に入ったあたりで武田家の使者が待っていたのには驚いたが、その使者が小幡信貞であったのはさらなる驚きであった。
「叔父上殿、国峰城にて一別以来、久しくご無沙汰いたし候」
「いや、何故信貞殿がここに居るのですか」
俺の問いに対し、信貞は
「小幡家を出奔し、武田家に仕えただけのこと」
と答えた。
「そんなことより、御屋形様(武田晴信)がお待ちである。速やかに、躑躅が崎館へ参られよ」
こう言って、信貞は俺を晴信の下へと案内する。
一方、俺は想定外の事態に混乱していた。
本来であれば、小幡憲重・信貞親子は永禄二年(1559年)5月に、小幡景定の手により国峰城を追放され、武田家に身を寄せるはずなのだが、信貞は自ら小幡家を出奔し、武田家に仕えてしまった。
歴史は、悪い方に変わってしまったのだろうか。
ただ、憲重との関係は今のところ良好なので、小幡家千騎が長野家に味方してくれるのであれば、信貞ひとりが敵になったところで大したことはないのかな、と思ったりもした。
とりあえず、今は信貞よりも武田晴信である。
俺に興味があるようだが、一体何を言ってくることやら。
そうこうしているうちに躑躅が崎館へ到着したのだが、俺はあまりのことに啞然としてしまった。
躑躅が崎館を包むように、黒い炎がうっすらと見える、のである。
すごく、嫌な感じがするなあ。そんなことを考えていると、突然怨霊神業盛が話しかけてきた。
「氏業よ、躑躅が崎館は怨霊の力で満ちておるぞ。武田軍団の強さの秘密は、これであったのだな」
へー、怨霊の悪しき力で軍隊を強化しているわけだ。これじゃあ、武田家には期待できないな、などと思いつつ、武田晴信に拝謁するため館内の大広間へと向かった。
弘治二年(1556年)8月 甲斐国古府中 躑躅が崎館
俺が大広間に案内されてしばらくすると、武田晴信が現れ、上座に座った。
「氏業、よう来た」
晴信が俺に声を掛ける。
俺は平伏したまま、晴信に挨拶を述べた。
「北条左京大夫氏康が家臣長野新五郎氏業でございます。この度は、武田家にお招きいただき、誠にありがとうございます。これは、進物の石鹸・ガラス製品・干椎茸・蒸留酒です。お納めいただければ幸いにございます」
周囲からは『おぉー』と感嘆の声が上がるが、晴信はそれに目もくれず、俺に向かって『面をあげい』と命じるのであった。
いきなり顔を上げるのはまずいかな、とも思ったが、晴信から会いたいと言ってきたことだし、何よりも面倒くさくなったので、えいやっと顔を上げて晴信の顔を見た。
やたら威厳があって、すげー怖いけど、顔色が悪いね。病弱なのかな。
そして、例の如く背後には黒い炎が燃え上がっていた。
俺を見た晴信は、良いおもちゃを見つけたという感じに、ニヤリと笑った。
「おぬしに躑躅が崎館まで来てもらったのは他でもない。おぬしと、ひとつ英雄談義をしようと思い立ったのでな」
俺は、当惑した感じで、
「私ごときの言葉で満足なさるかどうか、心配にございます」
と、晴信に返事をするが、
「なんの、おぬしはこの数カ月、何人もの英雄豪傑と相対してきたであろう。彼らに会って感じたことを、そのまま述べてくれればよい。まずは、おぬしの父、長野業政殿から話してもらおうか」
などと返されてしまった。
平原君(中国戦国時代の趙の公子で戦国四君の一人)でさえ控えた人物評を俺がするのは気が引けるが、まあ仕方がない。早速、俺は今までに出会った英雄豪傑について話し始めるのであった。
「まずは父業政ですが、私が神から得た知識で石鹸やガラス製品を作りたいと言い出した時、私を狐憑き扱いせずに、人と金を用立てて下さいました。今、私がこうしてここにいるのも、全て父のおかげにございます」
「ふむ、つまり業政殿はいくさに強いだけでなく、産業振興にも秀でている知勇兼備の名将ということか。さすが上州の黄斑と言われるだけのことはあるな」
「二人目の北条氏康様ですが、広大な関東平野を稲穂で埋め尽くして、北条領から飢えを一掃し、あり余る食糧で強兵を養い、北条領を誰も侵略できない平和な土地にするとおっしゃっておりました。高い志を持つだけでなく、その志を実現させるための実力もお持ちの方でございます」
「唐土の孔子も、国家にとって最も大事なものとして軍備・食糧・信を挙げておるからな。食が確保されて強力な軍隊を保持していれば、おのずと信も得られるであろうな」
「三人目は今川義元様です。義元様と言葉を交わしたのはわずかな時間でしたが、分国法を改良することで、同じような裁判において強い者が勝ち、弱い者が負けるといった不公平をなくし、身分の高下や力の有無によるえこひいきの無い裁判の基準を作ろうと努力している様子が伺えました」
「そうだな。領地運営に法は重要だな。ちなみに、わしが甲州法度次第を作った時は、今川仮名目録を参考にさせてもらっているぞ。ところで、今川家中で気になった人物は他にもおるのか」
と、晴信が問うので、
「松平次郎三郎元信殿こそ、一を聞きて十を知る者でございます」
と、回答した。
「松平元信というと、三河の松平か。奴が顔回(孔子の弟子)に匹敵するというのであれば、何かしらの対策を取る必要があるな。ところで、遠州相良では面白い人物に会ったそうじゃの。どれ、その者についても話してくれんか」
「えーと・・・、三郎殿のことでございますか。というか、晴信様は私を監視していたのですか」
と、晴信に尋ねると
「おぬしはわしの客だからな。護衛を派遣して客の安全を確保するのは、主人として当然であろう。そんなことより、早くその三郎について話すがよい」
そう晴信は答えた。
しょうがないので、俺は話しを続けることにした。
「三郎殿ですが、商業を発展させて国を豊かにすることで、強い兵を養いたいと考えておられるようです。そのためにも、金になりそうなものがあれば、自ら足を運んで見て回っているそうです。新しい物や珍しい物がお好きな方にございます」
「そうか、奴は新しい物や珍しい物を好むか。今後、奴が商業に基盤を置いた領地経営をするというのであれば、武田家も今後の方針について考え直さねばならんな。なにしろ、土地は有限であるが、金銀は掘れば掘るだけ増えていくからな。土地に基盤を置くよりも、成長の余地があるということじゃ。そういえば、藤吉郎と言ったかな。三郎の小者を随分と気にかけておったようだが、何故じゃ」
「えー、藤吉郎殿は、なかなかにしたたかな人物にございます」
「ふむ、今川領には面白き人材がそろっておるのう。おぬしの話は実に興味深い物であった。礼を言わせてもらおう」
こんな感じで、英雄談義はひとまず終了した。
これで終わりなのか。俺は帰って良いのか。というか、早く横浜に帰りたい。
そんなことを考えていると、晴信が俺に話しかけてきた。
「おぬしが会ってきた英雄豪傑は、各々の理想を実現すべく、日々努力していることは良くわかった。その上で、おぬし自身はどのように領地を経営していきたいと思っているのか。そのことについて、一つわしに教えてもらえんかの」
うっ、まだ俺に話をしろというのか。
精神的に結構きついものがあるし、俺ばかり話をさせるのは不公平ではないかとも思うが、そもそも大大名のお願いなんて、実質命令と同じだよね。
「わかりました。晴信様の参考になるかは分かりませんが、私の考える領地経営について話しましょう」
そして、俺は自身の思うところを語り始めた。
「私個人としては、我が領地は周囲から尊敬される存在であって欲しいと思っております。例えるならば、孔子の言う『名を正す(子路第十三の三)』でしょうか。その上で、領民には様々な選択肢を提示し、自身の望む人生を送れるようにしたいと考えております」
一応、俺は人々の選択肢が多ければ多いほど良い社会だと定義しているよ(但し、男性の育休のように、制度はあるけど取りにくいものは選択肢と認めない)。
一方、俺の考えを聞いた晴信は、不機嫌な様子を隠すことなく俺に語り始めた。
「農業や商業の振興で領地を豊かにするのでも、法や軍隊で民を上から押さえつけるのでもなく、領民一人ひとりの意識を向上させることで、秩序ある安定した領地にしたいということか。しかも、領民に様々な選択肢を提示するだと。お前は民の解放者にでもなるつもりか。それに、民の道徳心で社会の秩序を保てるようにするためには、いったいどれほどの金と歳月を費やせばよいか、見当もつかぬわ。子路(孔子の弟子)ではないが、悠長すぎると言わざるを得んな。そんなことで社会が安定するのであれば、戦乱の世が百年も続くものか。そもそも、わしは人間の道徳心なんぞに期待などしておらぬ。わしであれば、圧倒的な武力で全てを屈服させ、日ノ本から戦乱を一掃することを考えるぞ。それは現にわしが行っていることでもあるが、もしこの世から戦乱を無くすことができるのであれば、わしは自身の命すら惜しくはないし、どんなことでもして見せようぞ」
そして、晴信の背後に見える黒炎が、ものすごい勢いで燃え上がった。
この晴信の言葉には、嘘偽りのない強い意志を感じた。
武田晴信は、日ノ本から戦乱を一掃することが一番重要と考えているのか。
いわゆる軍国主義とも言えるが、圧倒的な軍事力を得るためであれば、自身の命を怨霊に差し出すのも厭わないということか。さすが武田家第19代当主。潔くてカッコいいね。
まあ、晴信に現実を顧みない理想主義者と思われるのも嫌なので、俺は再び話し始めた。
「もちろん、それが現実的でないことは、私も重々承知しております。人間社会は、我々が思っている以上に壊れやすいもので、歴代の聖主・賢臣が、まつりごとを立てたり、教を立てたり、刑罰法制を定めたり、礼法を設けたり、やかましくうるさく世話を焼いて、ようやく成り立つものだということも分かっております。であれば、農業や商業を発展させることで人々の暮らしを豊かにしつつ、法や強力な軍隊で社会秩序を維持し、その上で現に世の中を動かしている人々が真に望むことを一つひとつ実現していく(退職者や子供よりも、実際に働いて税金を納めている人々の意見を重視する)のが良いと、私は考えております。今の世を動かしているのは武士となりますが、武士の望みといえば、先祖代々受け継いだ土地を、子孫に伝えることでしょうか。国を平和にし民を救うことと、公正な裁判を確立して押領を無くすことが『時代の要請』となりますが、時代の要請はその名の通り、時代によって変わります。数百年先になるかもしれませんが、尊敬される国、選択肢の多い社会にすることが、時代の要請になることもあるでしょう」
それを聞いた晴信は、しばし黙考した後、徐に口を開き、俺にこう言った。
「ただの理想主義者に用はないが、現実をわきまえているのであれば問題ない。氏業よ、武田家に来い。わしと共に戦い、戦乱の世に終止符を打とうではないか」
周囲がざわめき、信貞は信じられないといった表情を見せる。
一方、俺も晴信の爆弾発言に動揺を隠せなかった。
これって、返答次第で首が飛ぶよね。俺はまだ死ぬわけにはいかん。ここは、これしかないか。
「いやー、晴信様はご冗談がお上手ですね」
どうだ、この返事で良かったのか。
すると、晴信は
「ははは、冗談だ。許せ」
と答えた。周囲もほっと胸をなでおろしているのがわかるぞ。
晴信が、今回のお礼に碁石金をくれるというので、ありがたく頂戴することにした。これで、さらに多くの火縄銃を揃えてやるぜ。
ついでに、息子たちにも会っていけといわれて、武田太郎義信や諏訪四郎勝頼を紹介された。
義信には、『父上を目の前にして、萎縮せずによく自分の意見を述べることができるな。素晴らしい』などと、妙に感心されてしまった。やはり、今川氏真とは従兄弟同士だけあって、同じ秀才タイプでよく似ているね。
一方、勝頼は陰気な感じで目が死んでいた。怨霊に憑りつかれているのではないかな。
何はともあれ、これにて任務完了である。
これでやっと帰れる、なんてことを思っていると、これから書く手紙を氏康に届けるよう、晴信に頼まれてしまった。まあ、英雄談義に比べれば楽な仕事である。二つ返事でOKした。
こうして、二カ月に及ぶ俺の長い旅が終わったのであった。
◇武田晴信と小幡信貞◇
「信貞よ、おぬしの叔父である氏業のことをどう思う。奴の話を聞いて何を感じたか、わしに話してみよ」
「恐れながら申し上げます。氏業殿は、良く人を知り、人と交流することが上手な人物であると感じました。昔から非凡なところはありましたが、益々その能力に磨きがかかっている様に思われます。あのような優秀な人物と血縁関係にあるのは、私にとっても誇りにございます」
「そんなことが聞きたいのではない。おぬしが氏業に強い劣等感を抱いているのは、傍から見てもすぐにわかった。おぬしの心の底からの思いを、わしに話してくれんか」
信貞は少し躊躇した後に、覚悟を決めて晴信に話し始めた。
「私は、氏業が憎うございます。私にできないことを次々と成し遂げ、いくさも強く、大大名たちも奴に一目置いております。氏業を見ていると、負の感情が自身から湧き出てくるのを押さえられません。そして、そんなことを考えてしまう矮小な自身も、情けなく思います」
信貞の瞳からは、涙が溢れ出ていた。
「信貞よ、言いにくいことをよくぞわしに打ち明けてくれた。氏業は確かに優秀かもしれんが、それが怨霊の力によるものだとしたら、おぬしはどう思う」
「えっ、つまり奴はズルをしていたということですか。だとしたら、許せん・・・」
信貞の負の感情が高まるのを見た晴信は、信貞に一つの提案をするのであった。
「もし、怨霊の力を得ることができるとしたら、おぬしはそれを望むか。それが、自身の命を削ることになるとしても・・・」
すると、信貞は間髪をいれず『力が欲しい』と即答するのであった。
晴信は、信貞の前に黒炎の塊を出現させた。
「信貞よ、これは怨霊の種である。これを受け入れれば多大な力を得られるが、代償として生命力を吸い取られ、わしにも絶対服従となる。今ならまだ引き返せるが・・・」
晴信の話が終わるのを待たずに、信貞は怨霊の種を受け入れていた。
「ぐふっ、これが怨霊の力?おおっ、身体中に力がみなぎるぞ。そして、これが怨霊の種か」
そう言って、信貞は手のひらの上に黒炎の塊を出して見せた。
「御屋形様、これを人に植え付ければ、他人を意のままに操れるということですね」
信貞の問いに対し、
「まあそういうことだが、人だけでなく動物にも有効であるぞ。自身より弱い者に使うがよい」
おそらく、自身より強い者は操れないし、怨霊の種も弾かれるであろうが、わしより強い者は先ずいないから良くわからんな、と晴信は思ったりもした。
一方、信貞は歓喜に震えていた。
この力があれば、憎き氏業とも対等以上に渡り合えるであろう。
「ズルをして得た名声など、この俺が地に落としてくれよう」
怨霊の悪しき力を利用した者の末路は、破滅のみ。
人外の力を得て無邪気に喜ぶ信貞を見ると哀れとも思うが、そもそも『この世から戦乱を無くすためならば何でもしよう』と心に決めた時から、わしは人間を止めていたのだったな、と晴信は思い返した。
「信貞、わしはこれから上州を平定するぞ。おぬしは、その怨霊の力で上州を大混乱に陥れるのじゃ」
「ははっ、御屋形様のご期待に見事応えて見せましょうぞ」
第五章 完
怨霊の力についてのおさらい
怨霊(日本の最高神)の力を行使するためには二通りの方法があります。
一つは、人々に平和をもたらすことで生じた民の感謝の念が聖者に神の力を与えるというもので、これは代償無しで力を行使できます(例:主人公、北条氏康、織田信長)。ただし、人道に反する行為をすると、力は失われます(例:今川義元)。
もう一つは、私利私欲に従って世の中を滅茶苦茶にすればするほど、それを成した者に力がもたらされますが、その者の生命力は吸い取られ、やがて死ぬか怨霊化します。武田晴信や小幡信貞の力の行使には制限がかかっています。
なお、小幡信貞は嫉妬や妬みといった負の感情が飛びぬけて強いので、怨霊の力を行使できるという設定になっています。
ストックが少なくなりましたので、しばらく更新はお休みとさせていただきます。
申し訳ありません。




