第51話 神威岬、牙を剥く
炎天下、熱気と期待が渦巻くグラウンドで、俺たちの“現在”が試される。
仲間の汗、先輩たちの背中、そして、立ちはだかる強敵。
そのすべてを風が見ているーー。
ーー轟音のような歓声が球場を揺らした。
レンがフルスイングで放った打球は、弾丸のようにスタンドへと吸い込まれていった。
「ホームランッ!!」
アナウンスが響いた瞬間、神威岬ベンチは総立ち。まるで風の流れが一気に変わったように、
空気が“あちら側”へ傾いていくのが、肌でわかった。
次の打者も、リュウジ先輩の豪速球をしっかりと捉えてくる。それでも先輩は眉ひとつ動かさず、
ただ無言で己の球を投げ続けていた。
その背中に滲む汗は、俺の倍ーーいや、それ以上だ。
打球が自分の守備位置に飛んでくるたび、
土の匂いと風の音だけが世界を満たす。
回転を読み、反射的に走る。
気づけば全身、ユニフォームごと汗が張り付き、
息をするだけで体温が跳ね上がっていた。
今の気温は38度。まだ2回の守備だ。
まるでサウナで試合をしているようだ。
ベンチを見やると、リュウジ先輩がヒカル先輩からドリンクを受け取っていた。
監督も眉をひそめ、彼の体調を気にかけている。
熱中症は命取りになる。
この炎天下で、“精神力”が勝負を分ける。
「……この暑さだ。お前を早めに出すかもしれん。心の準備をしておけ」
監督の低い声が耳に残る。
胸の奥がざわついた。
(まだ、出たくはない。リュウジ先輩の背中が、戦っているんだ)
だけど同時に、
いつでもマウンドに立てるように心が熱を帯びていく。
三回のオレ達の攻撃の番。
相手投手の球は切れ味を増していた。
どんな打球も、鉄壁の二遊間が冷ややかに捌いていく。
打っても打っても、“OUT”の文字がスコアボードに並んだ。
そして運命の三回裏がやってきた。
神威岬がーー牙を剥く。
打席のトウリが、リュウジ先輩のストレートを鋭く弾き、一塁へ出た。
俊敏で、隙のないスイング。
あの冷静な目の奥には、まるで野性の火が灯っている。
監督がサインを出す。
(盗塁に注意)
オレも視線を外さず、牽制の準備を取った。
だが、トウリは動かない。
リュウジ先輩がセットに入る。
ヒカル先輩がミットを構える。
その刹那ーー
「行った!?」
ヒカル先輩の捕球と同時に、トウリは風そのものになった。地を蹴り、音もなく駆ける。
一塁から二塁へ、
その動きはまるで獣の跳躍。
ヒカル先輩が反射で二塁へ送球!
そしてセカンドのユーリが身を投げてタッチ!
だけどーー
「セーフ!!」
審判の声が、炎天下に響いた。
その瞬間、神威岬の応援席が爆発する。
耳が焼けるほどの歓声の中、
ユーリは唇を噛み、俺はただ息を呑んだ。
マウンドのリュウジ先輩は明らかに落ち着かない。塁上のトウリに意識を奪われ、投球に集中しきれていない。
そのトウリは、二塁から大きくリードを取り、牽制を誘ってくる。
左投手にとって三塁への牽制は体の向きを変えねばならず、致命的に不利だ。
その“弱点”を、トウリは当然のように理解していた。
まるで獲物を追い詰める狐のようだった。
打席に立つのは、出塁率でトウリに次ぐ俊足のエイト。映像で見た彼の走力は本物だった。
外野に抜ければ、エイトもトウリは迷わずホームへ突っ込むだろう。
だが、敬遠はできない。
神威岬の打線は誰もが主軸級。
下位打線に逃げたところで、確実に打ち返される。
“どこを歩かせても痛い”ーーそんなチーム相手に、逃げ道など存在しなかった。
キャッチャーのヒカル先輩がサインを出す。
(アウトロー、ギリギリを攻める!)
だが、トウリを気にしたリュウジ先輩の球は、
わずかに外れてボール。
研究し尽くされたような展開に、息が詰まりそうになる。
カウントはすでにフル。
次が勝負球。
監督の視線が、ベンチの奥から突き刺さる。
(フォアボールだけは避けろ……エイトを塁に出したら、さらに地獄だ!)
ーーそして、勝負の一球。
「キィンッ!」
乾いた快音が球場に響いた。
打球は三塁線ギリギリを転がる。
ファウルか、フェアか。
ほんの一瞬の迷いが命取りになる。
(取るしかねぇ!!)
オレは全力で飛び込む。
土が爆ぜ、ユニフォームが赤土を巻き上げる。
ギリギリで球を掴み、体勢を崩しながらーーホームへ送球!
肩が悲鳴をあげる。
それでも構わない。
(間に合え……間に合ってくれ!!)
ホームへ突っ込むトウリは、もう加速を終えていた。
地を裂くようなスライディング。
白いスパイクが砂を跳ね上げ、キャッチャーミットと交錯する。
ーー刹那。
球と走者、そしてグラブが同時にぶつかり合う。
衝撃音が、心臓を殴るように響いた。
審判の腕が大きく横に広がる。
「セーーーフッ!!」
無情なコール。
胸の奥が焼けるように熱くなる。
あと一歩、ほんの一瞬早ければアウトにできたのに。
歯を噛みしめ、こみ上げる悔しさを押し殺す。
それでも、まだ終わりじゃない。
ランナーは残り、窮地は続く。
だけどオレは、闘志を燃やす。
(……ここからだ。まだ、勝負は終わっていない!)
ここまで読んでくださって、ありがとうございます(^^)
ディレードスチール(Delayed Steal)というのは、
“一度走るタイミングをずらして、相手バッテリーの隙を突く盗塁技”です。
普通の盗塁がピッチャーの投球動作に合わせてスタートするのに対し、
ディレードスチールは、捕手が一瞬油断した瞬間に走る高度なプレー。
しかもこの暑さの中で決めてくるあたり、
トウリは冷静さと判断力、両方を持ったプレイヤーだと分かりますね。
次回は、いよいよ試合の中盤へ!




