8話 死神と、僕
「……海の匂いだ」
僕は改めて深呼吸をする。
肺いっぱいに潮の香りが充満して、だけど、空気が冷たいからか、咽せてしまった。
『ゆきちゃん、大丈夫? でも、潮の香りっていいねぇ』
「そうだね。でも風が冷たいぃ」
手をこすり合わせる梶君に、僕は駅前の売店で素早く肉まんを購入、それを手渡した。
「お! 肉まん、あったかーい。ゆきちゃん、ありがとう」
『あたしの分は?』
「ヴィオは、あんまん。甘い方がいいかなって思って」
『わかってるじゃーん』
僕らは熱い熱いといいながらも頬張りつつ、看板を辿って海を目指す。
まずは見晴らしの良い岬に行くことにした。
駅を出ると、矢印がついた看板が目に入る。
そこには、【絆岬はこちら】と書いてある。
「わぁ……昔、来たときと同じだ」
僕の声に梶君が笑う。
「オレもそれ思ったし」
『ね、早く岬に行こ! 海、眺めたーいっ』
ナナカマドの並木道を過ぎていくと、芝生が広がる。小さな公園になっているようだ。
公園の入り口に、もう一つ大きな看板がある。
【遊歩道はこちら】【サイクリングコースはこちら】【絆岬はこちら】と並んでいる。
「ゆきちゃん、ここいいねぇ。なんか、昔より整備されてて、楽しめそう」
「だよね。夏に来たいね」
『あたしも夏がいい!』
思わず僕の足が止まる。普通の話が、今、どれだけ似合わないか。
後頭部を鈍器で殴られたような、ずしんとくる痛みが体を走っていく。
「ゆきちゃん、なんかあった?」
「いや、なんでもない」
梶君は気にしないフリをしているのか、気づいていないのか、わからない。
でも、言葉にしないでくれるだけで救われる。
歩き出した道は黄色い土が敷き詰められて、革靴でも歩きやすい。
「ここさ、歩きやすいけど、オレのシューズ、土で真っ白じゃん」
「そうだね。でも、こうやって歩くのも悪くないかな」
だんだん波の音がはっきりと聞こえてくる。晴れた天気のおかげで波の動きもよく見えて、延々と広がる波が薄い秋の空と重なる。
「綺麗だな……」
遠くに視野を広げると、岩場の辺りが青緑色に染まって、そのグラデーションがまた綺麗で、だけれど、見れば見るほど、それがずしんと頭を揺らしてくる。
もう、この景色を、みんなで見れないんだ────
「どしたの、ゆきちゃん?」
冷たい頬を隠すように、冷えた肉まんを一気に頬張ると、
「みんなと来れてよかった」
どうにか笑えた。
笑えないとって思っていたから、よかった。
僕は、今の時間が嬉しいから、笑いたい。
『ゆきちゃん、あっちにフォトスポットあるよ! ちょっと小高い崖になってる。見に行こう!』
ヴィオは自分のテンションそのままに話してくる。それが僕には有難い。でも、僕の首に腕を回して、全体重を乗せてくるのはいただけない。いくら重さがないとはいえ、なんとなく、重い。視覚的なものかもしれないけれど、ほんのりと重い。それに、あったかい感じも。
「やっぱ、重い……」
つい口に出すと、体重を気にする女子のよう。頭を叩かれてしまった。
『重いって言わないでよ! 気のせいだし! ね、ね、ゆきちゃんとトラちゃんとあたしで、写真、撮れたりするかなぁ?』
ヴィオに引っ張られるように歩きながら、三人の写真を想像する。
「んー、死神写ったら、それこそ、心霊写真じゃないの? あ、梶君?」
急に屈んだ梶君に僕が声をかけると、梶君はひょいと手を振る。
「先、行ってて。紐ほどけた」
梶君は芝生に入り、結び直すと、ついでにシューズの土を落としている。
僕とヴィオは、絆岬の由来が載った石碑を読み、さらにフォトスポットにつながる丘を登っていく。
なだらかな道を縁取るように芝生が広がるけれど、秋も深いからか、枯葉も目立つ。
途中、花束が目に入った。
すぐそばの小さなお堂に、お地蔵さんが佇んでいる。
『……え、臭い……うそっ!』
「ゆきちゃん……ッ!」
梶君が叫んだと同時に、僕は芝生側に吹っ飛ばされた。
見ると、梶君は何かから身を守るように、顔を背けながら両腕を掲げる。
『間に合えっ!』
ヴィオはあの大きな草刈り鎌を抜き、横一文字に振り抜いた。
梶君の前の空間を切ったヴィオは鼻を引きつかせて、臭いが消えたのを確認している。
駆け寄る僕に、芝生に寝転がった梶君は、薄く笑う。
「ドジったわ……オレ、ひっかかれちゃった……」
『……間に、合わなかった、の……?』
ぺたんと地面に座り込んだヴィオと、土気色の顔の梶君を、僕は交互に見る。
息ができない。後悔しかできない……。
やり場のない気持ちが声になる。
「……だ、ダメじゃん。やっぱり、ダメじゃん! 僕が張り切ったから……梶君の名前を呼んじゃったから……ダメじゃん!……僕のせいだ。僕のせい。……やっぱり僕が独りでどこかに隠れていればよかったんだ。それ」
「ゆきちゃん!」
梶君の声が張り上がる。
「自分のせいにすれば楽だろうけど、それを足枷にして生きるのは、生きることの言い訳だ。迷惑だ」
「……でも、だって! だってさ!」
梶君の手が僕の手を握る。
「いいんだよ……。オレが、……しただけだから」
「だめだよ。だって、僕、あと二時間もしないで死んじゃうんだよ……?」
「なら、あの世で寂しく、ない、じゃん……んっ、うっ、おぇ……」
梶君は勢いよく起き上がり、吐いた。どさりと再び地面に寝そべり、腕で顔を覆う。
「……オレ、死ぬの、ヴィオちゃん……」
『死なせない』
ヴィオは寝そべる梶君の横につくと、自身のローブから、あの短い真っ黒なキャンドルを取り出した。
青い炎を梶君の心臓に傾ける。
すぐに炎が吸い寄せられていく。
キャンドルから黒い煤がのぼっていくと同時に、太く短いキャンドルがどんどん縮んでいく。
もう一センチ程度となったとき、青い炎がひと際強く燃えあがった。
瞬間、梶君の全身が青く光る。
光がじんわりと落ち着いていくと、梶君の血の気が戻ってきた。荒々しかった呼吸もゆっくりした呼吸になり、ヴィオがほっと笑う。
「か、梶君、どう?」
「体が、軽くなった……なにこれ?」
「よかった。彼女が呪いを燃やしたみたい」
「まじ? ヴィオちゃん、ありがと。……ちょ、落ち着くまでちょっと寝るわ……」
僕は梶君にハンカチを手渡してから横を見る。
ヴィオがいない。
さらに振り返ると、すぐ近くの崖の柵の上で浮いていた。
僕の足音を聞いてか、ヴィオが振り返る。
その手には、さっきの短いキャンドルがある。大事そうに小さな両手で抱えている。
「あの、梶君が、ありがとって」
『よかった。……ゆきちゃん、あのね、』
「なに?」
『もう、時間みたい』
「……そっか。ちょっと早いね」
『やりたいこと、ない?』
「……うん。……うん、大丈夫。今日でもう十分。ありがと」
『……ウソつき』
ヴィオは、自身の手元のキャンドルを突き出した。
『短いキャンドル、ダサいからあげるね』
そう言って僕の心臓にかざすと、引き寄せられるように僕のキャンドルが現れた。
いや、もうキャンドルとは言えない。皿のなかに残ったロウを、細い芯がちりちりと燃やしている。
それが黒いキャンドルの炎を吸い寄せた。
すぐに三〇センチ程の白いキャンドルに変化し、僕の中に戻ってくる。
「……なに、これ……」
『死神の寿命は濃縮タイプだから、それでも八〇年ぐらいはあるよ。長生きするんだよ、ゆきちゃん』
「……え、……」
僕はヴィオの体が透けていることに気づいた。
彼女は海の煌めきのようにチラチラと輝く自身を眺めて、笑っている。
『ゆきちゃん、海まで連れてきてくれて、ありがとう。すっごくキレイだねぇ。来れてよかったぁ……』
触れない手を握ろうと、僕は必死に腕を伸ばすけど、腕すら伸ばしてくれない。
海を眺める彼女の背中に、僕は叫んだ。
「ヴィ……ス、スミレ!」
僕の声に振り返る。
『なあに、ゆきちゃん?』
笑顔で細くなる目。髪の毛も、肌の色も違うけど、笑顔だけは変わっていなかったのに。
僕は本当に鈍感で、気が利かなくて……。
『ゆきちゃんは優しくて、芯があって、カッコいいんだよ?』
僕の心を見透かしたように、消えかけのスミレが言う。
「や、やだよ、スミレ……僕が死ぬまでそばにいるんでしょ? 行かないでよ……行かないでって! スミレ、そばにいてよ! もっと一緒に」
『ゆきちゃん、今日、楽しかっ……。…………っ』
優しい笑顔を浮かべて、スミレの唇が揺れた。
聞こえた言葉に、僕の胸が、すごく痛い。
軽くなった肩を抱えて、僕は地面に丸まった。