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「◎すいたい」衰退しちゃった高校野球。堕ちた名門野球部を甲子園まで  作者: 末次 緋夏
準決勝 神威岬戦

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第48話 在りし日の九品寺兄弟  

 最初はーー嫉妬だった。

あいつばかりが褒められて、光の中にいた。

俺はその後ろで、ただ必死に食らいついていた。


でも、ある日気づいたんだ。

本当は、勝ちたかったんじゃない。

ただ、あいつをーー守りたかっただけなんだ。


けれど、その気持ちを言葉にできなかった。

だから、すれ違った。

あの日の風のように、互いの想いは届かないまま過ぎていった。


これは、そんな俺たちの“再生”の物語。




 九品寺家ーーそれは、古くから名を連ねる由緒正しき家系。幼いころから、その「重さ」は嫌でも肌で感じていた。


客間にはいつも大人の影があった。

母の知人、父の取引相手、親戚、教師。

その誰もが、礼儀と作法を“当然”のように求めてきた。


箸の持ち方、姿勢、声の大きさ。

ひとつの所作で、評価も印象も決まる。

そんな場所は「家」ではなく、“舞台”だった。


遊ぶ時間なんて存在しない。

ピアノ、書道、英会話。

分刻みの予定をこなすことが日常で、息をするように訓練を受けた。


そんな中でも、ユーリはよく泣く子だった。

ピアノの音を外すたび、震える声で「ごめんなさい」と繰り返す。

俺はその背中を見て、ただ歯を食いしばった。

(泣くな。泣いたらまた叱られるぞ)

言えなかったその一言が、今でも胸の奥に残っている。


そんな弟が、初めて“笑った”のは野球だった。


理由はくだらない。

「うちからプロ野球選手を出したから」

ーー父のその一言で始めただけのはずだった。

けれど、白球を握るユーリの目は、どの大人の前に立つ時よりも輝いていた。


それを見た瞬間、胸の奥に小さな火が灯った。

(負けたくない)


そう思って、俺はバットを握った。

手の皮が裂けても、血が滲んでも構わなかった。

ユーリが褒められるたび、心の奥がチクリと痛んだ。


だけどある日、練習後にユーリが言った。


「兄ちゃん、すごい」


尊敬のこもったまなざしで、まっすぐにそう言った。

その時、初めて気づいた。


(俺は……弟に嫉妬していたんだ)


胸の奥の火が、一瞬だけ静かに消えた。

バットを振る手が止まり、しばらく空を見上げていた。

その空の青さが、どうしようもなく苦しかった。




それでも、あの日から俺は決めた。

ユーリに負けたくない。

けれど、同時にーー守りたい。


それが“兄”としての俺の在り方だった。



やがて、大人たちの視線はあっさりと俺に向いた。

「やはり長男の透里こそが本物だ」と。

今度は、ユーリが冷たく評される番だった。


(バカか、あいつら)

そう心で吐き捨てながらも、弟を庇い続けた。

けれど、当のユーリはいつもおどおどと視線を伏せたままだった。


(お前だって才能がある。胸を張れよ)

その言葉を、俺は最後まで言えなかった。




中学時代、俺たちは二遊間を守っていた。

俺が遊撃手ショート、ユーリが二塁手セカンド

呼吸を合わせれば、どんな打球でも捌ける。

それが当たり前で、それが“兄弟”だった。


だがその日綻びが生まれた。


鋭い打球がセカンドへ。

ユーリが飛びつくが、グラブを弾き、ボールは転がっていく。

ランナーが帰り、ベンチがざわついた。


「何やってる! 二遊間の連携が崩れてるぞ!」


監督の怒声に、ユーリが小さく震える。

唇を噛み、かすれた声でつぶやいた。


「ごめん……兄さん……」


俺は息を整え、帽子を軽く下げた。


「仕方ない。今のは俺が悪い」


(お前の分も、俺がカバーする)


その想いを胸に隠し、視線を前へ向ける。

それだけで、ユーリの表情が少しだけ緩んだ。

それでよかった。

それだけでよかった。





中学三年の春。

進路を決める時期に、父から呼び出された。


重い襖を開けた瞬間、背筋が凍る。


「透里、話がある」


机の上には茶が二つ。

だが、向かいに座るのは俺だけだった。


「いくら我が家が名家とはいえ、両方を神威岬に入れるのは金銭的に無理だ。

 優秀な方を選ぶしかない」


静かな声。

だが、その静けさが一番怖い。


「優秀な方って……」


「お前だ。透里。優理は最低限野球ができる学校で十分だ」


息が詰まる。喉の奥が焼けるように痛い。


「……ふざけるな」


父の表情は微動だにしない。


「これは決定事項だ。分かってくれるな?」


その言葉で、すべてが終わった。


拳を握りしめる。

何もできない自分への怒りがこみ上げる。


(怒鳴ったら終わる。

 この話を、ユーリにだけは聞かせちゃいけない)


唇を噛む。鉄の味が口に広がる。


「……分かりました」


絞り出すように答えた声は震えていた。

けれど父には、きっと届いていなかった。




神威岬に進んでからも、俺は練習試合の名簿を確認し続けた。

どこかに、ユーリの名前があるんじゃないかと。


そして春の練習試合。

東京の学校との対戦相手の欄に、その名前を見つけた。


「透里兄さん……どうしてここに?」


久しぶりに聞いたその声は、冬の針のように細かった。


(どうしてって、探してたんだよ。ずっと)


心で叫んでも、口から出たのは乾いた一言だけ。


「……久しぶりだな」


胸の奥が、変な音を立てて軋んだ。


そこへエイトが現れ、空気を切り裂くようにユーリを侮辱した。

レンが慌てて制したが、雰囲気は壊れたままだった。

俺もユーリの顔を見られず、ただエイトの背を追って球場を出た。


(再会のはずが……何やってんだ、俺は)




試合が始まる。

打席に立つたび、視線が勝手にセカンドへ吸い寄せられる。

無意識に睨みつけるような形になる。


ユーリの表情は固く、遠くを見ていた。

だが、試合が進むうちにその瞳は変わっていく。


怯えが消え、真っすぐな光が宿っていた。

集中した顔。

遊撃手ショートの呼吸も完璧で、まるで長年の相棒のようだった。


(ふざけるな……そこは、俺の居場所だ。返せ!)


胸の奥が焼けるように痛む。


試合は敗北。

だが、勝敗なんかどうでもよかった。

本当に痛かったのはーー知らない誰かと二遊間を組むユーリの姿だった。


ユーリは笑っていた。

俺の前では、ほとんど見せたことのない笑顔で。


頬を伝うものがあった。

冷たく、小さな音で床に落ちた。

慌てて手の甲で拭っても、止まらなかった。


笑ってごまかそうとしたが、喉が痛くて、何も言えなかった。




寮に戻ると、真っ暗な部屋で布団にくるまった。

世界から自分を切り離すように。


悲しいとき、辛いとき。

昔から、いつもこうだった。


ユーリはきっと知らない。

兄がこうして泣いていたことなんて。


鼻の奥が痛い。

涙が喉の裏を流れる妙な感覚に、初めて気づいた。


そのときーー。


廊下の奥から「ダン、ダン」と足音が響く。

重く、乱暴で、でもどこか安心する音。

誰なのか、すぐ分かった。


「おーい、トウリ! いるんだろ!? 入るぞ!!」


ドアが勢いよく開く。

そして俺が包まっている布団を無理に引き剥がした



「ヒッデェ顔だなァ、トウリぃ。お前、泣きすぎだろ」


呆れたような、でも優しい声。


「……出ていけって言っただろ。遠慮ってものを知らないのか」


「ハッ、遠慮? あいにくだが俺にはないね」


吐き捨てるように笑うエイト。

その笑いが、夜の静寂を少しだけ温かくする。


「今日はお前の弟、舐めてたよ」


エイトはベッドの端に腰を下ろし、膝を揺らす。

「なかなかやるじゃねぇか。誰かに負けて、こんなに悔しいの、初めてだ。

 ……次こそは、絶対勝つ」


怒りでも慰めでもない。

そこにあるのは、まっすぐな“本気”だけだった。


「……弟に、勝ちたいのか」


かすれた声で問うと、エイトがニッと笑う。


「勝ちたいさ。弟でも、兄でも、どっちでもいい。

 俺は“お前と組んで”、全部まとめて勝つんだよ」


その一言が、胸の奥を撃ち抜いた。

誰にも届かないと思っていた場所に、真っ直ぐ届いた言葉だった。


(……勝つ、か)


涙はまだ止まらないのに、不思議と苦しくはなかった。

代わりに、胸の奥で何かが“灯る”のを感じた。


沈黙の中、エイトが立ち上がる。

「……明日から、また練習な」


短くそう言って、乱暴にドアを閉めた。

“ダン、ダン”という足音が遠ざかっていく。


けれど、不思議だった。

あの音が、今はうるさく感じない。


まるで、氷の底に少しずつ“火”が灯るように。

胸の奥で、何かが静かに動き始めていた。


「次は、勝ってやるーー必ず」


小さな決意が、波紋のように広がっていく。

それはまだ幼い、“再生の風”だった。






トウリという人物は、“沈黙で守る兄”の象徴です。

彼の優しさは声ではなく、沈黙の中にある。

そして、その沈黙を“風”に変えてくれるのがエイト。

誰かの言葉で救われる瞬間が、彼にとっての“再生”なんだと思います。


兄弟の過去は痛みですが、その痛みがあるからこそ

次に吹く風は、きっと優しい。


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