第58話「捕手の眼、監督の眼」
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ベンチに戻った監督は、腕を組んだまま動かなかった。
グラウンドを見つめるその横顔は、まるで現役時代に戻ったようだ。
長年、数えきれない投球を受け止めてきた“捕手”の顔。
静かな光を宿した瞳の奥に、修羅場をくぐった男の鋭さがあった。
額を伝う汗が陽光を反射して、一瞬だけ白く光る。
寡黙だが――その背中が、すでに戦況を支配していた。
「注目すべきはレンじゃない」
低く、しかし確信に満ちた声が落ちた。
思わず、オレもユーリも息を呑む。
「……捕手の方だ。」
静かな一言。けれど、まるでベンチ全体の空気を切り替えるスイッチみたいだった。
監督は、わずかに顎を上げてグラウンドを指す。
「俺は昔、捕手をしていた。だから分かる。
落ち着いて――今の打席を、よく見ろ。」
声に“重み”があった。
命令でも、励ましでもない。
ただ純粋に、“野球を知る者”の言葉。
その瞬間、ベンチに漂っていた焦燥がすっと薄れた。
呼吸のリズムが戻り、鼓動が落ち着く。
監督の一声だけで、場の緊張が整えられていく。
言われた通り、レンではなく捕手に目を向ける。
打席では仲間が粘りに粘っていた。
だが――おかしい。
フォークを投げてこない。
(捕手に注目しろ……)
監督の声が頭の奥で反響する。
レンではなく、あの捕手――。
よく見ると、球を受けるたびにミットがわずかに揺れている。
あの剛速球を完全に制御しきれていない。
ストライクゾーンすれすれの球が、“ボール”と判定されていた。
「……そうか。そういうことか!」
思わず声が漏れた。
「え、どうしたのタイチ!?」
ユーリとヒロが身を乗り出す。
「レンの球は速すぎて、捕手のミットがぶれてる。
審判の目にはストライクが“外れて”見えるんだ。
つまり――フレーミングが決まらない!」
「フレーミング?」ヒロが首をかしげる。
オレは即座に答えた。
「ボール球をストライクに“見せる”捕手の技術だよ。
写真で言えば、手ぶれを抑えてピタッと止める感じ。
でも今の捕手は、あの球威に腕を持っていかれてる。」
「あ、なるほど……!」ヒロが目を丸くする。
ユーリもハッと息をのんだ。
その間にも、打席の仲間は粘り続けている。
ファールで延命し、ストライクを許しても球数を稼ぐ。
一球一球が、レンの体力を確実に削っていた。
(……監督の狙いだ)
フルカウントまで粘れ――その意図が、確かに見えた。
虎の巻の一文が、脳裏をよぎる。
“人の目は横の変化に強く、縦の変化に弱い”
捕手がレンと組んだのは最近。縦の変化球は、まだ完全には制御できていない。
「少し見ただけで、そこまで見抜くなんて……監督、すごい」
ユーリが小さく呟く。
ヒロは興奮したように続けた。
「そういえば聞いたことある!ウチの監督、日本代表だったって!」
そうだ。
地区大会の決勝でリュウジ先輩の想いを汲んで采配を下した――あの判断。
修羅場を越えた者の“読み”が、今まさに蘇っている。
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レンが投げた次の一球――外れる。
審判の右手は、動かない。
「ボールフォア!」
グラウンドがどよめいた。
レンがわずかに顔をしかめ、唇を噛む。
キャッチャーは悔しげにミットを見つめた。
ベンチの監督は、その様子を見て静かに頷く。
拳を軽く握り、口元がわずかに緩む。
ガッツポーズにも似た、その仕草に確信が宿っていた。
陽射しが沈みかけ、グラウンドがオレンジ色に染まる。
監督の横顔がその光を受けて、まるで炎のように輝いて見えた。
その背中――広く、分厚く、温かい。
まるで、チーム全員の想いを受け止める巨大なキャッチャーミットのようだった。
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ベンチの空気が、再び動き出す。
風が吹いた。
戦いの流れが、こちらに戻ってきた。




