聖女たるもの、守る相手を選べません
不穏さは、音もなく広がる。
噂は、怒号より厄介だ。
剣よりも、遅くて、深くて、止めづらい。
「最近、聖女様を見ないな」
「殴らなくなったらしい」
「もう、守ってくれないんじゃないか?」
私は、フードを深く被り、市場の片隅に立っていた。
「……来ましたね」
隣で、騎士団長が低く言う。
「ええ」
頷く。
「民を使う手です」
診療所の改革は、成功だった。
だからこそ。
次は、感情を壊しに来る。
広場の中央に、人だかり。
「どうしたんですか」
私は、近くの女に声をかけた。
「子どもが……」
指差した先。
十歳にも満たない少年が、地面に座り込んでいる。
「父親が、捕まったんだ」
周囲の声が、ざわつく。
「反聖女派の集会に出てたらしい」
「聖女のせいだ」
その一言で、空気が変わった。
「……」
私は、フードの中で目を閉じた。
最悪の形だ。
罪を犯した大人。
責任を押し付けられる子ども。
そして。
殴れない聖女。
「出てこいよ、聖女!」
誰かが叫ぶ。
「殴らないんだろ!」
「奇跡も起こさないんだろ!」
私は、フードを外した。
ざわめきが、一気に広がる。
「ここにいます」
静かに言う。
「話を聞かせてください」
少年が、顔を上げた。
怒りも、期待もない。
ただ、怯え。
「……父ちゃん、悪いことしたの?」
その一言が、胸に刺さる。
「……した」
私は、正直に答えた。
「でも」
しゃがんで、目線を合わせる。
「あなたは、していない」
「じゃあ、なんで……」
「大人の責任は、大人が取る」
周囲が、ざわつく。
「綺麗事だ!」
「守るって言ったくせに!」
私は、立ち上がった。
「守ります」
はっきり言う。
「ただし」
群衆を見る。
「誰か一人を守るために、
別の誰かを殴ることはしません」
「逃げてるだけだ!」
男が、前に出る。
私は、その目を見た。
「いいえ」
一歩も退かない。
「私は、選びません」
男が、拳を握る。
殴れば、正当防衛。
殴らなければ、嘲笑。
最悪の分岐点。
「……団長」
小声で言う。
「このままだと、暴れます」
「分かっています」
その時。
少年が、立ち上がった。
「……やめて」
小さな声。
「殴らないで」
全員が、少年を見る。
「父ちゃんが悪いなら、
怒られてもいい」
唇を噛む。
「でも……」
私を見る。
「聖女様は、
僕を殴らなかった」
沈黙。
「だから」
震える声で。
「みんなも、殴らないで」
空気が、凍りつく。
私は、ゆっくり息を吸った。
「……ありがとう」
少年の頭に、そっと手を置く。
「あなたは、何も間違っていません」
群衆の中から、誰かが呟いた。
「……子どもに、言わせるなよ」
怒りの向きが、変わる。
それで、十分だった。
その場を離れた後。
「……危なかったですね」
団長が言う。
「ええ」
私は、空を見る。
「でも」
拳を、開く。
「民は、駒じゃない」
「それを、見せました」
「ええ」
聖女たるもの。
守る相手を、
選べない日が来る。
それでも。
立ち続けるしか、ないんです。




