それは林檎のような味がした
それは待ち望んでいた光景だった。
もう何年も夢に見て、それだけを目指してきた。
金も、感情も、嘘も、その全てを使い、たどり着こうとしたものだった。
けれどそれはあまりに呆気なく、突然に、止める間もないままに目の前に再現された。
転がったウィスキーグラスも、紙の散らばる部屋も、血の滴る口元さえも同じだった。
違うのはその表情だけだった。
その精巧な、いかな時も歪むことのない美しい顔が、そのまま歪みなく保たれていることだけが望んだものと違っていた。
そして、それは何よりも許せない事だった。
歪んでいるとは、思っていた。
ひねくれていると、尋常ではないと、分かっていた。
だが、ここまでとは思っていなかった。
私は、今初めて、この感情の名前を知った。
それはもうきっと、許されないことだ。
**
コツコツという低いヒールがレンガ調の道を歩く音がする。
約12m。
ここでヒールの叩く地面がレンガからコンクリートに変わり、階段を登る特徴的な音へと変化する。
聞きなれた音。落ち着きのある少し急いだ一定のリズム。
あと2m。
一度音が止み、控えめなノックの音がなる。
半ば怯えるように震えた音。
それが2回鳴って初めて私はソファから立ち上がる。
唯一外へ通じるドアに手をかけ、軽く息を吸って開く。
そこには背丈の割に大人びた服装をした少女がたっている。
「やあ、こんにちは。」
「はい。こんにちは、先生。」
先生呼びはいつからだったか。何度やめて欲しいと思ったかは分からないが、口に出した記憶はない。
別段こだわることでもない。
半歩下がり、中への道を開ける。
それを見て彼女はようやくホッと胸を撫で下ろし1DKの事務所の来客用のスペースへはいる。
この来客用のスペースは私という探偵への依頼人のために設けた部屋だが、実際に依頼人が来た記憶はすでにホコリを被っている。
何年か前から、ここは時々現れる彼女を接客するための部屋だ。
「珈琲でいいかな?」
やかんに水道水を注ぎながら尋ねる。
「はい。それより先生。また飲んでたんですか?」
この少女は案外目ざとく、そして私に怠惰な生活というものを許さない。
お気に入りのソファの横、サイドテーブルに飲みかけのウィスキーがあれば注意してくる程度にはお節介なのだ。
「何かの記念で知人から送られてきてね。久々に晩酌でもしようと思っただけだよ。」
「平日の、13時すぎに?」
「それを君に言われたくはないな。」
勢いよく湯気を吐き出すやかんを火から下ろし、インスタントコーヒーの入ったカップに注ぎながら答える。
彼女は本来なら高校に通っているような年齢のはずで、この時間は普通学校があるはずだ。
「私と先生では意味が違うでしょう。私はまだ未来ある高校生であり、先生は成人男性です。」
「年齢がそんなに重要かな?」
「やり直しが効くか否かで言えば。」
「なるほど。正論だ。」
しかし、理性と感情は別物で、そんなことくらい分かっているから彼女もここにいるんだろう。
「ところで、今日はなんの要件かな?」
木製のテーブルに彼女の分のカップを置きながら尋ねる。
「武者修行、でしょうか。なんと言っても、私は先生の弟子ですからね。」
少し子供っぽく聞こえる声で彼女は答える。
この返しには予想が着いていた。
挨拶のようなものだ。
玄関のドアがノックされてからここまで、何年も前から決まっているルーティン。
「それは大変殊勝な心がけだが、あいにく今日も依頼はない。学ぶこともないように思えるが。」
「そんな冷たいこと言わないでください。だいたい、週に数回の他人と話す貴重な機会じゃないですか。もっと有意義に過ごしましょう。
先生の好きなウィスキーも買ってきました。」
ずっと手に提げていた紙袋から箱に入ったウィスキーが出てくる。
それはそれなりに有名な銘柄で、私自身も何度か見たことはあったが、実際に買ったことは無い。
量の割には、少し高すぎるのだ。
その箱を一瞥し、しかし開けることなく彼女の方を向き直る。
「こんなの、どうしたんだ。」
「先生は探偵でしょ?推理してくださいよ。」
なんて笑いながらはぐらかす彼女の相手をしながら、2時間程度私たちは談笑する。
気の置けない友人のように、歳の離れた兄妹のように。
時計の針が3時を回った頃に彼女は立ち上がり、
「では、また。」
と言いながらこの事務所を出ていく。
それに笑顔で手を振り、足音が十分に遠くなってから一度も手をつけることのなかったコーヒーにため息をつき、カップを片付け始める。
自分の分と合わせて二つ、コーヒーカップを戸棚に閉まってから私は濡れた手を拭き、私室へ戻る。
壁中に彼女の写真が貼られたその部屋で、私はベッドに腰を降ろす。
備え付けの棚から取り出してきた過去のデータが床に散乱しているが、もはや気になることもなかった。
準備は整っている。
あと必要なのは覚悟だけだった。
だが、それすらももう必要ない。
ちょうどいい言い訳も出来た。
そう思い、私はベッドに横になる。
次に彼女がここを訪れるのは、二日後だ。