2
眠りからこちらの世界に呼び戻すかのように、列車の放送の声が耳に入って目覚めた。
車内放送に耳を傾ける。目的地まであと一時間もないらしい。
水の王国エリスフレールはその豊かな水資源と水の力をもとに電気というものを発明し、それで産業を興しだしたのは五十年ほど前だ。
ウィンバー王国をはじめこの大陸の他の国にはまだその電気という概念が完全に広がっておらず、このように広範囲で電気を利用した列車は殆ど走っていない。
そのエリスフレール王国の国をかけた列車事業で長距離路線が開通した記念式典にウィンバー王国からは運輸大臣を父に持つジュリアンと二人招待されたのだ。
「少しは眠れたかな?」
そろそろ起きなくてはと、体を起こすと艶と張りのある心地いい甘い声が優しく響く。
「え? ハイト様?」
六人掛けの個室席の反対側の席に座っていたのは式典と共に出席したジュリアンかと思ったら、式典で王族として出席していらっしゃったヴィンセンテ・ローレンハイト・レニエ・エリスフレール様だった。
式典のため長めの銀髪を整髪料で後ろに流し、形のいい額が現れたことで知的かつ神秘的な美しい碧色の瞳がさらに煌めいて見える。
式典用のエリスフレール王国の民族衣装の長衣から動きやすい青と黒の生地に金糸の入ったエリスフレール王国の薄手の騎士服に着替えた姿は細身ながらも胸板の厚みや脚の線がたくましさを感じさせる。
「ジュリアンはヴィヴィと食堂車だ。
気分がすぐれないと聞いたが体調はどうだい?」
そういえば先月この人にキスされたんだなあ、とどこか他人事のように寝ぼけた頭で思い出し、一瞬で目が覚めた。心配そうに顔を覗き込んでくる綺麗な瞳に頬が熱くなる。
「あの、その……その今回はご招待していただいてありがとうございま……」
「レナ様。そんなに警戒しないで。
眠っているあなたに何かしようなんて思っていないですよ」
「え? いやそんなことは思ってなかったんですけど。寝顔を見られたと思うと恥ずかしくて」
「何だ、そんなことか。私には眼福だったよ」
正直な私の答えにハイト様は性的なニュアンスを消した甘く優しい笑みを浮かべたが、再度心配そうに私の顔を覗き込んできた。
「でも、大丈夫かい? 式で食事もほとんど食べていないと聞いたよ。
気分が悪いなら、同乗している医師を呼ぼうか?」
「あ、それは大丈夫です。その、実は気分がすぐれないというのは建前で、ちょっと睡眠不足なだけです。
今回エリスフレール王国を訪れるまでに色々片付けることを片付けなくてはならなくて。
家令のレックスに権限はある程度預けてありますが、彼には裁量不可なものをある程度やろうと思うと思った以上に大変でした。
エリスフレール王国までの移動時間に眠れるかと思ったのですが、ジュリアンがずっと電車について喋りっぱなしで眠くて眠くて。
すみません、ちょっと伸びをしていいですか?」
寝顔を見られてはいるがあくびする顔までは見られたくない。
あくびはこらえることが成功したものの、体、特に腕を伸ばして一度すっきりしたい。
「どうぞ。伸びでもなんでも。
睡眠不足だったのか。だから式典であなたはどこか怠そうだったのだね。
彼は伯爵の位は譲ってもらっていても実際の仕事は御父上のレッドフォード公爵殿だから領地管理などの本当の大変さを知らないだろうし、貴方にはあの優秀なレックス殿がいるからと思っているのだろう。
それに貴方にはもう一つのお仕事の締め切りなどもあっただろうし」
「ハイト様、その話は……」
伸びをしようが、愚痴を吐こうが、批判することもなく共感してくださるお優しいハイト様だが、意味深に微笑んだ。
そう、私はアリソン・リーという名を使いウィンバー王国で最近推理小説の新鋭作家という別の顔を持っている。
アリソン・リーは性別も正体不明の作家で、今は三カ月に一度の割合で新刊を出しているのだが、その出版社との外せない打ち合わせを屋敷で行う日のその時間。
そこにタイミング悪くこのハイト様が屋敷にいらっしゃって、正体がばれてしまったのだ。
「二人きりの時はいいだろう?
あんなことが起きたから内密でデートは難しいと思ってなんとか時間を貰おうかと屋敷に伺ったら、まさか出版社の編集者を優先されるとは思わなかったよ」
「ハイト様、それは……」
ハイト様がいらっしゃったのは、馴染みの編集者と綿密な打ち合わで、国王陛下だろうが誰だろうが、訃報か緊急事態以外は受け付けないでと家令のレックスに念押しした日だったのだ。
「でもおかげで貴方のもう一つの姿を知ることができてうれしかったけどね。
今回の旅があなたの創作の源の一部になってくれればと願うよ。
終点の地はまたエリスフレールの王都とは違う景色だからね」
「ありがとうございます」
「礼を言われるほどのことじゃない。
まだ眠りたいなら気兼ねなく眠ってくれればいい。
後、貴方の家の侍女殿も食堂車に飲み物を取りに行っているからもうすぐ戻ってくるだろう」
そう今回の旅はマギーも同行している。
彼女は招待状に同封されていたパンフレットの電車の食堂車のスイーツを見て、家令のレックスに付き添いとして名乗りを上げたのだ。彼女は裕福な家のお嬢さんなので、他国に連れて行くのはどうかなと思ったけれど、どうやらパンフレットのケーキの写真があまりにも素晴らしいから実物がどうなのか気になるらしい。
マギーがそんなに甘いものが好きとは知らなかったけれど、以前、確かに隣の大陸のベルガエのチョコレートをあげたら喜んでいたなあと思いだし、彼女の同行を許可したのだ。
「そうなんですね。ありがとうございます。
まだ眠いですけど、景色も拝見しておかないと」
「だったら隣に来てごらん。
進行方向と逆向きの席では眠るにはいいが景色を見るには少しもったいないからね」
三人掛けのシートにはハイト様と少し離れて座ってもまだ余裕がある。
「隣に来ても何もしないから」
どうしようかとためらう私にいたずらっぽく微笑んでハイト様が手を差し出してきたので、彼に従い、少し隙間を開けて隣に座った。
エリスフレール王国の緑の山々とその裾野には水の王国と謳われている国には珍しい、緩やかな大河の反対側に広がる荒野のような風景を眺めた。
所々に平屋作りの白い建物が建つ村や集落もあるが、王都とは異なり荒々しい自然が圧倒的に多い。
「終着駅まではこのような風景が続くよ。
あの平野は大河が海水を含んでいるからなのか、山側と平野側で生えているものが異なるんだ。山側の岸辺は岩壁でこのあたりにしか生息しないマングローブの木が生えている。
だが、あの木は平野側には生えないという不思議な現象が起きていてね。
あとはラオンの街は王国前の建物が残っていて面白いと思う」
今回の旅の終着駅はラオンの街だ。
ラオンの街はエリスフレール王国の南の端にある市で、街の端は海に面する山脈だ。
しかもその山にある巨大な滝の水が山からすぐに海に流れこんでいる光景が海岸の砂浜から
眺めることができるので、地域の観光名所の一つとされているという。
また、ラオンのは建国される前にあった一神教の教会や建造物があり、特に大聖堂の薔薇窓と呼ばれる円形のステンドグラスが有名だ。
今、その一神教はこの大陸では廃れ、隣の大陸の一部の国の国教となっているが、エリスフレール王国をはじめこちらの大陸では宗教としての影響力はない。
ただ、その圧倒的な豪華さを誇る宗教的建造物などは破壊するには忍びなく、今回この電車路線の開通に伴い観光開発された地でもそのままの姿で残されて利用されることとなった。
電車がラオンに到着予定は夕方の予定だ。
そして駅から放射線状に広がる通りの中央にある広場に面し、世界各国の要人たちが宿泊できるように建てられたホテルに宿泊するという。
「今回のラオンの街の旧遺物の大聖堂が見たいと言っていたね」
「ええ、新聞に旧遺物の大聖堂の修復に地元の人間が反対しているという記事と、その大聖堂に伝わる言い伝えが面白いと思って」
「送った本を読んでくれたのだね?」
「ええ。ちょっと生々しい話だけどラオンの悪魔の話は面白かったわ。
それに因んでなのか、さっき読んだこの新聞には大聖堂を直すと悪魔が出てきちゃうって理由が書かれていたけど。
この記事も同じようなことが書かれていますね」
その新聞記事にはラオンの街で昔起こった悪魔払いの話が書いてあった。
時はエリスフレール王国が建国されるより前の時代。
ラオンの悪魔に連れ去られた少女という名前の民話。
ある少女が墓参りの帰り、誰もいない墓地でどこからか「助けてくれ」という叫びが聞こえた。
家に帰った彼女はそのことを両親に伝えたがそのときは何も起こらなかった。
だが、年末、家族が娘の異変に気づく。いくら温暖なラオンでも寒い冬の夜中に外套もまとわず、ふらふらと人が寝静まった時間に出歩くのだ。
両親は彼女に何をしているのか聞いても娘は記憶が無いの一点張り。
両親は娘の異変を医師に相談するが解決できず、医師は彼女を大聖堂の司祭の元に連れて行ったのは異変が起きた翌年の春だった。ラオンの司教は彼女の異変を解決に当たろうと、暫く彼女を大聖堂で預かることにした。
やがて大聖堂の神の力で彼女の体をのっとったという悪魔が告白した。
司祭は事の重大さを認識し、人払いを行って悪魔祓を行った。
大聖堂の中で秘密裏に行われた儀式は、女の悲鳴と男が苦しみうめく男の声がし、その悪魔払を隙間から覗いた大聖堂の掃除婦が、悪魔払いの光景は、背を扉側に向けて椅子に座る司祭の上で、娘が馬乗りになって暴れ髪を振り乱して奇声を発する様子は魔女さながらの恐ろしさだったという記述が残っている。
悪魔払によって大量の蝿の塊が飛び出し、祭壇の供物に乗り移ったところを司祭は供物を焼き払いことで悪魔を退散させた。
だが再度別の悪魔が少女を訪れないように教会の奥に閉じ込めた。毎日司祭が彼女の部屋に様子を見に行くと、彼女の部屋からは苦しみうめくような声が聞こえた。
夏のある日、大聖堂に捧げものを捧げる祭りが行われる日の前日、閉じ込めた少女の部屋が静かになった。
様子を見に行った司祭が扉を開けると部屋の中の少女は跡形もなくいなくなっていた―
「このあと、祭りの日に大聖堂は火事にあって半焼し、建て直した記録もあるんですってね」
「ああ、その記録通り焼けた跡は石柱に残っているらしいよ。
今回はその大聖堂を取り壊して新しくするのではなく、老朽化した床や柱、屋根を修復する改修を行おうとしてるんだが進まないんだよ。
この話は最初老朽化した薔薇窓のステンドグラスの枠組みの修復だけだったんだが、観光事業のために街のシンボルの大聖堂の建物全体を修復しようと国が行おうとしたんだ。
最初は街の意見は賛成だったらしいんだよ。ところがある日から反対の人間が妙なところから圧力をかけてきているらしくてね。
その人たちに役所が改修工事だと説明したというのに反対らしいんだよ。
国で直すんだから喜んでもらえるのではないのかと思うんだが」
大聖堂の象徴ともいわれる素晴らしい円形の薔薇窓を修復するなら、老朽化している大聖堂を全体的に修復したほうが今後観光業に力を入れるにもいいのではないかという話は、駅ができる際に出てきた話らしく、その時は街の行政側からも大聖堂の管理者側からも大変喜んでもらえ、順調に進むかと思われた。
だが、いざ着工するにあたって、ステンドグラス以外の修復は悪魔が起きるから困ると地付きの有力者が反対し始めたという。
その意味不明な話はもちろん王族の耳にも届き、電気で走る列車の開通式典ついでに、ハイト様は式典だけでなく現地視察もする方向になったのだ。
「出来たらラオンの街を案内したいと思っているが、この数日さらに厄介な報告があって、場合によっては今回の招待客は全員明日王都に戻ってもらうことになるかもしれない」
「それは、今回の工事の反対にハイト様が対応なさるんですか?」
「そうだね。この国の観光事業に関して私も力を入れているからね。
ただ、それだけじゃなくて昨日……」
「そんな昔話の事件の信ぴょう性を壊したくないっていう信者からの反対に王室が出るんですか?
その街の役人も、王宮の人間も何をやっていらっしゃるんですか」
「いや、確かに私が動くまでもないことだったんだ。
でも……」
「反対しているのは地元の一部でしょう。
あ、ごめんなさい、話を遮ってしまって。続きを…… 」
思わずハイト様の言葉を遮ってしまった。そんなにその反対している人間が厄介なのだろうか。
どこか表情がさえないハイト様が喋ろうとした瞬間、個室車両の扉が開いた。
「みたいだな。食堂車でもその話出てたぜ。
で、ハイト、なんでお前しかここにいないんだよ?
マギーが一緒にいるって聞いたから俺は食堂車に行ったんだけど、あいつも食堂車に来たじゃないか」
入ってきたジュリアンはものすごい不機嫌な顔でどさりと空いていた反対側のシートに座り込んだ。式典の黒と白の式服からすでに着替えてシャツとトラウザーズ姿になっていた。
「ジュリアン、何の心配をしているの? マギーはお水をもらいに行っただけでしょう?
ハイト様に何か危ない話でもあるの?」
「は?
……まあ、いいや。お前も着替えてきたら?
どうせラオンにつくのは夕方だし、今日は着いたらすぐホテルだろうから問題ないみたいだぞ。ウィンバーと違ってエリスフレールの終点のラオンはもっと気温が高いらしいぞ。
今、ヴィヴィも上着を脱ぎに別室に行ってるくらいだ。
あとマギーはお前の声を聴いて今荷物から動きやすい服を出すって隣の個室にいるから」
ハイト様が言いかけたことと言い、今回のジュリアンの反応といい、何かあるのかしら。
「そうなんだ。ありがとう。じゃあ、着替えてくるわ」
席を立って扉に手をかけると、ハイト様の顔からは先ほどの憂い顔は消えていた。
気のせいなのかしら。それともまだ睡眠が足りないのかしら。
「なんなら終点まで隣で休んでいたらどうかな?
明日の午前中の市庁舎での歓迎会もまた堅苦しいだろうから休める時に休んでおくのがいいと思いますよ」
結局その時の私は睡眠が足りていなかったようで、ハイト様の言葉に甘え隣の個室で紺色のワンピース着替え、終点まで景色よりも眠気に負けてマギーを隣に爆睡してしまった。
読んでくださってありがとうございます。