【3】微かな違和感
「亜紀、逃げろ! 逃げるんだっ!」
暗闇の中、亜紀は健一の声を聞いた。今まで聞いたことがないような切迫した怒鳴り声は、悲鳴に近い。
健一、何処にいるの!?
亜紀は健一の姿を求めて、視線を巡らした。でもその瞳には、果てのない闇だけしか映らない。湧き上がる恐怖感に、ゾクリと背筋に戦慄が走った。
「逃げろ! 逃げるんだ!」
健一、何処にいるの!?
ここは何処!?
分からないよ!?
「ほら。早く逃げないと――」
すぐ後ろで声がして、亜紀は振り返った。
健一がいた。手の届きそうな所に佇み、先刻の声音からは想像できないようないつもの微笑みを浮かべている。
「……健一?」
ここは何処だろう?
早苗は――?
みんなは何処に行ったの?
健一に尋ねたいのに、何故か思うように声が出ない。近付きたいのに、足が思うように動かない。思考も体の動きも酷く緩慢で、現実感が湧かなかった。
焦る亜紀の目前で健一の口の端が、ゆっくりとスローモーションで上がって行く。
「だって、ほら。早く逃げないと、焼けてしまうだろう?」
ボッ!
どこかで上がる着火音に、亜紀は『イヤイヤ』をするように首を振った。
いつものように微笑む健一。
その体を、赤い炎が駆け上がっていく。
嫌!
一瞬にして火だるまと化すその姿に、亜紀はあらん限りの声で悲鳴を上げた。
だが、音がしない。
聞こえない。
そう、まるで無声映画のように。
「いやぁああああぁっ!」
響き渡る、耳を劈くような悲鳴。亜紀は、その自分の叫び声で我に返った。それが自分の上げた声だと認識した瞬間、スイッチを切り替えたように流れ出す雑多な音の群れの中に荒々しい己の呼吸音が重なる。
「亜紀? 亜紀!」
誰かが呼んでいる。やっとピントの合ってきた目に、ぼんやりと見覚えのない白い天井が見えた。
「亜紀、大丈夫!?」
あなたは、誰?
声の方に朦朧と視線を向けると、そこには覗き込むショート・カットの女の子の顔――。子犬のように愛嬌のある黒目がちの瞳が、心配そうに見詰めている。
「さ……なえ?」
「あー、良かったぁ! お医者さんは心配ないって言ってたけど、全然目を覚まさないんだもん。打ち所が悪かったかと、ヒヤヒヤしちゃったわよ!」
早苗は早口でまくし立てると、クシャッと一瞬顔を歪めて目尻を指で拭ってから、安心したように笑顔を浮かべた。
「私……?」
どうなったんだっけ?
亜紀は、ゆっくりと周りを見渡した。
白い天井、白い壁。四角い白い部屋。そこの白いベッドの上に亜紀は仰向けに寝ていた。そして鼻腔に届く、微かな消毒薬の臭い。
病院?
「私、一体どうしたの?」
ベットサイドに丸椅子を持ってきて陣取った早苗は、亜紀の質問に目をぱちくりと見開いた。
「どうって亜紀、何も覚えてないの? まさか本当に頭ぶつけたんじゃないでしょうね!?」
ぶつける?
記憶の糸を辿る亜紀の脳裏に、一気に過ぎるあの光景。
廻る世界。横倒しの路線バス。そして、燃え上がる炎――。
あ!?
「早苗っ、健一は!? 健一は大丈夫なの!?」
「え? 不動君? 不動君なら……」
早苗が亜紀の枕元の方に視線を向ける。それを辿るよに亜紀が顔を向けると、そこには健一が立っていた。ベットに仰向けに寝ている亜紀からは死角になっていて、気が付かなかったのだ。
「はい、呼んだ?」と、健一がニコニコ笑顔を浮かべて軽く右手を挙げる。
左手首に包帯を巻いてはいるが、他には別段ケガをしている様子はない。
「ど……して? 手首のケガ――」だけなの?
亜紀は、その言葉を飲み込む。
「ああ、大したことはないんだ。ちょっと座席にぶつけて軽い打撲。全治一週間ってとこかな」
そう言って健一は、左手を軽く振って見せた。
「しかし、驚いたよねー。いきなり急ブレーキかけるんだもん、あのバス」
え、急ブレーキ?
早苗の言葉に亜紀は、混乱した。亜紀には、急ブレーキが掛かった記憶はなかった。そもそも、ブレーキを踏んだとか言うような生やさしい事故じゃなかったはず――。
「まあ、仕方ないさ。いきなり猫が飛び出したら、誰だって反射的にブレーキ踏むと思うぜ?」
「まあねー。不可抗力ってやつか。幸い大したけが人も出なかった訳だし、ヨシとするか」
「ちょっ、ちょっと待って!」
和気藹々と事故分析に花を咲かせる健一と早苗の会話に、亜紀が割り込んだ。
「バスって横倒しになったよね!? それで火がついて……」
「はい!?」
健一と早苗が驚いたように二人同時に声を上げて、チラリと目配せしあう。微かに眉根を寄せた早苗が、訝しげに口を開いた。
「何それ? 夢でも見たの亜紀? バス、急ブレーキで少しスリップしたけど、どこにもぶつからなかったよ?」
「え?」
「何人かは転んでケガをしたけど、みんな打撲程度で軽傷だし、ね? 不動君」
早苗のセリフに『何人かのうち』に入っている健一が、苦笑を浮かべて肩をすくめた。
そんな……。
あれが全部夢だったの?
突き刺さるガラスの冷たい感触。額を伝う血の熱さ。
そしてあの炎――。
それは、夢と言うには、あまりにも生々しくリアルな記憶だった。