前菜はきみの心臓でございます
全体的に病んでいます。
あたたかくて柔らかくて包み込むようなやさしいかたまり。それがわたしの持つ恋人に対しての“愛情”のイメージだった。だけど現実の愛情は、彼から貰う愛情の形は、不安定で分かりにくくてそれでいて時々冷たくてほんの少しだけ歪んでいる。
いつからだろう。
そんな彼の愛情を包み込んであげたいなんて思うようになったのは。いとおしいと思うようになったのはいつからだったんだろうか。
あたたかくて柔らかくて包み込むようなやさしいかたまりを、ずっと相手に求めていたけれど、今は彼に求められたいと思っているわたしがいる。このきもちは、成長の証?それとも、何かがズレてきている証拠?
「立てよ」
冷たくわたしを見下す彼の眼差しには怒りとかなしさと1ミリの愛が見えた。ハサミでばっさりと切られた髪が足元にバラバラと落ちていく。彼が以前綺麗だと褒めてくれた髪は彼自身の手によって無惨にも切られてしまったのだ。短くなったわたしの髪を撫でながら彼は、うっとりとした表情で「こっちの方が似合ってる」と囁いてくれる。まるで彼の声は蜜のようだ。どこまでも甘くて深い。
「でも、まだだめだ。まだ、足りない」
だいすきな彼の指がわたしの頬に触れる。ねえ、どうしてそんなにかなしそうな、つらそうな、心臓を誰かに支配されているような顔をしているの。
彼は、答えの代わりに、わたしの頬にじわじわと爪を立てていく。
「どうしてだ」
「どうして、髪を触らせたりしたんだ」
「俺以外の手に触らせるなって、あれほど約束したのに」
「どうして、どうして、どうして!」
深く深く、爪痕がきざまれていく。彼は、駄々をこねるこどものように喚き叫んでいる。わたしは、人形のようにからだをぴくりとも動かさない。
まるでおままごとだ、と誰かが指をさして笑っているような気がした。だけどすぐに、また誰かがわたしたちの耳を塞いでくれる。聞かなくていいよって、見なくてもいいよって、言ってくれている。
「ねえ、わたしはもうあなたのものなんだよ」
泣き喚く彼に近付いて、震える手を自分の心臓の位置に導いてあげる。髪も、手も、足も、目も、口も、鼻も、全部、わたしの全てはあなたのもの。それは未来永劫変わらない。だから、そんなちっぽけな嫉妬に支配されないで。それでも不安なら、わたしに手錠をかけて部屋に閉じ込めたっていいのよ。ねえ、聞こえるでしょう?わたしの心臓の音。この心臓だって、あなたのものなのよ。好きに使ってもらっても構わない。どろどろに甘やかして煮込んだっていいし、ぐちゃぐちゃに切り刻んて廃棄してくれてもいい。
あなたが全部、決めて。
「お前はそれを証明できるのかよ」
「できるよ」
「どうやって」
そっと、触れ合うだけのキスをしてみせた。
瞬きを何度か繰り返した彼は、笑いながらわたしの前髪を鷲掴みにして、そしてまた蜜のように低くて甘い声を、誘惑に溶けた蝶の耳元で囁くのだ。
「まだまだ、足りない」
鳴り止まない拍手のどこかで「幕を下ろせ」、と誰かが叫ぶ。でも、また誰かが「アンコール」と大きく手をたたいてくれるから、何度でも繰り返そう。彼が満足するまで、何度でも何度でも。
終わらせたくないよ、と彼が泣いた。