聖女たるもの、噂と現実は別物です
翌朝、目覚めた瞬間に嫌な予感がした。
理由は簡単だ。
廊下が、やけに騒がしい。
「……?」
扉の外から聞こえてくるのは、明らかにひそひそ話の音量ではない。
「本当に拳で……」
「笑顔で倒したって……」
「貴族様を投げたらしいぞ」
私はベッドに座ったまま、天井を見上げた。
(もう少し表現を選んでほしいですね)
身支度を整え、部屋を出ると、通路にいた侍女たちが一斉にこちらを見る。
そして、そろって目を逸らした。
「……おはようございます」
丁寧に挨拶すると、数秒遅れて返事が返ってくる。
「お、おはようございます、聖女様」
声が裏返っている。
(怖がられてますね、これは)
食堂に向かう途中、騎士団長と合流した。
彼は昨日より、明らかにやつれている。
「お疲れのようですね」
「……はい」
否定しないのか、と少しだけ面白くなる。
「昨夜から、問い合わせと抗議が同時に来ておりまして」
「抗議は想像できますが、問い合わせとは?」
「……聖女様に、直接お願いしたい、と」
嫌な予感しかしなかった。
案の定、食堂には人が溢れていた。
貴族、使用人、騎士、よく分からないがとにかく人。
「聖女様!」
「こちらの件も!」
「ぜひ一度、お話を!」
私は一歩下がった。
「順番にお願いします。殴りませんので」
その一言で、空気が凍った。
「……冗談です」
半分は。
午前中だけで、五件の「相談」が持ち込まれた。
横暴な上司、賃金未払い、脅し、揉め事。
どれも、今まで「仕方ない」で片付けられてきたものばかりだ。
「なぜ、今まで放置されていたのですか?」
ある使用人にそう尋ねると、彼女は俯いた。
「言っても、無駄だと思って……」
私は小さく息を吐いた。
(だから、噂にすがる)
拳の聖女。
笑顔で殴る聖女。
どれも誇張だが、彼らにとっては「動いてくれる存在」なのだ。
午後、ついに問題が起きた。
王城の一角で、聖女に会わせろと騒ぐ一団。
先頭に立つのは、身なりの良い男だった。
「私は正当な抗議をしに来たのだ!」
話を聞くと、昨夜私が制裁した貴族の親族らしい。
「聖女が私刑を行うなど、許されるはずがない!」
私は前に出た。
「私刑ではありません。止めただけです」
「暴力で!」
「はい」
即答すると、周囲がざわつく。
「貴様、自覚があるのか!」
「あります」
私は静かに続けた。
「ですが、あなた方は“立場”で守られてきた」
男の顔が歪む。
「使用人は逃げ場がなく、助けを求める声も届かなかった」
視線を逸らさせない。
「それを、見過ごす理由がありませんでした」
「聖女が裁く権利など――」
その言葉が終わる前に、私は一歩踏み出した。
殴らない。
今回は。
男の足元を払い、床に転ばせる。
「裁いてはいません」
私は穏やかに言った。
「止めただけです」
騎士団が一斉に動き、男は拘束された。
騒ぎは収まる。
だが、空気は重かった。
部屋に戻る途中、騎士団長が言った。
「支持も、反発も、急激に増えています」
「ええ」
「聖女様を危険視する声も」
「当然です」
私は立ち止まる。
「秩序を壊す存在は、怖いものです」
「それでも、続けますか」
私は少しだけ考えた。
泣いていた使用人の顔。
怯えていた村人の背中。
「続けます」
迷いはなかった。
「怖がられても、嫌われても」
拳を軽く握る。
「見過ごすよりは、ずっとましです」
騎士団長は、静かに頷いた。
その夜、私は一人で窓の外を見ていた。
噂は、もう止まらないだろう。
聖女として正しいかどうか。
それは、分からない。
それでも。
「聖女たるもの」
小さく呟く。
「目を逸らす訳には、参りません」
そう決めたのは、私自身だった。




