医薬学研究所
夜行列車で大阪に向かう。ガタンゴトンと単調な響きをを繰り返しながら暗闇の中を列車が走る。座席に座った乗客は、誰もが黙りこくって目をつむったままだ。簡単に眠れるものではないが、考えるともなく、うつらうつらしている。
ジフテリア禍事件は二年前1948年11月に起こった。毒素を含んだままの接種薬を注射してしまったことが原因で、京都と島根で84人もの幼児が死んだ。世界最大の被害をもたらした予防接種事故と言うことになる。注射薬を作ったのは大阪の日赤医薬学研究所と言う会社だった。国会でも取り上げられた大きな事件ではあったが、東京の紙面では大きな扱いがなかった。被害が大坂本社の領域に限られていたからだろう。当時、毎朝新聞は東京と大阪に本社を持ち、互いに記事を融通はしていたが、別個に編集されていた。大阪版では連日一面トップの扱いになっているから東京版とは随分とちがう紙面構成だ。
関ケ原を過ぎるころから夜があけて、山崎を過ぎたら家々が立ち並ぶ関西の風景が見られる。大阪駅に着いたが、本社に顔を出す前に日赤医薬学研究所を訪ねて見ようと思った。記事と言うのは足で書くものだと言う西東京支局のデスクに言われたことが耳に残っていたからだ。大坂本社で何かを尋ねるにしても、この目で見たものが何かなければならない。日赤医薬学研究所は解散してしまっているから、正しくは跡地を見に行ったことになる。
大坂には道修町という製薬会社が集まる場所が知られているが、そこからは少し外れた法円坂町が会社の所在地だ。住所番地を頼りに行ってみると、そこは一般の街ではなかった。塀に囲まれた広い区域があり、営門がある。むろん衛兵所はなく素通り出来るが、ここは大阪八連隊のあったところだ。広い練兵場を囲むように古びた長屋のような建物が並んでいる。兵舎だろう。一番端の兵舎に日赤医薬学研究所の看板が残っていた。入口は施錠されており、人影はなかった。
八連隊兵舎は、一時米軍が接収し、その後返還された。いずれにせよ、勝手に使える場所ではない。製薬会社がなぜ陸軍の兵舎を使っていたのだろうか。大阪本社に行って、まずそのことを尋ねてみた。終戦前、本土決戦に備えて、中部方面軍が組織された。大坂八連隊もその一部だ。方面軍司令部にいた作山阮治という中佐が兵舎の処理を担っていたと言う。作山中佐は英語も堪能で、米軍との交渉も一手に引き受けていたのだ。その作山中佐が日赤医薬学研究所の発起人である。
「作山中佐が方面軍の主計部長だったのですか?」
「いや、方面軍司令部直属の軍医やった」
「軍医? どうして軍医が兵舎の権限を持ったりするのですか?」
「ただの軍医ではなく、防疫給水部を率いる特別扱いの軍医や。終戦の少し前に、満州から転任して来て、兵舎の一部を関東軍から送られて来た資材の保管場所にしていた。極秘区域ということで、一般の兵士は近づけない所になっていたから、何があったかは分からない。何か特別な作戦を準備していたのではないかな。」
作山中佐に会って話を聞かねばならない。そう思ったのだが、連絡は取れなかった。日赤医薬学研究所の設立後、しばらくして急逝したと言う事だった。作山中佐の死後、会社は日赤病院の外郭団体の形で引き継がれた。理事長は病理学者として知られる秋山誠一だが病に服しており、名前だけの様だし、副所長の田端正純も本務は日赤病院で実際の運営にはかかわっていない。実体が良くわからない会社だ。そんな会社が、アメリカでしか作られていなかった最新接種薬の製造を担った事はどう考えても不自然だ。
ATP接種薬はアメリカの国立衛生研究所(NIH)で開発された。少なくともNIHとのつながりが無ければ製造できるものではない。それが作山中佐だった可能性もあるが、作山中佐はとっくに死んでしまっている。朝原は、喫茶店のマスターが言っていた事を思い出した。工藤が立川に通っていたのは406部隊で製造技術を指導してもらうためだったのに違いない。406部隊は軍医の集まりで当然NIHと連絡があるはずだ。しかし、工藤は現場の主任に過ぎない。誰か作山に代わって工藤を立川に差し向けた人物がいる。それが、理事長でも副所長でもないのは確かだが、社内には他に指図する人間は見当たらない。