聖女たるもの、殴れない相手もいます
王都北区の空気は、南区とは違っていた。
建物は整い、道は舗装され、表向きは穏やかだ。
けれど、その静けさの裏で、声の小さな者たちが押し潰されている。
「こちらです」
騎士団長に案内され、私は孤児院の門をくぐった。
最初に感じたのは、異様な静けさだった。
子どもたちの声が、ほとんど聞こえない。
「……お姉さん?」
建物の陰から、小さな子が顔を覗かせる。
その目は、怯えきっていた。
私は膝を折り、目線を合わせる。
「こんにちは。怖がらせてしまいましたか?」
子どもは首を横に振ったが、後ろに隠れたままだ。
(ここでは、拳は逆効果ですね)
院長から事情を聞く。
寄付金の打ち切り。
理不尽な検査。
突然の立ち退き通告。
「すべて、合法です」
院長は疲れ切った声で言った。
「書類も、手続きも……何も間違っていません」
つまり。
「法で殴ってきている」
私の呟きに、騎士団長が小さく頷いた。
「裏で動いているのは、北区を支配する貴族です。
直接的な暴力は使わない」
「だから、私も殴れない」
口に出すと、腹の底が重くなった。
帰り際、子どもが私の裾を掴んだ。
「……たすけてくれる?」
その一言が、胸に刺さる。
「ええ」
私は、はっきり答えた。
「約束します」
王城に戻り、資料を洗い出す。
寄付の流れ。
土地の権利。
関係する貴族の名前。
(綺麗すぎる)
拳を振るう隙が、どこにもない。
「聖女様」
騎士団長が言いにくそうに口を開く。
「今回は……難しいかと」
「分かっています」
私は、深く息を吸った。
「だから、別のやり方を取ります」
翌日。
私は、王都の中央広場に立っていた。
許可は取っていない。
けれど、止められる前に始めるつもりだった。
「お集まりの皆さま」
声を張る。
「孤児院が、合法的に潰されようとしています」
ざわめき。
「違法ではありません。
暴力もありません。
ですが」
私は、言葉を切る。
「子どもたちは、行き場を失います」
人々の顔が、曇る。
「私は、殴れません」
正直に言った。
「今回は、拳が通じない相手です」
沈黙。
「だから」
私は、微笑んだ。
「皆さまの力を借ります」
寄付を募ったわけではない。
暴動を煽ったわけでもない。
「見てください」
「知ってください」
「黙らないでください」
それだけを、繰り返した。
噂は、爆発的に広がった。
「拳の聖女が、殴らない?」
「今度は言葉だって?」
北区の貴族は、焦った。
合法的な圧力は、世間の注目に弱い。
三日後。
孤児院への通告は、取り下げられた。
「……勝ちましたね」
騎士団長が、信じられないものを見る目で言う。
「ええ」
私は頷いた。
だが、胸の奥は、晴れなかった。
(今回は、殴れなかった)
子どもを守れた。
結果も出た。
それでも。
夜、一人で部屋に戻り、拳を見る。
「……重たいですね」
殴らなかった拳も、殴った拳と同じくらい。
理解した。
私は、暴力を選ぶ聖女ではない。
暴力から逃げない聖女だ。
「聖女たるもの」
静かに呟く。
「殴れない時も、目を逸らしません」
次は、もっと露骨に、
私を試してくるだろう。
そう、確信していた。




