番外編②
第4話 風の味(ヒロ×ユーリ×タイチ)
放課後のグラウンドに、柔らかな風が吹いていた。
練習を終えた空は少し橙に染まり、
ベンチの影がゆっくりと伸びていく。
ヒロはユニフォームの袖で額の汗を拭き、
ポケットからおにぎりを取り出した。
中身はツナマヨ。いつもの味。
ーーもぐ、もぐ。
その音に気づいたユーリが、少し笑いながら隣に座る。
「ヒロって、ほんとによく食べるよね」
「うん。たぶん、考えるより先に食べるタイプなんだ」
「食べるのは昔からなの?」
「そうだな……昔から。
でも、一つだけ違うことがある」
「何が?」
ヒロは少しだけ空を見上げた。
夕陽が金色に滲んで、風がそっと髪を揺らす。
「――今は、一人じゃない。
だからかもしれないな。
同じおにぎりでも、前よりずっと美味しく感じる」
ユーリは目を丸くして、やがて微笑む。
「そっか……ボクも同じだ。
この学校に入って、タイチに出会ってからなんだ。
野球って、誰かとやるから楽しいんだね」
「確かに……そうだな。
タイチは、すごい奴だよ」
ヒロはそう言って、またおにぎりを頬張る。
“もぐもぐ”という音が、風に溶けていった。
その時――グラウンドの入口から声がした。
「おーい、二人ともー!」
タイチが、購買の袋を片手に駆け寄ってくる。
頬にはうっすら汗。手には三つのパン。
「期間限定のメロンパン、あったから買ってきたぞ!
一緒に食べようぜ!」
「!? それは……!」
ヒロの目がまん丸になる。
「俺が食べたかったパン……!! ありがとう、タイチ!」
ユーリも笑顔でパンを受け取る。
「ありがとう。ボクもメロンパン好きなんだ」
タイチは少し照れたように笑って、
ベンチに腰を下ろした。
「よかった。三人で食べると、もっと美味しいだろ?」
メロンパンの甘い香りが、風に乗って広がっていく。
空は茜から群青へと変わり、
グラウンドの照明が一つ、また一つ灯り始めた。
――この時間が、ずっと続けばいい。
そんな風に思える夕暮れだった。
第5話 ハンバーグ論争(タイチ×リュウジ×ヒカル)
夕焼けのグラウンド。
練習終わりの空気には、土と汗が混じった甘い匂いが漂っていた。
タイチはバットを片手にベンチへ腰を下ろし、ふぅ、と息を吐く。
スパイクの裏にこびりついた泥を指で落としながら、
(ああ、今日もリュウジ先輩、かっこよかったな)とぼんやり思っていた。
――リュウジ先輩。チームのエースにして最年長。
怖そうに見えて、誰よりも努力家で仲間想い。
それを知ってから、タイチは少しでも近づきたくて仕方がなかった。
だが、話しかけるきっかけがない。
練習では常に集中していて、打ち上げでも女子より男子が避けるほどの“オーラ”。
下手な話題を出せば睨まれる気がして、いつもタイミングを逃していた。
「……よし、聞いてみるか!」
意を決して立ち上がったタイチは、キャッチャー装備を片づけていたヒカルに駆け寄った。
グローブを外したばかりのヒカルは、夕陽を浴びて涼しげに笑っている。
「ヒカル先輩! あのっ、ちょっと聞きたいことが!」
「どうしたの、そんなに慌てて」
「リュウジ先輩って、ヒカル先輩の幼なじみですよね!? 好きな食べ物とか、知ってます!?」
「……好きな食べ物?」
ヒカルは思わず目を瞬かせ、それから喉の奥でくすりと笑った。
「珍しい質問だね。うーん、そうだな……唐揚げとハンバーグかな」
「ほんとですか!?」
タイチの目がキラキラと輝く。
「オレもハンバーグ大好きなんです! 今度話してみます!」
ヒカルは苦笑しながら肩を叩く。
「頑張って。……ただし、あんまり突っ込みすぎないようにね?」
「え、どういう――」
「まあ、見れば分かるよ」
意味ありげに笑って、ヒカルはロッカー室へ消えた。
――その言葉の“意味”を、タイチが理解するのは翌日のことだった。
昼休み。
球場近くの食堂には、野球部員たちの笑い声が響いていた。
湯気を立てる味噌汁、カツ丼の香ばしい匂い。
そして――今日のターゲット、リュウジ先輩の背中。
(よし、自然に話しかけるんだ。自然に……!)
トレーを持ったタイチは、緊張で少し手を震わせながら、リュウジの隣へ腰を下ろした。
エースは黙々とハンバーグを食べている。
その表情は、試合中と同じくらい真剣だ。
「リュウジ先輩!」
「……なんだ」
「ハンバーグ、やっぱデミグラスソースが王道ですよね!!」
……一瞬、空気が止まった。
次の瞬間、リュウジが箸をピタリと止める。
「……は?」
低い声。背筋に冷たい汗が流れる。
「ハンバーグは大根おろしポン酢だろ。デミグラスとか、重いだけじゃねぇか」
「えっ!? い、いや、でもあのコクが……!」
「ポン酢のさっぱり感が至高だ」
「デミグラスの深みがッ……!」
いつの間にか、食堂の周囲がざわめいていた。
「おっ、また新入生がやらかしてるぞ」「あれはタイチ……無謀だ……」
まるで試合前の円陣のように見守られている。
リュウジの目が細くなる。
タイチも負けじと身を乗り出す。
ハンバーグの皿の上で、フォークがカチリとぶつかる音が響いた。
「……結論から言うと、先輩、ハンバーグって奥が深いですよね!」
「……まあ、好みだな」
二人、同時に箸を置いた。
張り詰めていた空気が、少しだけ緩む。
リュウジが鼻を鳴らして言った。
「お前、意外と根性あるな。普通なら引くぞ」
「ハンバーグに情熱を注げる男ですから!!」
「……知らねぇよ」
呆れたように笑ったリュウジの顔は、夕焼けよりも穏やかだった。
食堂を出たあと、タイチは自分の胸を叩いて笑った。
(食の好みって……ほんと千差万別だ)
だけど、それでいい。
少しでも距離が縮まったなら、それだけで嬉しい。
窓の外、グラウンドに風が吹く。
汗の匂いと、ソースの香りを混ぜながら――
今日も、野球部の青春は続いていく
第6話 サングラスの誓い(リュウジ×レオ)
昼下がりの談話室。
窓から射す陽光が、机の上の麦茶をきらりと光らせていた。
氷が溶けて“カラン”と鳴る音だけが、部室棟の静けさに響いている。
レオは背筋を伸ばしてグラスを両手で包み、目を細めた。
その表情はどこか誇らしげだった。
「リュウジ殿、このサングラス……調子がいいです!」
晴れやかな声。
窓の外から差す陽光が、レンズに反射して七色に瞬く。
談話室のドアの前に立っていたリュウジは、
その様子に思わず笑みを浮かべながら中へ入ってきた。
「おう、気に入ったか」
グローブを肩に引っ掛け、椅子に腰を下ろす。
机の上には、アイスピックで砕いたばかりの氷入りの麦茶。
琥珀色の水面が、夏の午後を映していた。
「はい! あれから日差しも気にならず、
視界も鮮明に……まるで“世界が変わった”ようです!」
「大げさだな」
笑いながらも、リュウジの目は優しい。
指先でグラスを回し、氷がカランと音を立てた。
「でも、そう言ってもらえると嬉しいな。
俺も昔、先輩からもらったんだよ。
“お前の顔は強面だから、これで少しは柔らかく見える”ってな」
「……なるほど、それで自分に?」
レオが首を傾げる。
リュウジは軽く笑い、顎に手を当てる。
「まあ、似合いそうだったから。
あと……あの試合のあと、お前の目がまっすぐだったからな」
「自分の……目ですか?」
「そう。
負けた後でも、あんな目ができる奴はそういねぇ。
悔しさと闘志を隠さない目。
“次は必ず勝つ”って、言葉よりも先に目で言ってた」
レオの喉が小さく鳴った。
頬がほんのりと熱を帯びる。
麦茶の氷が音を立て、時間が静かに流れる。
「……リュウジ殿。自分、そんな風に見えていたんですね」
「見えてたさ。だから渡した。
そのサングラスは、“負けても顔を上げる奴”の証だ」
言葉が落ち着いた空気を打つ。
レオは唇を結び、深くうなずいた。
心の奥が、じんわりと温かくなる。
「リュウジ殿……必ず強くなります。
次は、貴殿と肩を並べる男になります」
「ハハ、上等だ」
リュウジは立ち上がり、軽く拳を合わせた。
カラン、とグラスの氷が転がる。
夕陽が窓を染める。
談話室に満ちた麦茶の香りと二人の声が、
夏の午後の空気に溶けていく。
扉を閉めたあと、リュウジはひとり小さく息を吐いた。
ふと窓の外を見ると、レオが廊下を駆けていく背中が見える。
その動きはぎこちなくも、まっすぐで、どこか眩しかった。
「……まっすぐすぎる奴だよな、ほんと」
呟いて、リュウジは笑う。
その笑みは、わずかに懐かしさを帯びていた。
――あの頃、自分も同じように“まっすぐ”だった気がする。
氷の音が、再び静けさの中に溶けていった。
第7話 夕映えのグラウンドで(ヒカル×ショート)
夕暮れのグラウンド。
橙の光がロングノックの土煙を金に染めていた。
ショートは肩にグローブを掛け、ゆっくりと息を吐く。
今日の練習も、もう終わりだ。
風がやさしく吹き抜ける。
遠くで聞こえるのは、まだ守備練習を続けている一年生たちの声。
その声を聞きながら、ショートは自然と口元をほころばせた。
「いや〜、最近の練習は楽しいね」
軽い声色。だが、その目はどこか遠くを見ている。
「ショートがそう言うの、久しぶりに聞いた気がするな」
背後から声がした。
振り向くと、キャッチャーマスクを片手にしたヒカルが立っていた。
少し笑いながら、額の汗をタオルで拭っている。
「……そりゃ、あいつらが面白すぎるからさ。特に、ユーリ君」
「やっぱりね」
ヒカルの返事は、どこか意味深だった。
ショートは苦笑しながら髪をかき上げる。
風に揺れた髪が、夕陽に透けて輝いた。
「見ていて飽きないんだよね、あの子。
守備のときも打撃のときも、一生懸命で……。
なんというか、思わず手を伸ばしたくなるっていうか」
「……それ、まるで恋みたいな言い方だね」
ヒカルの口調は穏やかだが、目は笑っていなかった。
その“からかい”に、ショートは思わず動きを止める。
「こらこら、誤解を招くようなこと言わないでよ〜。
俺はただのチームメイトとして、ね?」
「本当に?」
ヒカルが少しだけ首を傾げる。
その表情は、全部見透かしているような静けさを帯びていた。
――数秒の沈黙。
ショートは、ため息と一緒に笑った。
「……まいったなぁ、やっぱりヒカルには敵わないや」
「それ、認めるってこと?」
「認めるわけじゃないけど……まぁ、ちょっとは図星、かな」
夕陽の光が、ショートの横顔を染める。
笑っているはずなのに、瞳の奥は少しだけ切なかった。
「俺、昔好きだった人がいてね。
その人が野球をしてたんだ。
それがきっかけでバットを握った。……だから、今も球を追いかけてる」
「そうだったんだ」
ヒカルは静かに頷く。
ショートの言葉の奥にある“まだ終わっていない想い”を感じ取っていた。
「その人には、想いを伝えたの?」
「伝えてないよ」
ショートはあっさりと笑う。
「伝えたら終わっちゃいそうだったからさ。
……でも、傍で笑ってくれるだけで十分だと思ってる」
風が吹き、グラウンドの砂を巻き上げる。
空の赤が少しずつ夜の藍に溶けていく。
「ショート。……君のそういうところ、ちゃんとみんな見てるよ」
ヒカルは穏やかに言い、バットケースを肩に担ぐ。
「でも、あまり自分を閉じ込めすぎるな。野球でも、人でも」
「……気をつけるよ」
ショートは小さく笑った。
その笑みの奥には、“今はまだ届かない誰か”を見ているような、
淡い哀しみがあった。
ヒカルが歩き出す。
ショートはその背中に手を振りながら、空を見上げた。
――セカンドでボールを追うあの小さな背中が、
今日もまぶしく見えた。
「……まったく、どうして君なんだろうね、ユーリ君」
独り言のような声が、夏の風に紛れて消えていった。




