第一部・最終話「それでも、野球を」
オレが全身の力を込めて振り切った、最後の一球。
白球が唸りを上げ、レンの目前を通り抜ける。
バットが空を裂く音――それだけが耳に残った。
……勝った。
打席勝負は、確かにオレの勝ちだった。
けれど、その瞬間、身体は限界を迎えていた。
汗に濡れた指が、もうボールを握り切れない。
肩は鉛のように重く、呼吸は砂を噛むみたいに痛い。
次の打者への初球。
乾いた音が夜気を裂いた。
打球は白い弧を描きながら、ゆっくりと外野の奥へ消えていく。
――サヨナラ。
あまりに静かな敗北だった。
球場の空気が、ほんの一拍遅れて動く。
歓声でも、泣き声でもない。
ただ“終わった”という現実だけが、心に突き刺さった。
ベンチに戻る。
空気は重く、湿っている。
土の匂いに、悔しさが混ざっていた。
キャプテンの瞳から、音もなく涙が零れ落ちる。
いつも冷静なリュウジ先輩が、唇を噛みながら肩を震わせていた。
「……くっそ……!」
嗚咽が、土の上に落ちる。
誰も言葉を出さない。
泣くしかないほど、全員が全力でやった。
それでも届かなかった。
オレだけ――涙が出なかった。
夏の夜空を仰ぐ。
照明の光に照らされた入道雲が、白く滲んでいる。
手を伸ばせば届きそうなのに、どこまでも遠い。
心の奥で、何かが凍りついていた。
手のひらに残る汗と土の感触だけが、今の自分を繋ぎ止めていた。
整列のあと、両チームがそれぞれのベンチへ戻ろうとしたその時――。
「タイチ!」
背中を貫くような声に、反射的に振り返る。
照明の逆光の中、レンが立っていた。
汗と涙に濡れた顔。それでも、まっすぐな目をしていた。
「また来年ここで会おう! その時は――お互い、エースだ!」
声が風に乗って届いた。
迷いも、後悔もない、真っすぐな約束。
その言葉が胸の奥で爆ぜ、熱が広がった。
喉の奥が痛い。何も言えない。
ただ頷くことしかできなかった。
帰りのバス。
窓の外は、すっかり夜だった。
街灯が流れていくたびに、心の奥がちくりと痛む。
座席のあちこちで、仲間たちが眠っている。
バットケースの金具が、車の揺れに合わせて小さく鳴った。
金属音がまるで、まだ続く戦いを告げているみたいで――
ようやく、こらえていた涙が溢れた。
悔しい。
どうしようもなく、悔しい。
でも、もう逃げない。
レンは言った。
“またここで会おう”と。
終わりじゃない。
ここからだ。
オレたちは、まだ――野球を続けられる。
この「煌桜チーム」で。
外では、セミの声がかすれていく。
夏の終わりを告げるように、夜風が頬を撫でた。
遠くで、誰かがバットを振る音が聞こえる。
野球が衰退したこの世界で、
それでも白球を追いかける者たちがいる。
グラウンドに立ち、泥にまみれながら笑う仲間たちがいる。
オレも、そのひとりだ。
ただ、野球を――愛しているだけの人間がここにいる。
夜空の向こうで、微かな風が吹いた。
それはまるで、もう一度走り出せと言っているみたいだった。
第一部・完




