第2話 旧市街 〜Vae victis〜
ある日の日曜日、仁は午前中の模試を終わらせて暇を持て余していた。昼食をいつもの喫茶店でとったが、二時間もいると流石に飽きてくる。そこで喫茶店から東に5分程度の自宅に帰ろうと思ったが、ふだん西の新市街ばかりを見ている仁は、もっと東に行ってみることにした。
旧市街が広がっている東は失業者や教育難民で溢れかえっている。国の認可していない店が立ち並び、賭博、違法ドラッグの取引もあり、治安はいいとは言えない。そのため仁も旧市街の奥地へは行かないように親から言われていた。とはいえ仁は親の言いつけなど守ったことはないので、さほど気にしなかった。
新市街を走っている国有化された大阪都営地下鉄は難波駅までしかなく、それより東は私鉄の運営する革命以前の古い地下鉄路線を使うしかない。住民カードで支払いはできないため、仁は小学生以来十数年ぶりに切符を現金で購入して電車に乗った。シートはボロボロで座る気がせず、手すりも錆や汚れが酷く触る気になれなかったため、立って両足だけでバランスをとることにした。
「おや、若いねえ。難民じゃないようだし」
一緒に乗り合わせた老婆が話しかけてきた。老婆はわざわざ仁の立っている近くのシートに座った。
「お婆さんは難民なんですか?」
「いいや、あたしはただの失業者だよ」
「いつからですか?」
「さあ、いつだったか、もう30年ぐらい前だ」
老婆はため息をつきながら、窓の外の、かつては光っていたであろうボロボロの広告板を眺めて言った。
「ほんと、世の中は変わっちまった。ハイネっていうのはとんでもないことをしたね」
「…ハイネをご存知で?」
「あたしぐらいの失業者や難民はみんな知っているだろうよ。あれは英雄のようだったが、実際は破壊者だった」
「詳しく、聞かせてください」
仁は老婆のハイネという言葉に反応した。それを嬉しく思った老婆は上機嫌で話しはじめた。
「はは、こんな話を聞きたいだなんて、近頃じゃ珍しい」
「この国じゃあ、もう知ることはできない。だから知りたいんです」
「いいだろう。まずはあたしらの置かれていた状況からだ」
スピーカーから掠れた声のアナウンスが流れ、電車が動きだした。
「あたしらは2030年の頃はまだ労働者だった。まだまだ働き盛りだったし、終身雇用が当たり前だった。あたしも同世代も、それが続くと考えていた」
「だけど、機械化政策が行われた…」
「そう。人工知能やロボットに職が奪われた。知識人からしたら予知できていた未来らしいが、あたしらは本当にバカだったんだね。自分たちがいかに無能かを知らずに、ずっとブラックだのと叫ぶばかりだったが、その時はまだ恵まれてたんだ」
「ブラック?」
「ブラック企業のことさ、従業員の待遇も給料も悪い、そんな企業だ」
「なるほど、続けてください」
「政府はある程度生活保障をしてくれた。だが、それだけでは足りなかった。あたしにはあんたと同じくらいの息子もいたからね。そんな時だ、ハイネが現れたのは」
「2047年の10月ですか?」
「ああ、確かそのぐらいだった。息子は社会革命党に入ると言って北海道に行ってしまったよ。当時はハイネだけが、暗い未来に明るい光を照らしてくれたんだ」
車内にアナウンスが流れ、もうすぐ次の駅に着くことを知らせた。老婆は鞄の中を探すと、茶色くヤケている小冊子を取り出し、それを仁に渡した。
「これは、当時配られてた社会革命党の小冊子だ。あんたにあげるよ」
老婆はそれだけ言うと電車を降りていった。仁は中身を確認したが、印刷自体が簡易的なものだった上に、何度も読まれたようで文字がかすれている。かろうじて表紙の「理想社会のために」というのは読めた。しかし、揺れる車内で読むことは不可能だと思い、スクールバッグにしまった。老婆と別れてから7分ほど経ち、鶴橋駅に来た。仁は駅の正面出口からではなく、改札の横の小さい出口から闇市の立ち並ぶ路地に入っていった。
仁は路地に入るなり、その光景に驚いた。ふだん通っている新市街は道端に店など存在せず、全てビルの中に入っている。そのため非常に無機質な街並みだ。しかし旧市街、それも鶴橋周辺の闇市は綺麗でもなく統一感もなかったが、確かにそこに人が住んで、生きているということを実感できる場所だった。
「おっ、兄ちゃん、ブルジョアな格好してるじゃねーか。なんか買ってくれよ!」
「魚はどうだい?生の魚介は珍しいだろ?」
「かわいい顔してるね!こっちに来なよ!」
「あなたには死相が見える!」
仁が道を歩いていると、色々な場所から声がかかった。声の主は電灯看板でもドローンでもなく、人である。それだけでも価値があるように思えた。確かにこの程度、機械に任せた方が効率的だろう。しかし効率化だけを追求した今の社会は人間性を失っていた。何十年も遅れていると言われている旧市街とその住人は、新市街が失った多くのものを持っていた。
とはいえ、いちいち声に反応してもいられないため、仁は店頭を見ながらも、少し早足で移動した。珍しいものは多かったが、特に惹かれるものは発見できなかった。また広大な闇市を一日で探索するのは不可能だと考えたため、そろそろ切り上げて帰ろうかと考えはじめていた。
そのときふと目に止まったものがあった。それは骨董品店らしき店にあった。見た目は小箱のようで、ふたつのレンズがついているためカメラに見える。全体に革張りがしてあり、真鍮で縁どられ、いくつかのトグルがついていた。仁はそれを持って、店の奥の店主に聞きに行った。店主は壮年期のような顔立ちだったが、髪は白く老けて見える。仁に気付くと目が悪いのかメガネをかけてから質問に答えた。
「あぁ…これはね、二眼レフカメラというんだ」
「二眼…?レフ?」
「フィルムカメラの一種だよ。確か十数年前に手に入れた。ファインダー用と撮影用でふたつのレンズがある。買うかい?」
「はい」
支払いを済まし、店主は仁の顔と服装を見た。
「君は…学生だね。興味を持ってくれる若者は久々だ。少しおじさんの趣味に付き合ってくれるかい?」
「よろこんで!」
仁は明らかに上機嫌になった。年上のこういった話題は大好きなのだ。それにつられて店主も饒舌になった。
「六十年ぐらい前かな。デジカメが登場してからというもの、フィルムカメラは徐々に衰退していった。私ぐらいの世代でも、知っているのは一部の人間だけだろう。ましてや分断世代以降なんて、知るよしも無いと思う」
「はい。知りませんでした」
「私が物心ついた2030年頃ですら、既にフィルムの製造をする会社なんてごく少数になっていたんだ。それに、最盛期の頃でも普及したのは一眼レフばかりで、古くさくて扱いの難しい二眼レフなんて、既に絶滅危惧種だった。このカメラを見て、何かが足りないと思わないかい?」
仁はカメラを色んな角度から見てみたが、まったく分からなかった。
「分かりません…」
「少し難しかったかな。これはね、ブランドロゴと製造ナンバーが無いんだよ」
「ああ、確かに」
「調べたんだが、こんなモデルを生産している会社は無かった。おそらく、これは誰かが個人的に作ったものなんだ。その人はきっと恐るべき金属加工技術と、カメラに対する理解があったんだね」
「手作りなんて…非現実的ですね」
「まあ、きっと製作者は売る気は無かったんじゃないかな。じゃないとあまりに手間がかかりすぎる。さて、これの使い方は分かるかい?」
「いいえ」
「よし。教えよう」
店主はカメラの使い方の説明をはじめた。ファインダーの開け方からピント合わせまでやったが、フィルムを巻くときに違和感を感じたため、中を開けた。
「これは…撮影済みのフィルム?」
「前の持ち主のものでしょうか?」
「一度調べたと思っていたんだけどな…ぬかった。すまないね」
「いえ、大丈夫です。それよりも、フィルムに写っているものが気になります」
仁はこれを持っていた人が、どんなものを見ていたのか気になったため、できれば現像したかった。
「私の家で現像してもいいが、経年劣化しているだろうし…現像しても中身が残っているかどうか」
「それでも、頼めませんか?お代は払います」
「よし、分かった、やってみよう。現像には時間がかかるから、しばらくしたらもう一回来てほしい。その時に撮影したフィルムも持ってきてくれたら現像しよう」
「はい。ありがとうございます」
「それと、フィルムが必要だろう。多少なら在庫がある。カメラのこともあるし、今回はサービスしよう。どれがいい?」
「モノクロで」
仁は店を出た。日が暮れはじめていたため、白く濁った路地の天井から赤い光が差し込んでいる。路地を歩いていると、見知った人影を見つけた。仁は聞こえるように大きめの声で呼んだ。
「鄒さん?こんなところで何を…」
その男は鄒と呼ばれてもピンときていないようで、訝しげに仁を観察したあと、何かに気付いたようだった。
「…ああ、少し用があってね。ここは危ないから帰ったほうがいい」
そう言うと、逃げるように去っていった。よくよく思い返せば鄒よりも若干シワが多いように見えたが、あの風貌は明らかに鄒だった。
家に帰った仁は、早速カメラの整備をして、何度か空でシャッターを切り、撮影する真似をした。その頃にはバッグの中の小冊子のことは忘れていた。明日は何を撮影しようか、そのことばかり考えていた。