番外編 じいちゃんの「虎の巻」
少し難しいけど、読むたびに「野球の音」が聴こえてくる。
【ゴロ】
「ゴロってのはなーー地を這う獣だ」
ノートの最初の一行に、タイチは思わず息を呑んだ。
打者が放った打球が地を噛み、土を裂き、低く走る。
その姿は夜の黒豹。
守備のわずかな“隙”を嗅ぎつけ、獲物のように塁を這い進む。
【引っ張る】
「紐を引く話じゃねぇ」
右打者ならレフトへ、左打者ならライトへ。
全身の力を片側へ叩きつける。
“引っ張る”打球は、意志を持った閃光。
真っ直ぐ、観客席へと突き抜ける光の矢。
【流し打ち】
引っ張りの逆――だが、それは逃げではない。
投手の球を受け流し、風のようにいなす。
軽やかに、しなやかに。
外野の守備を翻弄するその打球は、
“風に溶ける技”と呼ばれる。
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【芯】
「鉛筆じゃない」とノートは笑う。
振動が一瞬で消えるーーそれが“芯”。
音も、痛みも、衝撃も消える。
ただ打球だけが、空を裂いていく。
そのとき、観客の声すら止まる。
【詰まった】
手元に近い音が鈍く響く。
“カンッ”ではなく、“ゴスッ”。
バットが悲鳴を上げ、ボールは失速する。
打者の胸に焦りが走るその瞬間、
グラウンド全体がため息をつく。
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【敬遠】
強打者を避ける勇気。
塁を埋めてでも、チームを守る選択。
それが“敬遠”。
逃げではない。
戦略だ。冷静な、勝利のための一歩。
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【申告敬遠】
四球を投げる必要はない。
ベンチの一声で、歩かせられる時代になった。
2018年、プロ野球から始まり、
2020年には高校野球にも広がった。
新しい時代の戦術。だがその裏で――
“真っ向勝負”を望む者の拳は、静かに震えている。
【低反発バット】
2024年春。高校野球は、新しい音を手に入れた。
金属音ではなく、鈍く、重い“ドンッ”という衝撃。
怪我を防ぎ、投打の均衡を保ち、
そして投手の腕を守るための“進化”。
“低反発バット”は、野球をより純粋に、
人間らしい戦いへと導いた。
【DH制度】
2026年、新たな役者が戦場に立つ。
守備を捨て、打撃だけで勝負する男。
Designated Hitter――指名打者。
己の一振りで試合を動かす、攻撃の剣士。
その背中は、勝利だけを見つめている。
【盗塁】
塁間は18メートル。
だが、その距離に“命”を懸ける者がいる。
捕手の送球より早く、野手のグラブよりも先に――。
走者は一瞬の稲妻となる。
これが“盗塁”。
時間の壁を超える、刹那の芸術。
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【牽制】
投手の視線は、蛇のようにランナーを締め付ける。
「逃がさない」ーーそれは無言の宣告。
アウトを取るためだけじゃない。
心を揺さぶり、足を縛る。
それが“牽制”。
心理戦の極致。
【タイムリー】
仲間が塁にいる。
打てば勝つ。打てば泣ける。
“タイムリー”とは、想いの連鎖。
チームの祈りが、一打に集まる瞬間。
その音が響いたとき、スタンドは爆発する。
【サイン】
言葉を捨てた会話。
監督の指先、捕手のまばたき。
わずかな動きに、作戦のすべてが宿る。
“盗む”ことは許されない。
それは、野球における最大の禁術だからだ。
【右中間】
宇宙ではない。
ライトとセンターの狭間に広がる、夢と絶望の空白地帯。
そこに飛ぶ打球は、守備の網をすり抜ける。
試合を決するのは、たいていこの“右中間”だ。
人生も同じ。ど真ん中じゃなく、“狭間”で勝負が決まる。
【変化球】
ストレートだけが正義じゃない。
カーブ、スライダー、フォーク……。
投げ手の数だけ軌道があり、魂がある。
ある者は言う。
「真っすぐすら、もう一種の変化球だ」と。
野球の言葉は、すべてが「人の生き方」に通じている。
逃げてもいい、詰まってもいい、たまには流してもいい。
だけどーー“芯”で捉えたときだけ、何かが変わる。
この「虎の巻」は、ただの技術書じゃない。
じいちゃんが、タイチに残した「生き方の辞典」だ。
風を掴む者へ。
そして、野球をまだ信じているすべての人へ。




