第92話 神聖十字軍⑫
アレクが、彼の相棒である「飛竜の長」ヴァンデッタと再会していたその頃、今回の神聖十字軍における、最も「悲劇的」な局面が発生しようとしていた。
悲劇の舞台は、魔王国中央部、やや北寄りに位置するフロルと呼ばれる都市であった。
フロルは都市としては中規模であるが、交易都市として繁栄を極め、「商人の街」として有名であった。
1月8日。フロルの街を囲む、さほど高くない城壁の上で、衛兵たちが噂話に花を咲かせていた。
「トラキウムが陥落してもう一か月どころか、二か月近くになる。なぜ魔王様は奪還部隊を派遣なさらなんだ?」
衛兵の一人が、誰かに質問するというよりは、愚痴を吐くような言い草で呟いた。
「まったくだ。俺たちもその間ずっと、城壁の上で『待ちぼうけ』だ。何か考えがあるのか知らんが、早く終わらせてもらわないと。俺たち商人は『大損害』だぜ」
狼男の衛兵が憮然とした表情で応答する。
ここにいる衛兵たちは皆、魔王軍の兵士ではない。
商業都市フロルは、昔から商業ギルドによる自治意識が強く、街の防衛も、「有事」以外は市民で構成される「自警団」により行われているのだ。
もっとも、北方の要衝トラキウムが陥落した今、フロルの街にとっては、まさに今こそ「有事」以外の何物でもないのだが、今のところ、魔王軍は兵士一人派遣してくれていないでいる。
一応、帝都エルダーガルムからは、「神聖十字軍がこんなところまで侵攻してくることはあり得ないから、安心せよ」との通知を受け取っているが、魔王国内部に敵が侵入しているのに、枕を高くして眠ることなどできるはずがない。
そう言った理由もあり、フロルの住人たちの苛立ちは募る一方であった。
「俺は正直、前の魔王様の時代の方が良かったよ……」
気弱そうな衛兵が、ボソッと呟く。
「……」
彼の言葉を聞いて、その場にいた衛兵たちは一様に押し黙る。口に出してはいえないが、皆、彼と同じように思っているからだ。
先代魔王の時代には、イカルガ城塞の巨大な門は常に開かれ、魔王国と中央六国の間は自由に行き来することが可能であった。
中央六国との商売も盛んに行われていた。
行きかう無数の人々、あふれかえる人間界の珍しい品々、交易都市フロルは当時、大いに繁栄したものだ。
ところが、今の魔王ロドムスの治世になってからは、イカルガ城塞の城門は一度たりとも開かれることはなく、人間界との往来は完全に途絶えてしまった。
フロルの商人たちが、あの時代を懐かしむとともに、今の魔王の治世に不満をいだくのは、ある意味当然のことである。
「ん? おい、あれはなんだ?」
愚痴と思い出話に夢中になっていた最中、衛兵の一人が北方の地平線を指さす。
はるか遠くに白い何かが見える。雪ではないことは、それがうごめきながら、こちらに近づいてきていることから理解できる。
「!?」
ギョッと顔を見合わせる衛兵たち。
「その正体」に気付いたのだ。
彼らの顔に、絶望の色がありありと浮かぶ。
そんな、帝都エルダーガルムの連中は、ここは安全だっていったのに……。
「見えましたぞ。『そこそこ』の規模の都市のようですな」
アルドニア軍の副将、ブライス将軍が目標を視認する。
「うむ、兵もそれほど多くなさそうだ。これでは『肩慣らし』にもならんが、致し方あるまい」
同国の総司令官、ハミルトン大将軍が嬉しそうに言う。圧倒的な兵力で一方的に勝利できそうなために喜んでいるだけだ。
「よし、我ら神聖十字軍の力を存分に見せつけてやるのだ」
随分調子を取り戻した様子のサラザール卿が、自信たっぷりに号令を下す。
「全軍、攻撃開始!!」
――勝負は初めから見えていた。
神聖メアリ教国、アルドニア王国、ユードラント共和国からなる約37万の神聖十字軍本軍に対し、フロルの自警団はわずか3千しかいなかったのである。
まるで濁流にのみ込まれる小石のように、フロルの街は一瞬で陥落した。
そして、「悲劇」が巻き起こる。
降伏したフロルの住人たちと自警団の生き残り、約8万の人々に対し、神聖十字軍は「浄化」と称する行為を行った。
フロルの住人のうち、まず、男たちが一列に並べられ、無抵抗のまま首を切り落とされた。
オークやゴブリンといった、「醜い者たち」は縛り上げられ、生きたまま火にくべられた。
緑エルフやワーキャットなどの、人間に近い姿をした種族の若い女性たちは、慰み者とされ、凌辱の限りを受けた。
街の至る所から火の手が上がり、財産も食料も、すべて根こそぎ奪いつくされた。
神聖十字軍による狂乱の「浄化」は3日3晩続き、それが終わるころには、8万のフロルの住人たちは、わずか8千にまで減っていた。(もっとも、生き残った8千も、全員が「若い女性」たちである。彼女らは「戦利品」として持ち帰るために生かされたに過ぎない)
商業で栄えたフロルの街は、神聖十字軍の侵攻によって、「壊滅」したのである。
神聖十字軍の「浄化」もとい、「大量虐殺」の一報は、一瞬にして魔王国全土に広がった。
度を超えた残虐行為に、魔王国の人々は言葉を失い、悲しみ、怒り、そして憎しみへと感情を変化させていった。
フロルの名は、繁栄を極めた商業都市としての象徴から、神聖十字軍に対する憎しみと、彼らを殲滅するための大義名分としての象徴に、一夜にして変貌した。
「フロルの悲劇を忘れるな!」「フロルの虐殺を許すな!」
今や、比較的穏健派であった魔族たちですら、神聖十字軍を皆殺しにすることを望み、それに何らの疑問も抱かなくなっていたのである。
彼らは、魔王ロドムスが、できる限り残虐に、できる限り惨たらしい死を神聖十字軍に与えてくれるのを、今か今かと心待ちにするようになっていたのである。
一連の報告を受け取ったロドムスは、魔王城の玉座に座り、この世のものとは思えない冷酷な笑みを浮かべ、一人呟くのであった。
「善し、機は熟した」
1月12日。トラキウム城内。
「……」
フロルでの「浄化」のすべてを聞いたアレクは、怒りに言葉を失った。
サラザール卿は、何と愚かで、何と恥知らずで、何と下劣な行為を行ったであろうか。この蛮行を許してはおけぬ。必ずや、犯した罪に相応しい報いを与えてやる。
しかし……。
「アレク様、かように下衆な連中のことなど見捨ててください。我ら先遣隊8万だけで魔王国を脱出しましょう。罪を犯した愚か者どもは、ロドムスが殲滅するでしょう。我らの手で裁きを与えられないのは口惜しいですが、『報い』は受けるはずです」
ルナが怒りに震えながら、俺に進言する。
俺も彼女と全く同じ意見だ。フロルで蛮行を行った愚か者たちに同情の余地はない。殺されようが、地獄に落ちようが、当然の報いだ。
だが……。
「神聖十字軍の本軍を、見捨てることはできない……」
「なぜです!?」
今、トラキウムに残っている「先遣隊」8万だけを退却させることは、恐らく「可能」だ。
しかしその場合、フロルまで侵攻している神聖十字軍「本軍」は、魔王国内部に取り残され、包囲され、「全滅」することになるだろう。
自業自得であり、当然の報いであり、そうなって欲しいと思うのが、正直なところである。
だが、神聖十字軍の「本軍」は約37万もの「超大軍」である。
これほどの数の軍が、もし「全滅」したらどうなるか?
全世界のパワーバランスに、「致命的」な影響を及ぼすだろう。
特に、中央六国とメアリ教国は著しく弱体化することになる。
そうなれば、南の「ダルタ人」たちが大挙して侵攻してくるに違いない。
37万もの大軍を喪失した直後に、世界最強の戦闘民族であるダルタ人が侵攻してきたらどうなるか?
(メアリ教国はそれでもまだ「余力」があるため、生き残ることが出来るかもしれないが)少なくとも中央六国はひとたまりもないだろう。
また、フロルの虐殺で、人間界に侵攻する「大義名分」を得た魔王国が、弱体化した中央六国に「全面戦争」を仕掛けるかもしれない。
酷い言い方かもしれないが、彼らは今、フロルで同胞たちを虐殺された「被害者」である。
だが、「人間を討つ」という大義名分を得て、彼らが中央六国に侵攻してきたときに、フロルでされたのと同じことを人間たちに行う「加害者」とならない保証はどこにもない。
つまり、エルトリア王国をはじめとする中央六国で「フロルの虐殺」を繰り返させないためにも、今回の事件の加害者である神聖十字軍本軍37万を、生きてそれぞれの国に帰らせなければならないのだ。
「もちろん、連中にはいずれ必ず、犯した罪に相応しい罰を与える。『魔王』として、それは必ず約束する」
俺はルナに制約する。ルナは無言で頷いた。
「しかし、ロドムスは……」
ルナは小さい声で呟く。彼女は震えていた。
「あぁ、分かっていて、わざと、フロルの警備を手薄にしていたんだろうね」
俺は彼女の考えに肯定の意見を言う。
かつての魔王軍参謀長ロドムスが、この事態を「想定」できていなかったはずがない。
フロルの住人を退避させなかったことも、援軍を一切送らなかったことも、恐らく「わざと」である。
あいつは、フロルで虐殺を起こさせることによって、魔族の人間に対する憎しみを増幅させようとしている。
そんなことをして、何の意味があるっていうんだ……。
とにかく、神聖十字軍の本軍にも、魔王軍にも、もうこれ以上愚かな行為をさせる訳にはいかない。
俺はルナの方に向き直り、はっきりと宣言した。
「俺は、この戦争を終わらせるために、『魔王』になる!」