正義は、借用書の形で差し出される
謁見の間を出たあとも、胸の奥がざらついていた。
殴った後の感触とは違う。
血の匂いもしない。
なのに、確実に不快だ。
「……面倒な相手ですね」
団長が、廊下の柱にもたれて言う。
「ええ」
私は、天井を仰いだ。
「殴れない相手です」
「殴ったら終わりですからね」
「ええ。国が」
冗談みたいに言ったけれど、事実だった。
翌日。
書類の束が、私の机に置かれた。
「……何ですか、これ」
「提案書です」
王都の高官が、涼しい顔で言う。
「協定、支援、出動条件」
ぱら、とめくる。
書いてあるのは、丁寧な言葉。
民を守るため。
秩序を保つため。
国際的安定のため。
「……で」
私は、顔を上げた。
「私が殴る時は、誰が決めるんですか」
一瞬、沈黙。
「……王城の承認を」
やっぱり。
「間に合わなかったら?」
「その場合は」
言葉を選ぶ間。
「遺憾ですが」
「人が死ぬ、と」
高官は、答えない。
それが答えだ。
「聖女殿」
隣国の使者が、書類を差し出す。
「我が国なら、もっと自由に動けますよ」
「条件は?」
「簡単です」
微笑む。
「我が国の敵を、
貴女の敵にするだけ」
私は、書類を机に置いた。
「……分かりやすいですね」
「光栄です」
「いいえ」
私は、立ち上がった。
「不愉快です」
空気が、凍る。
「私の拳は」
一歩、前へ。
「借り物じゃない」
「管理されるものでもない」
「ましてや」
使者を、真っ直ぐ見る。
「外交カードじゃない」
高官が、眉をひそめる。
「感情論だ」
「ええ」
即答した。
「命の話なので」
しばらく、沈黙。
「……では」
使者が、肩をすくめる。
「断る、と?」
「はい」
「後悔しますよ」
「もう、慣れました」
その夜。
街で、小さな衝突が起きた。
軽い暴動。
死人は出ていない。
でも。
「……聖女様がいれば」
その声が、私の耳に残った。
寝台に腰掛け、手袋を見る。
頼られること。
期待されること。
それ自体は、悪くない。
でも。
「……全部、私に投げるな」
呟く。
扉が、ノックされた。
「……団長です」
「どうぞ」
彼は、少し迷ってから口を開いた。
「王城が、別の案を考えています」
「……聞きたくない予感ですね」
「聖女殿を」
一拍。
「前線に送る案です」
笑った。
「……なるほど」
「表向きは、支援」
「実際は?」
「目立たない場所に置く」
「管理しやすく」
私は、手袋をはめた。
「……それでも」
拳を握る。
「行きます」
「止めませんか」
「行かない理由が、ありません」
団長は、苦笑した。
「……殴れない戦場ですよ」
「ええ」
立ち上がる。
「だからこそ」
振り返る。
「殴る意味を、
もう一度、考える必要があります」
正義は、便利だ。
だから、奪われやすい。
次に私が立つ場所は。
路地でも、法廷でもない。
戦場だ。




