聖女たるもの、拳を振るえない日もあります
その日、王都は「静かすぎた」。
市場は開いている。
人も歩いている。
声もある。
それなのに、空気が薄い。
「……嫌な予感しかしませんね」
私は、南区と北区の境目に立っていた。
「今日は、殴らないでください」
騎士団長が、いつも以上に真剣な顔で言う。
「努力はします」
「努力目標にしないでください」
「善処します」
「信用できません」
その通りなので、反論しなかった。
今日、私が立たされている場所は、王都中央の孤児院前。
聖堂の管理下にあり、民からの信頼も厚い。
そして。
反聖女派が、最も「殴らせたい」場所。
「来ました」
団長の声が、低くなる。
人の波が、ゆっくりと集まってくる。
「聖女だ」
「象徴様だぞ」
「殴ってみろよ」
最後の一言が、耳に刺さった。
私は、深く息を吸う。
「……今日は、殴らない日です」
自分に言い聞かせる。
人垣の前に、一人の女が進み出た。
抱えているのは、小さな子ども。
「この子の父親、
あなたが捕まえさせたのよ」
静かな声。
だからこそ、重い。
「反逆罪ですってね」
周囲が、ざわつく。
「……」
「家族は、どうなるの?」
女の目は、泣いていなかった。
それが、余計に辛い。
「聖女様なら、分かるでしょう」
「殴れば、全部解決するんでしょ?」
私は、拳を握りかけて、開いた。
「いいえ」
首を振る。
「解決しません」
子どもが、私を見た。
怖がっていない。
でも、期待もしていない。
それが、胸に来た。
「あなたの夫は、罪を犯しました」
女の肩が、ぴくりと動く。
「でも」
私は、しゃがんで目線を合わせる。
「あなたと、この子は、違います」
「……綺麗事」
「そうです」
否定しない。
「今日は、殴れないので」
立ち上がる。
「代わりに、全部引き受けます」
「何を?」
「責任を」
周囲が、静まり返る。
「住む場所、生活、教育」
一つずつ、言葉にする。
「王都が、あなたたちを切り捨てないよう、
私が、矢面に立ちます」
「……なぜ、そこまで」
女の声が、揺れた。
「あなたに殴られる方が、楽なのに」
私は、少し笑った。
「私も、そっちの方が得意です」
周囲から、苦笑が漏れる。
でも。
「今日は」
真顔に戻る。
「殴ったら、負けなので」
反聖女派の男が、叫んだ。
「ほら見ろ!
聖女は、口だけだ!」
私は、男を見た。
「殴りません」
はっきり言う。
「でも」
一歩、近づく。
「逃げもしません」
男は、怯んだ。
拳が来ないと分かっているのに、下がる。
「それが、一番怖いんですよ」
私は、低く言った。
「責任から逃げない人間は」
沈黙。
やがて、誰かが拍手した。
一人、また一人。
大きな拍手じゃない。
控えめで、不器用な音。
それで、十分だった。
その場を離れた後、団長が言った。
「……殴らなかったですね」
「ええ」
空を見上げる。
「今日の敵は、人じゃなかったので」
聖女たるもの。
拳を振るえない日も、
ちゃんと前に立たされるんです。




