『 』
本が好きだ。
3度の飯より〇〇が好き、と言う言葉があるが、私はこの〇〇に本を入れるだろう。
読むことは勿論、眺めているだけでも十分である。本に囲まれていると、私は自然とリラックスすることができる。
私の部屋には、学生の頃から少しずつ集めてきた本がたくさんある。初任給は全て本に使ってしまった。
本棚いっぱいの本、本棚に入りきらなくて床や机に積み重なっている本、枕元に置いてある本。
私は、本に囲まれて生活している。
だけど、まだ物足りない。私はもっと、本が欲しい。
仕事が終わった後、気がつくと書店に立ち寄って本を購入している。
私の部屋には、今日も新たな本が追加される。
親や友人には「こんなに買って読めるの?」「今あるのを読み終わってから買った方がいいんじゃない?」と言われる。それでも私は本を買う事をやめられない。やめたくない。
今、私には気になっている本がある。
3日前に古本屋さんで一目惚れして、気付いたら購入していた本だ。
その本には題名がなかった。目に入るところには、どこにも題名のようなものは無かった。題名だけでなくて、著者名すら見当たらなかった。
でも、本の装丁にすごく惹かれて、気付くとその本を手に、私はレジへと向かっていた。本を買う時は、いつもあらすじと最初の1ページを読んでから購入するのに、その時は本を開くことすらしなかったと思う。
私は初めて、本のデザインにだけ惚れて購入した。
いくらしたのかは、不思議なことに覚えていない。古本屋さんで購入したのに、「思ってたよりも高かったな」と思ったことだけは覚えている。
家に帰って初めて本を開いて、最初の1ページを読んだ。
不思議なことに、本には題名がないのに、本の中の章には題名が存在していた。
1番最初の題名は【0章 誕生】だった。
主人公が生まれた瞬間のことを、1ページかけて綴られていた。
この時はまだ、この本に興味を持っていなかった。
ただ、「ずいぶんゆっくり進む話だな」と、まだ1ページしか読んでいないのに思った。
この日は続きを読まなかった。
続きを読んだのは、次の日、仕事から帰ってきた後だった。
机の上に置いてある本を見て、何でもいいから本を、文章を読みたかった私は、この本を手にした。そして次の章を読んだ。
次の章の題名は、【1章 初めて】だった。
内容は、正直に言ってしまうと、あまり面白いとは言えなかった。
0章で誕生した主人公が、1歳の誕生日を迎えるまでに経験した初めてのことや、誕生してから1歳までの成長過程が簡単に綴られていた。ページ数は、0章より1ページだけ多い2ページだった。
これだけだったら、私はこの本に興味を持たなかっただろう。1人の人間の成長を綴っただけの記録なんて、私からしたら、物語として面白いとは思えないから。
でも、私はこの本に興味を持った。
きっかけは、あの時、続けて次の章を読もうとしたからだった。面白くないと思ったのに、私は続きを読もうとした。
読もうとしたけれど、ページを捲ると、そこには何も印刷されていなかった。ただ真っ白なだけのページが広がっていた。
この時はまだ興味を持たなかった。ページが真っ白なことを「面白い!」だなんて思わなかった。
ただ感じたのは、2章しか書かれていない本を、なぜ私は購入してしまったのだろう、と少し悲しくなった。
だけど、私はこの本を手放すことをしなかった。
そして、また次の日、昨日もこの本を開いた。何故か続きのページを読もうとして。
前の日に何も書かれていなかったのに、それを知っていたのに、私は本を開いていた。続きを読もうとしていた。そしてこの本に興味を持った。
驚くことに、前日見た時、何も書かれていなかったはずのページには、文字が綴られていた。章のタイトルは、【2章 小さな冒険】だった。
2章に綴られていたのは、1歳から2歳の誕生日までの、主人公の成長や体験したことだった。
私はまた続きを読もうとページを捲った。そこには、やはり何も書かれていなかった。
今日、私は仕事を終えて帰宅してから、またあの本を読んだ。昨日は何も書かれていなかったページを開き、続きを読んだ。
章のタイトルは【3章 好奇心】だった。そして、内容はやはり、2歳から3歳までに、主人公が成長や体験したことだった。
私は今、この本に興味を持っている。
物語としてはあまり面白味がない。1人の人間の人生を1からつきっきりで書いたような、誰が読むのだろうと疑問を持ってしまうような本だ。
だけど、何故か私はこの本が気になっている。続きを読みたいと思っている。
3章に続くページは、今日は真っ白だ。だけど、明日はきっと、このページにも文字が綴られているだろう。
明日読む章は、3歳から4歳までの主人公は、どんなことを体験して、どんな成長をするのだろう。
自分の子供でもないのに、私はこの本の主人公のことが気になっている。見守りたいと思っている。
※
初めてこの本を読んだ時から、50年が経った。
私は毎日欠かさずこの本を開いて続きを読んだ。
だけど、読み始めてから1ヶ月経たないうちに、私はこの本を読むことをやめてしまった。
読みたくなくなったわけではない。
1日経つと追加される物語は、初めの頃は面白さを欠いていたけれど、読み進めるうちに、面白さ以上ものがある気がしていた。
学生時代を描く10章以降は、人間関係に悩み、苦しむ姿が見られた。私にも覚えがあることで、心に蓋をした記憶が甦るようで辛かった。
それでも私はこの本を読み進めた。けれど、長く続くことはなかった。
初めてこの本を読んでからひと月程した時、おそらく3週間と少し経った後、何日待っても続きの話が綴られることはなかった。
これで物語は終わりなのかと、まだ白いページが半分以上残っている本を手に、私は少しがっかりした。
それから私はこの本を本棚の隅に収納した。時々視界に入ることはあったけど、この本を開くことはなかった。
今日、私は久しぶりにこの本を開いた。
全ての始末が終わり、親戚が帰って、漸く一息をつくことができた私は、部屋の掃除をしようと思い立った。
1週間前から、遠い場所で暮らしている親戚を泊めていたから、家の中は綺麗なままだ。それでも、この部屋は、本がたくさん詰まったこの部屋だけは、数週間前から足を踏み入れていない。きっと埃をかぶっていることだろう。
思い立つが早いか、私はすぐに部屋の扉を開けて中に入った。
部屋の中は、最後に足を踏み入れた時から、何も変わっていなかった。この部屋だけが、数週間前から時が止まっていた。この本の場所も、変わっていなかった。
久しぶりにこの本を目にした私は、気付くと本を手に持っていた。どうしようもなくこの本が気になって、ページを捲っていた。それだけだった。
それだけのことだったけど、私はこの本を開いてよかったと思う。私は久しぶりにこの本を読む喜びを感じた。
本には、50年前の私が、最後に目を通したページの続きが綴られていた。
章の題名は【24章 苦難】だった。
本の主人公の23歳から24歳の日常が綴られていた。
この時の主人公は、毎日のように悩み、苦しんでいた。苦しんでいたのに、そのことを誰にも打ち明けられず、ただひたすら隠そうとしていた。
主人公の気持ちがよくわかる私は、苦しさを思い出して、思い出してしまった苦しみから解放されたくて、続きを読みたくなった。どうか、苦しみから解放された私のように、主人公も苦しみから解放されますように、と願って。
だけど、当然のように、続きは何も書かれていなかった。
きっと明日になれば綴られているだろう。そう信じて、私は本を閉じた。
※
「お母さーん、おばあちゃんの本知らない?」
「本なら全部そのまま置いてあるよー」
「えー、ないんだけどなあ」
既にひと通り探してしまった、おばあちゃんの部屋の本の森に目を向け、堪えきれずにため息をこぼす。
私のおばあちゃんは読書家だった。
だけど読書というものが好きだったわけではないようだ。昔、私がおばあちゃんと話した時に「おばあちゃんはね、本が好きなの。本が読めなくなると悲しいけど、それよりも悲しいのは本が近くにない生活を送ること」と言っていたことがある。
初めは読書が好きなことも、本が好きなことも同じことだと思っていた。
だけど、おばあちゃんを見ていた私は、それが全く違うことだと気付いた。
おばあちゃんは読書も好きだった。だけど、何よりもおばあちゃんが好きで、愛してやまなかったのは、本そのものだった。
本が大好きで、部屋いっぱいに溢れる程の本を集めるおばあちゃんだったけれど、おばあちゃんが家族に本の話をしたことはあまりない。
そんなおばあちゃんが、私に1度だけ話してくれた本がある。
おばあちゃんから聞いた話だと、その本は物語としての面白味は無かったようだ。でも私には、おばあちゃんがその本のことを気に入っているように見えた。その本はおばあちゃんの宝物なのだと思った。
あの時、おばあちゃんは誰にもその本を読ませたくない様子だった。何でか理由はわからないけど、それなら気になるけど読まないって私は決めていた。
でも、おばあちゃんが亡くなって1ヶ月経った今日、私は突然その本のことを思い出した。そして読みたくなった。ううん、読まなくてもいい。読まなくてもいいけど、こんなにたくさんの本に囲まれていたおばあちゃんが1番気に入っていた本がどんなものか、私は見てみたいと思った。
もう1度本棚の本、床や机に積み上がっている本、全てを、1冊1冊見て探していく。
おばあちゃんのお気に入りの本は題名が無かったと言っていた。私が持っている手掛かりはそれだけだ。
「なに探してるの?」
部屋の入り口に目を向けると、ハンドタオルで手を拭くお母さんが立っていた。
「えーとね、タイトルがない本」
「タイトルがない本? そういう題名?」
「ううん、そうじゃなくて、本当にタイトルがないの。おばあちゃんが気に入ってた本」
「えー、そんな本あったかな?」
ハンドタオルをエプロンのポケットにしまったお母さんは、沢山並ぶ本に目を向けた。
「おばあちゃんが面白いって言ってた本なら、全部ここら辺にあるはずなんだよなぁ」
「面白いとは言ってなかったよ」
「でもお気に入りなんでしょう」
「んー、そんな感じだった」
「ふーん」
それから私とお母さんは、しばらく何も話さず本を探した。探したけど、結局タイトルの無い本は見つからなかった。
「おばあちゃんがどこか違うところに置いたのかなあ」
「ここに無いならそうかもね。ま、きっとどこかにはあるでしょ」
「うーん」
「それよりご飯にするよ」
「はーい」
いそいそと部屋から出ていくお母さんに続いて、私も部屋から出る。
ドアを閉める前に、もう一度だけ部屋の中に、本の山に目を向けてみる。
ジャンルごとに分けられた本の森は、おばあちゃんがいた頃と何も変わっていないように見える。
ドアを閉める直前、疑問が過った。
(そう言えば、おばあちゃんはどうしてあの本が気に入っていたんだろう)
本が好きなのに、誰にも本の話をしなかったおばあちゃんが、私にだけ話してくれたあの本。あの本の話をするおばあちゃんは、今まで私が見た中で1番優しい顔をしていた。
※
橙色の、温かい光が灯る中、男が鼻歌を歌っている。
何処までも高い天井に、どこまでも高くまでそびえる本棚。棚の中には、整然と並ぶ、まったく違う装丁の本達。同じ装丁の本は、この中に1つとしてない。
本に囲まれた部屋の中で、椅子に座る男は、1冊の本を手にして、ご機嫌に鼻歌を歌っている。
「なぁーん」
「おやおや、ダメですよ。これは貴方のおもちゃではないのです」
金色の瞳を光らせて、男の持つ本に手を伸ばしてくる黒猫を膝から降ろして、男は本に目をやる。
「これで漸く8冊目ですか。残りはあと1冊。やれやれ、ここまで長かったものですね」
タイトルのない、著者名すら綴られていない、今後も綴られることのない、淡い緑の装丁の本は、80年ぶりに男の下に、男が管理するこの図書室に戻ってきた。
この図書室に存在する本は、日本という国に誕生した、全ての人間の人生を綴った本だ。
男はこの図書室の管理人である。
日本という国に生を受けた、全ての人間の人生を綴られた本が保管されるここは、常に厳重な警備が張り巡らされている。そして、何人もの守護者達と、その補佐役によって守られている。
この図書室の管理人である男の仕事は、本に傷をつけないよう、厳重に管理することである。そして、この図書室から本が失われてしまうことがないように、常に外部に警戒をしている。
ところが、約80年前に、この図書館は大きな襲撃を受けた。
男が常に警戒し、厳重な警備と守護者と補佐役によって守られている図書室は、80年前の襲撃で大きな損害を受けた。
384冊の本が大きな傷を負い、9冊の本がこの図書室から失われてしまった。ここから失われてしまった本は、日本からも失われてしまう。それは則ち、その本の主人の記憶が、無いものにされてしまうという事、若しくは、その者がこれから生まれることができないという事だ。
傷を負った本は、男と補佐役によって直ちに修繕された。ただ、失われてしまった9冊の本に関しては、どうすることもできなかった。
そこで男が考えたのは、ここではなく、現代に、日本という国に、直接本を生み出すという事だった。
男の手によって、日本という国に生み出された本を、どうにかして主人の手に取らせる。主人の手に渡った本は、主人が持つ間に、徐々に本来の形を取り戻す。本来の形を取り戻した後、守護者と補佐役の手によって、本は男の手に、この図書室に戻ってくる。そういう手筈だ。
男が指を鳴らし、1羽の鳥が男の肩に降り立つ。
本を持ち上げ、傷がないことを確認してから、男は鳥に本を取らせる。男から本を受け取った鳥が、どこまでも高い天井に向かって跳び上がり、本をあるべき場所へと戻す。
「さて、では少し休憩としますか」
失われている本は、残り1冊。残りの1冊は、まだ生み出すことができない。主人がこの世に誕生する時ではないから。主人が誕生する時にならなければ、本を生み出すことができない。
本を生み出す時まで、残り6年。
6年後に本を生み出す力を蓄えるために、男は短い眠りへとついた。




