第102話 神聖十字軍㉒
第4歴1300年2月28日。
神聖十字軍は、ついに魔王国からの全軍総退却を開始した。
撤退するメアリ教国および中央六国の各軍の兵士たちの顔色は、国ごとにまるで異なっていた。
ケルン公国、タイネーブ騎士団領、シーレーン皇国、そしてエルトリア王国の行進の列は、笑顔であふれ、笑い声が響き渡り、極めて陽気な雰囲気である。
対して、メアリ教国、アルドニア王国、ユードラント共和国の行列は、もはや葬式状態である。
今回の第111次神聖十字軍、遠征の総評としては、「失敗」であったと言わざるを得ない。
あの後、後方に下がったジオルガ隊が、四天王のダンタリオンと合流して、再度、総攻撃の構えを見せたため、神聖十字軍は唯一の占領地であった城塞都市トラキウムも放棄して慌てて逃げだしたのである。
昨年の11月に先遣隊がトラキウムを奪取した後に、城壁の改修および後方兵站確保を行い、トラキウムを前線基地としてしっかりと「要塞化」していればこんなことにはならなかったはずである。
しかし、サラザール卿は、魔王国奥地への侵攻を優先し、要塞化任務に十分な人員を割いていなかった。
結果、魔王国奥地への侵攻は失敗し、さらにトラキウムも魔王軍に再奪還され、約5か月半に及ぶ今回の遠征の具体的な成果物は、「何もない」という散々なものとなってしまった。
サラザール卿は帰国後、厳しく責任を追及されることになろう。
彼はショックで寝込んでしまったらしく、撤退中、一度も兵たちの前に顔を見せていない。
今回の遠征で唯一の救いは、神聖十字軍が魔王軍に完全包囲される前に、敵地から脱出できたという点である。
これは、アレクや、「先遣隊」の各国の輝かしい功績である。
先遣隊各国の帰路へ向かう足取りが軽いのもうなずける。
―― 「へへっ、ナユタ、もうすぐクレアちゃんに会えるな。楽しみだろ?」
ノア山脈の山道。
ナユタと同期入隊のトレック(※45話参照)が、ニヤニヤとした表情でナユタに話しかける。
「はぁ!? あんな『チンチクリン』に会いてぇ訳ねぇだろ!」
「でもお前、国を出る時にクレアちゃんからもらった花をしおりにして、寝る前にいつも大事そうに見てただろ?」
「なっ! テメェ! なんでそんなこと知ってるんだよ!!」
言われて顔を真っ赤にするナユタ。
まわりの兵たちがどっと笑い声をあげる。
「……。なぁ、何か急に暗くなってきてないか?」
「おいナユタ、話をそらすんじゃねーよ」
「いや、だって、ほら」
言われて兵たちも周囲の様子がおかしいことに気付く。
先ほどまでよく晴れ渡っていた空が、急に暗くなってきた。
驚くべきことに、太陽が出ているにも関わらず、その光を遮るようにして、薄暗くなってきているのである。
空気が重い。
その場に居合わせた兵たちは、一同に息苦しさを覚えた。
何か。
極めて不気味な「何か」がこちらに接近してくる予感を覚える。
それは、エルトリア軍だけではなく、他の軍においても同様であった。
「クソッ、馬たちが急に暴れ出した」
タイネーブ騎士団領の軍では、騎馬たちが突然いななき始め、騎手のいうことを聞かなくなった。
「な、なんだ、これは、魔力の反応なのか……?」
シーレーン皇国の魔道兵たちは、感じ取った魔道の気配らしきものに不信感を覚える。
魔力にしては、余りにも「禍々しい」からだ。
「シドニア様、これは……」
「……」
ユードラント共和国の軍では、ヒューゴ=マインツの問いかけに、シドニア=ホワイトナイトが無言で剣を抜いた。
―― エルトリア軍の隊列では、兵たちが騒ぎ始めていた。
この気配。
やはり「異常」だ。
「と、とにかくアレク将軍に連絡を……」
「そ、それが、アレク将軍がどこにもいないのだ。ルナリエ副長も見当たらなくて」
「な、なんだって?」
混乱するエルトリア軍。その間にも、謎の気配はどんどん強まってくる。
そして、
「あ、あれを見ろ!!」
兵の一人が、東の空を指さす。
一騎の飛竜が、こちらに向けて猛スピードで飛んでくる。
「あ、あれは……」
神聖十字軍の兵たちは、固唾をのんでその飛竜を見つめる。
灰色の巨大な飛竜に、黒いローブを頭まで纏った謎の人物が騎乗している。
そして、その右手には、妖しげな気配を放つ、「剣」が握られている。
ざわつく神聖十字軍の兵たち。
まさか……。
飛竜は程なくして、神聖十字軍の兵たちを見下ろすように、近くの崖の上にふわりと下り立つ。
今や、神聖十字軍のすべての兵たちの目が、その飛竜に乗る人物に向けられている。
やがて、ローブ姿の人物が、声を発した。
その声は、さほど大きくないにも関わらず、なぜかすべての神聖十字軍の兵たちの頭の中に響き渡った。
「我が名はロドムス」
「すべての魔族を支配する者である」
ゴクリ、と誰かが息を呑んだ。
その言葉の意味を把握したのだろう。
「そして、この世の理を調律する者である」
「汝らは、我が調律を乱す輩だ」
「故に、断罪されなければならない」
ロドムスと名乗った人物が、右手の剣を高く掲げる。
次の瞬間、その「剣」が信じられないほどの膨大な魔力を放出し始める。
逃げなければ……。
そう思っても、神聖十字軍の兵たちは、誰一人、身動きはおろか、まばたきすらできなかった。
「さらばた」
ロドムスはそう言って、神聖十字軍目掛けて、「魔剣」を振り下ろしたのであった。