第59話 7回裏で
七回を終えて、スコアは6―6。
互いに譲らぬ攻防の末、いよいよ最終回。ここを零で切れば、まだ勝ち筋は残る。
汗で重くなったユニフォームが肌に貼りつき、鼓動がひときわ大きく鳴った。
「――点は、やらない」
土の硬さを踏み締め、マウンドに誓う。
最初の打者は俊足のトウリ。
(様子見るな。懐を攻めろ)――ヒカル先輩のサインは鋭い。
インハイで度胸を試し、アウトローで目線を落とす……はずだった。
二球目、完璧に投げ分けたつもりの外角低め――
「キィン!」
僅かな踏み込みで、トウリが芯に乗せて一塁線突破。
土煙の向こう、審判の右手が伸びる。「セーフ!」
一気にリードを広げるトウリ。
牽制を続けるたび、あいつは余裕の笑みを投げてくる。
汗が掌に滲み、指先がわずかに震えた。
次打者は出塁率トップのエイト。
(焦るな。お前の球を信じろ)――ベンチの監督の目が、言葉の代わりに背中を押す。
深呼吸。夜気を肺いっぱいに吸い込み、雑音を吐き出す。
「ここからだ」
サインはバント警戒。初球、内角高め。
エイトのバットがわずかに遅れ、キャッチャーフライ。
ヒカル先輩が素早く前進して一塁へ送球、アウト。
――だが、その隙にトウリは二塁を陥れる。「セーフ!」
走者二塁、一死。
ここで――レン。
バットを肩に担ぎ、ゆっくりと笑む。挑発じゃない。ただ“勝負が楽しくて仕方ない”目。
胸が早鐘を打つ。ロジンを叩いたはずの指が、さっきは大暴投を生んだ。もう二度と、あれは許されない――そう思うほど、最悪のイメージが頭に絡みつく。
「タイム!」
ヒカル先輩の澄んだ声。守備陣が輪をつくる。
「不安なんだろ。“また打たれるかも”って」
ヒカル先輩が肩にそっと手を置く。
「……はい。すみません」
「バカ言え」リュウジ先輩が低く言い切る。
「俺だって痛打は怖ぇ。でも後ろに仲間がいる。忘れんな、タイチ」
「二遊間もついてるって〜」ショート先輩が明るく肩を叩き、
「僕たちが守るから」ユーリがまっすぐ瞳で続ける。
「サードは任せて」「センターもな」――ヒロたちの声が重なる。
指先の震えが消えた。
――そうだ。オレはひとりじゃない。
審判の合図。皆が散っていく。スタンドから「煌桜!」の声。
マウンドに一人。もう足は迷わない。
レンがバッターボックスに入る。目が合う。わずかに、笑う。
(来いよ――全力で)
その瞬間、ふっと記憶がひらく。
――――――――
〈幼い日の居間、古いテレビの前〉
「なぁ、じいちゃん。オレも“これ”やりたい!」
「いいかタイチ。“それ”はひとりじゃできん」
「じゃあ、じいちゃんがいるじゃん。一緒にやろうよ! それ、なんていうの?」
「……これはな――“野球”だ」
画面の投球音と同時に、じいちゃんの笑い皺。
〈河原のキャッチボール〉
「タイチ、野球は続けた分だけ楽しくなる。信じて続けりゃ、仲間に出会える」
――――――――
(レンに“じいちゃん”を重ねるのはやめだ。レンはレン。オレはオレだ)
帽子のつばを握り直す。
ヒカル先輩のミットが、静かに内角高めを示した。
初球――真っ向勝負。
「っしゃあ!」
足を高く上げ、胸を張る。
体重を一本の軸に集め、指先で縫い目を切り裂く。
――パァン!
乾いた爆音。ミットが揺れた。見送りのストライク。
レンの眉が、わずかに上がる。
二球目。外へ逃がすスライダーで目線をずらす。
三球目。落ちる球の“見せ球”で空振りを誘う――レンは見切る。
カウントは追い込んだが、簡単じゃない。ここからが本当の勝負だ。
(“ひとりじゃできん”。なら――)
ヒカル先輩がごく小さく頷く。サインは、内へ食い込む“風の”スライダー。
虎の巻に書かれていた、あの一本。わずかな親指の入りで、空気を切る。
トウリが二塁で身を沈める気配。歓声が遠のく。
世界が、ミットの芯だけになる。
「――行くぞ、レン」
全身の力を、最後の一球に集めた。
ボールは打者の胸元へ吸い込まれ、直前で鋭く切れた。
レンのフルスイングが、芯を数ミリ外す。
「――ッ!」
高いバウンド。三遊間前へ転がる小飛球。
ショート先輩が一歩目で読み切って前進、素手で掬い、一塁へ――
「アウトォ!」
どよめきが爆発する。トウリ動けず。二死二塁。
レンの悔しげな笑みと、こちらのガッツポーズが交差した。
(まだだ。あと“一つ”)
次打者の初球、思い切りのよい外角ストレート。
詰まった打球は、ユーリの正面。
一度だけ弾きかけたグラブを、彼は体で止めて拾い直し――一塁、送球。
「アウト! チェンジ!」
照明の白が一気に明るくなる。
ベンチへ駆け戻る足が、もう地面を選ばない。
胸の奥で、確かに“風”が吹いた。
余韻を味わう暇はない。ここから、取りに行く。




